書きたいことは色々あるのに。
数日前に国立近代美術館の「エモーショナルドローイング」展に行ってきました。
今日は九段下にある山種美術館の「描かれた動物たち」展に行きました。
画家さんの取材もしてきたのでまずはそれからアップしていきたいと思います。
画像は描かれた~展にあった上村松篁(うえむら しょうこ)の「白孔雀」。現物は純白の羽の透けた表現が見事です。美にも色々あると思いますがこれは上品な美しさですね。
余談ですが私は醜さの美というものにも惹かれます。
展覧会については後日詳しく書きます!
月が好きです。
本物を見るのも好きだけど、写真集が特に好きです。
自分で肉眼で見る時よりも大きくはっきりと見えるから。
まだ二冊しかないですが自分でも持ってます。
上は西島善和さん、下は林完次さんの写真集。林さんの作品集の方が書店ではよく見かけるかもしれませんね。
「銀の月」は月が主役のモノクロームの世界を映したもの。本当に綺麗な写真ばかりです。珍しい瞬間を撮ったものが多く載ってます。
これとか、秀逸ですね。陰になってる部分の輪郭まで見えてる。
技術を駆使して面白い写真も撮ってます。
これはわかりにくいけど上の方に灰色の月がポツリ。
私の写メの腕が悪いだけで本物はもっとずっと素晴らしいですからね!
モノクロの写真って好きだ。動きのある写真でも時が止まっているように見えて。
「月の本」の方は、月のカラー写真に加えて、月にまつわる話がいろいろ載ってます。民間伝承や神話から、歴史的、科学的考察に至るまで。とても面白いです。月好きにはたまらない。
ところで私は写真集を見るときはやたらシチュエーションにこだわります。(画集や普通の本などは全くこだわらないんですが・・・なぜなんでしょう^^;;)
この写真集はどちらも、夜更けに寝る準備を全て終えてからベッドの中で明かりをほんのりつけながら静かに眺めたい本です。音楽は何も流さずに、リラックスできるアロマでも焚いて。目が冴えているなら「月の本」をじっくり読み、もう寝れそうなら「銀の月」を眺めながら眠る、みたいな。
冬だと現実の世界も空気が澄んで星や月がよく見えるので読むには冬が一番いい季節ですね。
あと、たまに考えるんですが、月の中のウサギの話。日本では月の影をロマンチックに解釈して、月の中にウサギがいて、餅をついてるなんて言い伝えがありますが、他の国ではカニ説や女の子の顔説などいろいろあるそうですね。
あるうさぎが月に恋をしました。
うさぎはどうしてもどうしても月を傍で見たくて、自慢の後ろ足で一っ跳びしましたが、全く月には届きません。
月は空のとてもとても遠いところにあったのです。
それを見ていた神様はうさぎを天に昇らせて月の中へと住ませてあげました。
こうして月とうさぎはいつも一緒にいられるようになりました。
でも、月の中に入ってしまったので、もううさぎには月が見えなくなってしまいました。
うさぎは悲しくて泣きました。
月を本気で好きだったうさぎは、月の中で、月を想って泣いていました。
こんな感じの話があったらちょっと素敵。ハッピーエンドではないですけど。ええ、全て私の妄想ですが。
こういう系の話だとウサギが一番しっくりきますね。女の子でもいいけど。カニじゃちょっとねえ。カニが空昇ってもねえ。
こんなことを日頃考えてる私は非生産的なのでしょうか・・・。まあいいか。
どんどん日記がくだらなくなっていきますが、次は取材の記事を載せますよ!笑
昔乙一の小説にハマったことがありました。
あの独特の世界観が好きだったんですが、ライトノベル出身ということで世間では賛否両論あるようですね。個人的には好きです。
「失はれる物語」という短編集の中に「しあわせは子猫のかたち」という作品があるのですが、その中で初めて読んだ時からずっと心に残る台詞がありました。先日読み返してて改めていいなあ、と思いました。
装丁も凝ってて面白いです。
幽霊の女の人が、世界に諦観を抱く主人公に向けて書いた手紙の一部分です。(ちなみに恋人の間柄ではないです。)
