この前行った浪江町の、小高(南相馬)境にある海沿いの貴布禰神社ですが、その宮司さんが「南棚塩の83戸が全流出」と石碑に書いていたのを見たのと、棚塩というのは、以前、東北電力が浪江小高原発を作ろうと計画していたことから、もっと詳しく知りたいと思っていました。

 

ここより南側にある請戸小遺構を見学中、案内の浪江町職員の方に聞いてみました。

 

わかったことは

〇貞観の地震で、津波が来た事実はあったが、震災まで、それは人々には共有されていなかった。遠浅の海岸なので、まさか津波が来るとはだれも思っていなかった。

〇原発は、今、水素ドローンなどの拠点として整備している場所(北棚塩)に作る予定だった。

〇反対派の中心人物、舛倉隆氏は、予定された原発の一番中心部の重要土地を所有しており、彼が反対している限り、原発立地は不可能だった。

〇今は、もう棚塩(南棚塩)は、災害危険区域として、家を建てることは不可能となった

(航空図、参考こちら

舛倉さんてのが、そういう存在だったのかと知りました。それは東北電力からしたら手ごわい。

 

その後、福島県立図書館で、恩田 勝亘「原発に子孫の命は売れない」1991 という本を閲覧してきました。

 

まず、反対したのは、放射線どうこうよりも、住民の頭越しに、当時の知事、木村守江氏が、「ここに原発つくる」と勝手に決めちゃったことのようです。住民からしたら、「聞いてねぇ!」ってなったことらしいですね。

そう考えると、東京電力の双葉大熊のほうは、どうだったのだろうか。まず、住民に話を持って行って、進めたのだろうか。

 

そして、調べるうちに、「どうも原発っつうのはあぶねえらしい。なんで浜通りに作るんだ。安全なら東京に作れっぺ」っていうふうになったようです。

 

しかしこの舛倉さんて方は、穏やかで上の言うことを受け入れる人が多い東北人の中では、珍しい方だったのだろうと思いますね。

 

こんな過激なことも言っています。

 

高木仁三郎×舛倉隆対談部分より。

舛倉「やっぱり、いちばんの味方は事故だ

高木「それを言うと、きわどい話になってくるなあ(笑)。事故が起こったほうがいいってことになっちゃうもんなあ(笑)。」

舛倉「うん、そう。毎日起こってもらっても、俺はかまわねぇんだ」

高木「それで死んじゃったら困るでしょ」

舛倉「いやぁ、死んだってかまわねぇ。俺は年寄りだもん」

高木「『俺』はいいかもしれないけど(笑)。息子や孫が死んじゃったら困るでしょ」

舛倉「そう、それで反対してるの」

高木「確かに、実際に事故が起こったら困るけれども、事故が教訓になるということはありますね。いくら理屈で言ってもわからないことでも、ひとつ何か実例があると、それによってよくわかるということがありますよね」

これは予言のようですね。震災2年後、原発誘致は断念となりました。

でも私からしたら、運動家とは、こういうふうに、何が目的かわからなくなる存在にも思えますけど・・・。「事故が味方だ」ってのは、やはり抵抗があります


それと、貴布禰神社の宮司さん、木幡輝秋さんの「浪江町棚塩の記録 鎮守貴布禰神社を中心として」2013 も県立図書館で閲覧してきました。

 

上は、昭和20年時点の分布図です。

 

この、貴布禰神社の右側に、⛩マークが、「移転」てなっていますが、黄金山神社が移転したのか?どうか?

黄金山神社のことは、話を聞いた浪江の職員の方もご存じありませんでした。

 

戦後の分布図も並列されてあり、神社のすぐ南側にあった住宅の方は、津波の犠牲にあったもようです。

 

そして、別の絵図によると、黄金山神社かどうかわかりませんが、貴布禰神社の東隣に、「地蔵堂」「宇賀神社」「籠堂」というのが書いてあるのです。これについても、著者の木幡さんならばご存じだろうと思います。福島市に住んでいて、当時で86歳とのことで・・・何か聞けないだろうか?