昔から「三日坊主」で日記を継続してつけたためしがない。前回ブログを買いてから、全く更新していなかった。

前回はパリ政治学院に交換研究中で、今はデリー大学にいるから、日本にいないときしか書いていないことになる。日本にいるときは、平日は授業や大学の会議、外部から依頼を受けた原稿や調査などもあって、身動きがとれなかった。

しかし、本来大学は、思考実験の場であると同時に、世の中に新しい考え方を流布する役割もあるはずだと思うようになった。自分の研究そのものには、まったく斬新なものがあるとも思えず、また、自分の文章力のなさを露呈するのもはずかしく、そのひけめからまあ、特に公開するまでもないだろう、ということで、月日が経ってしまった。

しかし、なんでもない日常をつづることも必要ではないかと考えるようになり、ここにブログを再開する。近々、ホームページの方も再開していきたい。

研究者にとって重要なことは、もちろん斬新的な研究ではあるが、私のように、世の中の仕組みについて研究している者は世の中に対して、未完成の研究や思考過程であっても積極的に「情報発信」をするべきである。

前置きはこのくらいにして、今私は、インドのデリー大学に1学期の予定で来ている。インドの新学期は1月にはじまって、4月末に終わる。5月は学期末試験。そして7月まで休みとなって、また8月から新学期、と欧米の大学とほぼ同じアカデミック・カレンダーで動いている。今回は国際交流基金の招へいで、日印の学術交流という枠組みで来させていただいている。

2月の中旬からこちらに来て、日本経済論やアジア経済論などの授業を大学院生向けに行っている。その授業の様子はまた今度報告するとして、この2週間ばかり頭を悩ませているのが突然の「停電」である。インドの電力事情はそれほど悪いわけではないと思うが、いま、学内様々な個所で工事が行われている。

今年の秋にコモンウェルス・ゲームという一大イベントがインドで行われることになり、デリー大学はスタジアムなどの会場提供をすることになっている。そのため、全市あげて大掛かりな工事が行われているということである。しかし、工事のおかげで、インターネットが使えなくなったり、電気が切れたりというトラブルが続発している。

インドはIT大国として世界市場に進出してきている。現にこのブログも、WiMAXという最新技術(場所を選ばない無線LAN技術)を使ってネットに接続している。しかし、最先端の技術がある一方で、ごく基本的なファシリティが普及していない、トラブル続きである。この二律性こそがインドの特徴の一つである。

二律性についてはまた今度アップしていきたい。

先日、国際協力入門という授業で、ホテル・ルワンダを観た。1994年のルワンダ大虐殺を描いた有名な映画だが、日本での知名度はあまり高くない。多くの学生は衝撃を受けていたようだ。学生の感想(の一部)を紹介しよう。