「確かに、世の中、絶望したくなるようなことはたくさんある。自分に目や耳がくっついていなければ、どんなにいいだろうと思ったこともある。
でも、泣きたくなるくらい綺麗なものだって、たくさん、この世にはあった。胸が締め付けられるくらい素晴らしいものを、わたしは見てきた。この世界が存在し、少しでもかかわりあいになれたことを感謝した。わたしは殺されたけど、この世界が好きだよ。どうしようもないくらい、愛している。だからきみに、この世界を嫌いになってほしくない。」
別になんてことはない普通の言葉かもしれませんが、私の世界観と重なる部分があったので。
この世界というやつは生きていくには辛辣で冷たい代物だけれども、時折泣けてくるほど素晴らしいことに遭遇する時がある。だから生きていられるんだなあと思います。
周囲の人の存在も大きいです。
その人と見たものは美しかった。
その人と行った処は美しかった。
その人と過ごしたから、世界は美しかった。
というようなことがあります。
その人とは家族であったり友人であったり恋人であったりします。
美しい、とは私の中で全てのプラスの感情を包括した最上の形容で、同時に説明するのがとても難しい言葉です。
これからも美しいものが見れるといいな。
突然ですが、アーティストの中で、命をかけて作品作ってる人はいるんでしょうか。
いや、もちろんいるにはいると思いますが、どのくらいの割合なのかなって。
もし意図的にやっていて、それが好きな人は今回の記事は読まないことをお勧めします。
私は、個人的に作者の感情や生命の衝動が強すぎる作品は好きじゃありません。
私自身が人の感情をむき出しにされるのが苦手だからかもしれませんが。
もちろん生死をかけた状況の中で制作する人だっているでしょう。ある意味昔の巨匠なんて皆そうです。生活できるかできないか、戦争で死ぬか死なないか、首をはねられるかはねられないか、狂うか狂わないかの瀬戸際で描いたり彫ったりしてる人がほとんどだろうと思います。
そうではなくて、私が苦手なのは、意図的にそうした切迫感や生命力を注ぎこんでいる人。要は「重い」作品です。
わざとらしくて冷めてしまうってのもあると思いますが、私は、美術ってのはそんなに自ら血反吐を吐きながら死にそうになって命かけてやるもんじゃないと思うんです。基本的には。
私は今は創作側の人間じゃないので偉そうなことを言っている自覚はあります。でも自分が昔絵を描いていた時からその考えは変わってません。
感情やメッセージ性がこめられ過ぎている重いものよりも、「創りたいから創った」「美しかったから創った」もっと言えば「できちゃった」くらいの軽いスタンスの方が好きです。
コンセプトより創ることへの楽しさが伝わってくる作品の方が好きです。苦しそうな作品は、伝わってくるけど好きじゃない。「この人、作ってて楽しいのかな?」と思ってしまいます。
あ、ちなみに例えば戦争の絵画等で登場人物の感情がありありと表わされているのはむしろ好きです。物語性があって。作者の感情が剥き出しになると腰が引けてしまいます。
現代になるにつれてそうしたコンセプチュアルな作品や制作姿勢がどんどん増えていってる気がします。主題が抽象的になればなるほどその傾向も強まっています。ただ最近は具象であれ何であれ解説まで作品の一部として見なければならないような作品ばかりになっていますが。それも時代のあり方だとは思いますし、現代アートは面白いとも思えます。ですが、たまに見ていて疲れるときがあります。
そうした作品を見ていると、「気づいて!」「私は生きてるよ!」「伝えたいんだよ!」「○○なんだよ!」「こういう意図や考えがあるんだよ!汲み取って!」といった叫びや衝動がぶつかってきます。
普段から美学とか美術史とか学んで、美術作品の分析みたいなことばかりやってるからということもあるんでしょうが、ただでさえメッセージ性の強いものを鑑賞するとそのような叫びが非常に煩わしく思える時があります。慣用句ではなく文字通り耳が痛い、というべきでしょうか。目が痛い、かな?
読み取ったり、頭を使わなければいけない部分が多すぎて。
そういう時に昔の作品(簡単に言えば西洋ならルネサンスの宗教画とか。あくまで一例ですが。)を見るとなんだかホッとします。落ち着きます。目をやればそれだけですっと入りこんでくる。「ああ、これこれ」みたいな。笑
そこまで思うことは滅多にありませんが、たまに現代アート展巡りばっかしてるとそうなります。
現代アートは嫌いじゃないですし、色々な創作姿勢があって然るべきなんですけどね。
タイトルは特に意味はないです。笑
かけるっていろいろな意味があるなーと思って、美術の場合には何が当てはまるんだろうと思って書き出しただけです。
なんかよくわからん日記になりましたね・・・ごめんなさい。
だんだんできてきました。着彩。
水色の上に藍色でアクセントをつけます。際をぼかすかぼかさないか悩みましたが結局ぼかさない方がくっきりしてかっこいいということに。
輪郭を太く黄緑で囲み、文字はとりあえず終了。
次は人です。右下には手を突き出させて筒状の何かを持たせる予定です。
描いているうちに「帽子もかぶらせようか」「持たせるものは花火と缶とどっちがいいかなあ」と試行錯誤しながら決めていきます。その場の感覚に任せて描いていきます。
花火は赤色と決めましたが、青い文字の上から描くと透けてしまうため、薄い黄緑を塗ってから赤を塗ります。
よく発色しました。
結局赤とオレンジのグラデーションに。
途中、線が思い通りにいかなかったり、細い線用のいスプレーヘッドがなくなったりトラブルもありましたが、遂に完成。
今回は長丁場で、6時間半かかりました。
動画もあります。
TETSUさんのサイトにもつながってるので、是非ご覧ください。
http://www.jimule.com/gallery.htm
TETSUさんは制作中に何度も配色や構図について私に意見を求めていましたが、普段一人でやる時はそれが自問自答になるそうです。笑
描くものがどんどん変化していくのは、ライブでやることの醍醐味であると思いますし、その場の雰囲気に応じて制作するのもパフォーマーのあり方です。
途中にも沢山の人が興味を持って足を止めてくれました。
中にはオーガナイザーの人や、歌手その他のマネージメントをしている人、イベント開催に携わっている人などもいて、TETSUさんの絵を気に入り、名刺交換から始まり、CDのジャケット制作依頼や次回のイベントのパフォーマンス出演の依頼などの取引が交わされていきました。
つながりはこうやってできていくのか、と傍で見ていて思いました。業者間の提携、コラボレーションはこのような場でこんな形で行われることもあるのです。
私はライブぺインティングもグラフィティも生で触れたことはなかったので、とても楽しい時間を過ごせました。取材というよりずっと見てた感じです
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と手も楽しかったです。また機会があればTETSUさんのお手伝いをさせていただきたいと思います。
またまた取材ですヾ(@^▽^@)ノ
今回はグラフィティぺインターのTETSUさんです。
身近なもので言えば、よくガードレール下やトンネルなどで目にするスプレーで描いたあれです。
落書きという認識が広く流布していますが、あれは1970年代にNYで生まれたもので、一時世界中で流行し、あの独特のスタイルはデザインの一つとして確立しました。文化の枠組みに組み込まれたわけです。
もちろん許されていない公共物に描くのは犯罪ですが、目を見張るようなものを描くグラフィティのプロも出てきたこの時代、そのデザインは服飾装飾から建物の看板にいたるまでいろいろな場所で見られます。
日本でも現在は場所によっては建物の壁などを開放し、そうしたぺインターたちに表現の場を与えているところもあります。
TETSUさんは普段帽子やシャツ、名刺、フライヤー等のデザインをして販売しています。HPはこちら
時々クラブイベントなどがあると出かけてライブペインティングを実演します。
TETSUさんはもともとダンスをやっていて、何か違うことをしようと思ったときに、グラフィティが目に留まったといいます。その独特のデザインが好きで、周りで誰もやっていなかったこともあり、独学で描き始めました。
ただ量をこなしていればいいものが描けるというわけではなく、久々に描くと「これだ!」というものが出来あがったりします。以前我武者羅に描いていた時はスランプ状態に陥った時もあったそうです。今では描くペースは詰めすぎず空けすぎず、気を使っています。