平和構築における国際社会の役割において、国連機関とNGOとでは大きな違いがある。ホテル・ルワンダを観て、その違いについて考えさせられた。以下それぞれの意義と限界について考察する。
①平和構築における国連機関の意義
国連機関の特性は加盟国全体の意思を集約し、全体で合意を生み出した上で国連機関として活動することができるといったものである。それゆえ、平和構築において国連機関は世界的な世論の流れを味方につけて活動することができる。
また国家の連合体であるため、大規模な活動が可能である。とりわけ、集団安全保障においては、国際秩序を乱す国家に対して、それ以外の加盟国が連合して対応するため、確実に国連軍のほうがより大きな力を持つため、各国は紛争を起こそうとは思わないであろう。同様に再発防止においても大きな意義を持つ。
②平和構築における国連機関の限界
しかし、国連機関はその特性ゆえに、限界をも持っている。国連機関は加盟国間で合意を生み出さなければ活動できない。それゆえ、加盟国間の利害が一致しない場合に活動に移ることができず、自国に利益がない場合には、活動することを躊躇しがちである。ホテル・ルワンダにおいては、途中国連機関が、難民たちが非難しているホテルから撤退するという場面があった。国連加盟国が、国連軍に参加している自国の隊員の命と、ルワンダの難民を助けることの利益を比較衡量した結果、自国の隊員の命を重要と判断したのであろう。
また、PKO活動においては原則、紛争当時国の合意を得ることが前提となるうえに、自国の隊員の安全を確保するためにのみ、武器の使用が認められる。それゆえ、積極的に紛争鎮圧に乗り出すことができないのである。ホテル・ルワンダにおいては、ツチ族がホテルに避難している難民達に襲い掛かろうとしている場合であっても、隊員で壁を作り守ることしかできず、町で殺戮を繰り広げるツチ族に対しても、何の対処もできなかった。
③平和構築におけるNGOの意義
 一方平和構築におけるNGOの意義は利害にとらわれず、草の根の活動ができる点にある。NGOは現地に根付き、住民とのつながりを築くことができる。それゆえ、国連機関では気づかない様な現地のニーズを汲み取ることができる。ホテル・ルワンダでは孤児院の子供たちを救出している場面が印象的であった。また、現地の住民とのつながりが深いため、共同活動ができる。
④平和構築におけるNGOの限界
 しかし、NGOにはそのようなメリットの反面、デメリットもある。NGOには国連機関ほどの予算や、組織がなく、大規模な活動ができない。例えば、報道により、世論に訴えることはできても、実際に平和構築の支援活動を行わせることはできないのである。また、ホテル・ルワンダにおけるルワンダほどに治安が悪化した状態では、自己防衛もままならず、活動することも困難である。

以上、平和構築における、国際社会の意義と限界について考えてきたが、国連機関とNGOそれぞれが、各々の意義と限界を持っている。それらを相互に補完しあうことによって、平和構築がより有効に行われるのだと思う。


先日、「脆弱国家論」に関するセミナーに参加した。フランス語ではEtat Fragileというが、これは英語のfragile stateの直訳である。因みに、日本語の「脆弱国家」も英語の直訳である。研究者、政策関係者が集うフランス人向けのセミナーだったが、いたるところで英語が飛びかう。Working Paper, Washington Consensus, Conditionality...因みに日本語でも、ワーキング・ペーパー、ワシントン・コンセンサス、コンディショナリティだから、同じことなのだが、これもグローバル化の一つなのだろうか。話がそれるが、一昔前までは、フランス人のインテリは「英語化されたフランス語」(日本で言うカタカナ語)に敏感で、できるだけフランス語らしい表現方法を見つけていたものだ。


会場で、Etat Fragileという言い方ははっきりしないから、Etat Vulnérableに言い換えた方がよいのではないかという意見が出た。確かに、リスクに対する脆弱性という意味をはっきりさせたいのであれば、英語でもそうだがvulnerableとした方が分かりやすい。ただ単に、国家機能が弱い、という意味であれば、「(連邦制の)アメリカもfragile stateだ」という意見が成立する。現に、アメリカの連邦政府が行う仕事は日本の感覚からするとかなり限定されている。警察、教育も基本的に州政府の仕事だし、司法にしても、そうだ。同じ罪を犯しても、州によって裁かれ方が異なる。ブッシュ知事時代に、テキサス州で死刑者数が急増したという話は記憶に新しい。


平和構築に関しては、いろいろな専門用語がさまざまな意味あいで使われている。定義に関して、コンセンサスがとられていないものも多い。平和構築とは何かについて、関係機関によって別々に定義されているのだ。それは、それらの機関にとって、都合のよい定義をなされているということ、要するに、お役所の縦割りなのである。UNDPにとっての、平和構築は「人間の安全保障」であり、世銀にとっての平和構築は「脆弱国家のガバナンス」だったりする。


また、今日はパリ政治学院で平和構築論に関する講演会を行った。集まってくれた人はパリ在住の日本人(新聞記者やテレビ関係者)が中心だったが、同じ日本人に対しても専門家ではない集団に対して、分かりやすく説明するにはそれなりの工夫が必要になる。ピントをはずれた質問に対しても、丁寧に答えなければならない。


社会科学分野の研究者は、広い意味のコンサルタント業だと思う。サービスを求めているクライアントは大事にしなければならない。