TETSUさんのライブペインティングは、様々な色のスプレーを使って、その場の感覚でアドリブで構図や描くものや色を決めて作っていきます。「ライブ性」を大事にしているといいます。一枚描くのに早くて2・3時間。5・6時間かかることもあります。
さてさて、今回のTETSUさんのライブぺインティングは渋谷のclub asiaのバーカウンター横で行われました。その横にはメインステージへと続くドアがあるので、飲み物を頼むお客さんとステージを見に行くお客さんの目に留まりやすいい場所でした。
club asiaではこの日15:00~22:00の間に芸能関係イベントをやっていて、メインステージでは、歌、ダンスの発表、水着コンテストなどが行われていたようです。芸能関係のカメラも入っていました。
私はアシスタント兼取材人として同行したので、まずはペインティングの土台作りからお手伝いしました。まずスプレーで周りを汚さないようにシートを張り、
描くためのシート(黒いスプレーで下地塗りがしてあります)4枚を貼り合わせて一枚の大きなシートにし、
貼ります。描くシートが壁いっぱいの大きさだったためガムテープで留めるのに苦労
しました・・・
人が入ってくるまでに時間があったので道具を一式見せてもらいました。
スプレーのヘッドってこんなに種類があるんだそうです・・・スプレーの出方の細い太いはこれで加減します。
また、一番左のスプレーのキャップに小さい穴をあけたような道具は、それを装着すると、スプレーの霧がその穴を通ることで極細の線が描けるというスグレモノです。
色も沢山ありますが、あまり混ぜることはしないとのこと。どうしても混ぜたいときには、混ぜたい色の一方を冷蔵し、一方を常温でストローをつなぐと温度の関係で冷蔵の方が入っていって混ざるんだとか。何度も実験的に試してこうしたことを体得したそうです。
いよいよ開始。描くときは闇雲に描き始めるわけではなく、紙に構想も描きますし、ベージュやグレーなどの薄い色で輪郭(アウトライン)を描きます。間違えても乾いてから下地と同じ黒で塗りつぶせば修正可能です。
これは紙の下書き。下の顔を描くそうです。
言葉から描いていきます。最初の予定では「summer」だったはずが、sが大き過ぎてこのままだとフレームアウトしてしまうことに。
急遽sから始まる四文字の単語を二人で考え、「sent」にしました。「send」ではないのは、絵にした時にバランスが悪いから。コンセプトよりも視覚的なデザイン性・バランスを重視します。
今回はSarartで一番画像が多いかもしれませんね。笑
2に続きます~。
井上さんは最近「ハローアート」という団体を発足し、他分野のクリエイターとのコラボレーション企画を行っています。文学、絵画、映像、写真などを組み合わせて新たなものを創り出そうとしています。
画家の田中拓馬さんとの共同絵本製作もその一環です。
他の絵描きさんとも共同で絵本を制作しています。
これはそのうちの一つのひとつです。
「眠りの子犬」
とても可愛い本です。癒されます。
今もハローアートではコラボ絵本の作製が着々とされていて、来年のキッズエクスプレス21のコンテストにも出品する予定です。
伺ったお話では、異なるジャンルの芸術家が影響し合ったり、共同で制作したりして複合的に絡み合うことは、欧米では既に普通の潮流だそうです。日本ではまだまだ広まっていないので、それを先行して進めていきたいといいます。
精力的に様々な場で活躍している合間に、井上さんは自身の詩を海外で発表するために英訳もしています。むしろ思想の面では欧米の方がすんなり受け入れられるのでは、とも思います。
詩文学に全く詳しくないこともあり、また詩人さんの思考や存在がある意味ミステリアスであった私としては、今回の取材は新しく知ることも多く、知らない世界に少し近づけたかなと感じました。井上さんは自分の世界観を作品に表出するのにとても素直な人で、だから作品もすっと入ってくるのかなと思います。
「芸術とは頭より心に響くものであるべきだ」というポリシーは私の考えとも一致しました。
こんな文章ではご本人に怒られそうな気もしますが
、とても得るものが多かったです。これからも多分野での一層のご活躍を期待しています。
最近忙しくて更新できてませんでした
さて、以前取材した田中拓馬さん とコラボレーションもしていた詩人の井上優さんを取材してきました^^
この方です。
実はフリーランスのライターとしても執筆していて、今は詩や絵描きさんとコラボした絵本作りなどが主流だそうです。小説も手掛け始めていて、今は公募に送っている段階だとか。文字を媒体に広範囲で活動されています。
昨年は初詩集も出しています。詩人としては駆け出しですが多くの人の目に留まり、新聞や雑誌に書評が載りました。
初詩集 「生まれ来る 季節のために」
井上さんが詩を書き始めたのは高校生の頃。幸福感に満たされたときにそれが言葉を通じて溢れ出したのが始まりだそうです。しかし大学時代はロンドンに留学しファインアートを学びました。美術を諦めた時に、高校の頃から書いてきた詩という表現方法へ心が再び傾いたといいます。
留学中にクリスチャンになったこともあり、井上さんの詩にはキリスト教的思想の要素が表れています。それは詩集の端々に出てくる「ミューズ」「アダム」「葡萄酒の血潮」などそうした思想を示唆する単語だけでもわかるでしょう。
当然ながら西洋では珍しいことではないのですが、日本詩人の作品ではキリスト教的な要素がここまで明快に見て取れる作品は珍しいと思います。
だからこそ目新しく、このことも井上さんの詩が最初から人々の目に留まった一因なのでしょう。
言葉とはご自身にとって何ですか?という問いに井上さんは「言葉とは神です」と答えました。
これは新約聖書のヨハネの福音書に出てくる「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」という節に基づいています。
言葉に神性を付随させる考えは私は初めて知ったので興味深かったです。私はクリスチャンではないので理解も半端ですが、キリスト教では「神」は「全能性」も意味しますし、きっと井上さんにとってはその一言だけで自分にとっての「言葉」というものを
表すには充分なのだろうと思いました。
井上さんの詩には様々な観点から作られたものがあります。その視点は歴史、科学、物理学、生物学、天文学など多岐に渡ります。普段することの少ない物事の捉え方に、読んでいて不意を突かれたり、新鮮な驚きがあります。
そして非常に隅々まで表現が綺麗です。流麗といった方が正しいかもしれません。
井上さん曰く、美には拘るけれども、日常的に意識しているので創作の際に「綺麗な言葉を創ろう」とは思わないそうです。井上さん自身がロマン主義 文学の影響を受けていることもあるでしょう。
井上さんは、ロマン主義の幻想的な部分というよりも、真・善・美を意識して人間の本質的な面を追及し表すことに重きを置いているといいます。
英語で言うheart,mind,soulを突き詰めて表現したいそうです。
現代詩は中身がなく抒情が感じられなくなっており、、もう一度ロマン主義その他の今は「古い」とされる形に回帰すべきではないか、という思いがあるそうです。
とはいえ、ただ戻るわけではなく、現代詩のプラスの効果は汲み取り、吸収し、自身に還元していくことで新しいものを作り出したい、と仰っていました。いうなれば「新ロマン主義」でありたいと。
この詩集の「ポスト・モダニズムの光と翳の中で」という作品にも、
「時代はいつも 叫び声を上げている
見た目に美しいものばかり
愛してはいけないと
美に 理解が必要とされているね
それが愛の初めというから
愛と美は分かち難いと 解っていながら」
と書かれています。ご自身の考えを凝縮した言葉のように感じられました。
お話を聞いていて面白かったのが、井上さんの詩の作り方です。
まず、詩を作る時はカフェに行きます。そしてゆっくりとお気に入りの詩集を読んでいると、インスピレーションが湧き、ノートに何ページも一気に作品を書くのだそうです。
詩人は日常のふとした時に浮かび上がってきた言葉を書き留める、というイメージがあったのでわざと環境作りをするのが意外でした。
充実感があるときに詩を作るスタンスは学生時代から変わっていません。
この初詩集に関しては、キリスト教的要素と明るい面から滲み出る影を書きだそうとしたそうです。
現在は新しい詩集の制作にも着手していて、次作はまた違ったスタイルのものを造る予定だとか。
2に続きます。
乃木坂にある国立新美術館に行ってきました!今開催中の「静物画の秘密展」を見に。
静物画はまさに写実の中の写実です。大興奮でした。笑
作品はウィーン美術史美術館のものです。ここには神聖ローマ帝国・スペイン・オーストリアを支配したヨーロッパ最大の貴族ハプスブルグ家のコレクションが収められています。なので作品の出所もその三国に加え、オランダなどハプスブルグ家の支配下にあった国のものも多数あります。
そもそも静物画の起源自体は紀元前1世紀の古代ローマ時代にまで遡るわけですが、西洋ではずっと歴史画・神話画が一番上位の絵画として主要な位置を占めており、静物画が一ジャンルとして確立し受け入れられるようになったのは17世紀のオランダにおいてなのです。
オランダがまだネーデルラントと呼ばれていたその時代に、戦争を経てオランダはハプスブルグ家の支配から脱し、自力で独立を勝ち取ります。そのため愛国心や伝統への執着が一際強く、身近なもの、周囲の現実を描きとめようとして盛んに生産されたのが静物画というわけです。他の西洋諸国にはなかった静物画の流行が生まれました。
あまり知られていませんが、静物画にもいくつかの区分けがあります。また、静物だけではなく人物像が共に描かれることもままあります。
1.身近な事物の忠実再現、細密描写の静物画。
2.花の静物画。
3.市場や台所の静物画。
4.狩猟画。
5.静物と花を伴った肖像画(人物像に付随する静物をattribute/アトリビュートという)。
6.ヴァニタス画。
などです。
*アトリビュート・・・一緒に描かれる人物の性質・職業などを表す。富や虚栄などの象徴である場合もある。
*ヴァニタス・・・この時代に特に独立して流行した静物画の一形式。ヴァニタスはラテン語に由来する「この世の儚さ、虚栄」という意味で、死の象徴である髑髏が描かれている場合が多い。他にも書物は知、楽器は快楽、時計は時間、宝石や硬貨は富、花は美を象徴するものとして描かれ、そういったものも死の前では虚栄に過ぎないということを意味する。
「静物:虚栄」 アントニオ・デ・ペレダ・イ・サルガド
美術史にはほとんど出てこないマイナーな画家だが、ヴァニタス画では最高峰とされる画家にヘイスブレヒツという人物がいる。残念ながらこの展覧会には出てませんでした・・・。
さて、この展覧会、素晴らしい作品ばかりでした。静物画の画家はあまり名前は広く知れ渡っている人がいないのですが、今回はブリューゲルやベラスケスなど著名な画家の作品も出ていました。
この貝殻の表現素晴らしいと思いませんか?
「巻貝と二枚貝のある静物」 フランドルの画家に帰属
「四季の花束」 ヨーハン・ミヒャエル・プレトシュナイダー
「豹と禿鷹」 フィリップ・フェルディナント・デ・ハミルトン
画家名が静物画において認知されにくいのは、ある意味で静物画が作者の匿名性を必要とする種の絵画だからであると思います。もちろん隠しても滲み出る個人の特徴はあるでしょうが、「現実にあるもの」を「現実にあるように」描かなければいけないわけですから、強すぎる個性は逆に邪魔なのです。人物像のない静物画はおそらく余程の知識がない限りどの画家でも同じように見えるでしょう。
私はもしかするとそういった一種の謙虚さというか、作品と自己を投影させすぎない姿勢に魅力を感じているのかもしれません。没個性を以てして、執拗な表現をキャンパスで展開させる。なんともストイックじゃありませんか。
人物が共に描かれる場合、全てを同じ画家が描く場合と、複数の画家が得意分野で分業する場合があります。
たとえばこの「庭園の女神フローラ」では、人物と構図をピーテル・ファン・アフォント、草花や風景をヤン・ブリューゲル(子)が描く合作となっています。
ちょっと残念なのが、静物の表現が見事なのに人物が周りの事物から浮いてるというか、どうもしっくりこないものがあるんですよね。合作ならば描いている人が違うのでわかります。ただ、同じ画家が描いている場合は静物画専門の画家さんはやっぱり当社比として人物画がそこまでうまくない・・・(あくまで当社比ですが)からだと思うんですよね。もちろんどっちの場合でも、人物静物共にマッチしているものもありますが。
この作品なんかは全く違和感がないです。
「さかさまな世界」 ヤン・ステーン
面白いのが、下の作品「果物のある静物」に表れている「空間恐怖」の概念。
空間が残るのを恐れるように画面を余さず静物でうめています。これは当時のイタリア絵画に特徴的で、オランダ人の画家がイタリアでも活動していたことを示すものでもあります。
そして展覧会のトリは、巨匠ベラスケスの「薔薇色の衣装のマルガリータ王女」。
この絵を近くでよく見ると、顔や髪はタッチを出さず滑らかに、ドレスやテーブルクロスなどはかなり粗いタッチで描かれています。しかし少し離れて見るとこれらは互いに調和し繊細で優美な少女の像を造り上げています。これはベラスケス特有の描法で、彼が他の画家と一線を画した一因でもあります。
花瓶の表現も素晴らしく、生けてある花の色は画面の主要色と呼応しています。
どれをとっても遜色ない、ほれぼれするような展覧会でした!
ミュージアム自体も綺麗で洒落ています。レストランには企画展とタイアップした特製ランチコースなどもあるようです。
とても素敵な時を過ごせました
(この記事の画像の出典ははすべてウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展公式図録 東京新聞 に依ります。)
今日は東京都写真美術館巡りをしようと一人息巻いて恵比寿に来ました(*^-')ノ
ここは階によって異なる展示会が開催されてます。今日は二つ見るつもりで来ました。
で、一つ目。
「昆虫四億年の旅」という展示を見てきました。文字通り虫の写真展です。今森光彦さんによるものです。昆虫写真で有名な方なので知ってる人も多いんじゃないかと。
私女ですが生物好きなため虫に抵抗がないです。芋虫はだめですが。
なんだかんだでやっぱり蝶が好きです。綺麗。
あと側にいて動いてるのと写真家の技巧で画面に収まったものを見るのはまた違うよね…。案外世の女性も絵や写真だったら気持ち悪いと思わない人は多いと思う。
ただ拒否反応を起こす人がいるかもなので、代りに何の関係もない、昨日行った六本木ヒルズ夏季限定スカイアクアリウムの水槽の幻想的内装を載せておきます。笑
体の色が紫と黄色に真っ二つに分かれている魚が不思議でした。
で、昆虫展ですが。結構種類には詳しい方だと思ってたけどいやあ昆虫の種類ってすさまじいね…。
枝に擬態するカマキリがいました。細くて茶色くてカサカサ具合?も小枝みたいな。しかしカマキリはなぜあんな無駄にかっこいいのか。
シロセミっていう一方の翅が白で他方が透明な変わったセミもいました。
あとカブトムシの背中って周りの風景が移りこむほど黒いんだ、とか、周囲の色に合わせて色を変えるサナギ(色紙の上に置くと色に応じて赤青黄緑と様々に変化する)がいるんだ、とか色々知りました。
体の色も魚以上に劇的な組み合わせがあるし。
面白いと思ったのが、人とその他の生物とで(人との間に限定せずとも異なる生物種同士で)全く同じように色彩を認知しその効果を利用していること。
目立たせるために派手な色をしてる虫がいるじゃないですか。オレンジと青、緑と赤とか。虫に限らず鳥や魚もそうですが。
(話が反れますが、私が思うに目的が求愛であれ威嚇であれ、目立つために色彩を利用する生物は体の大きさが小さくなればなるほど多くなると思います。自然界では体が大きいだけで目立てますからね。孔雀は例外的ですが。)
そうした生物が持つ派手な色って大抵補色なんですよね。
絵画などでも画家は補色効果を利用してイメージを強烈にしたり印象づけたりしますが、自然界でも同じ事が起こっているわけです。
つまり赤と緑が隣り合っていた時、私達にとってそのお互いが鮮烈に見えるように、私たちと全く異なる構造の虫(や他の生物)にも鮮烈に見えるわけです。
ただ、「見える」という表現が適切かはわかりません。
専門分野ではないので間違ってるかもしれませんが、昆虫は目では色を認識できないそうです(種類によっては認識できるものもいるかも)。
視覚的認識の代りにどこか他の器管で色の識別をしているとしても、または識別の仕方が人間と異なるとしてもそれから感じられる効果(派手な色=危険・目立つ、など)は同じなわけです。
色は生物界において普遍的な認識に感じられます。なんか不思議です。
私は「色」というものにとても興味があります。特に色が及ぼす心理的影響に面白さを感じます。
学問的に色を勉強したことは今までありませんでした。
なので今、色彩検定用のテキストで勉強中です。今のところ検定は受けるつもりはありませんが。
科学的要素も入ってくるので簡単とは言えませんが、楽しいです。
さて、次は今からアメリカを舞台にした写真展に行ってきます♪ヽ(*´∀`)