4月に勁草書房という出版社から単著『平和構築論―開発援助の新戦略』を出版する。どの位読んでもらえるか、正直不安であるが、ここ数年来やってきた仕事をとりまとめたものだ。


「あとがき」の一部を紹介したい。

-----------------------

「あの日」から6年後、2007年に再びニューヨークのグランド・ゼロを訪れた。数年前に訪れた際には、痛々しい「焼け野原」がむき出しになっていた世界貿易センタービルの跡地には、大きな星条旗が掲げられ、その下で3000名の犠牲者を悼む記念公園の建設工事が行われていた。グランド・ゼロの横には、仮の記念館が建てられ、あの事件で亡くなった消防士のヘルメットや、焼け焦げた携帯電話・クレジットカードなどが展示されていた。

開発経済論を専攻する私が、平和構築という分野を本格的に研究対象とするようになったのは、直接的にはこの事件に大きな衝撃を受けたことがきっかけであった。しかし、そもそも開発途上国との出会いは、学生時代のパキスタン旅行にさかのぼる。当時、パキスタンにはソ連軍に占領されたアフガニスタンから逃れてきた人たちが大勢暮らしていた。私が現地で出会ったアフガニスタン難民は、20歳前後の素朴な若者であり、祖国解放のために、ムジャヒディンとして戦うのだと熱く語っていた。その頃、ムジャヒディンはアメリカから武器を受け、ソ連軍と戦っていた。兵士の中には、アフマド・シャー・マスード将軍や、若きオサマ・ビン・ラディン師が居たという。

その後、日本の援助機関職員を経て、ワシントンの世界銀行に勤務して以降も、パレスチナ、シエラレオネなどの紛争国を担当することが多かった。パレスチナでは「あなた方、世銀はパレスチナ人の味方なのか、イスラエルの味方なのか」と詰め寄られる場面もあった。当時、アメリカ政府は世銀がイスラエルの利益に十分配慮したパレスチナ支援をしているか厳しく監視し、世銀にも圧力をかけていたのである。その世銀は、2005年に、イラク戦争を推し進めたウォルフォウィッツ国務副長官を総裁に任命している。

実務世界から引退して、大学に籍を置くようになって以降、日本の援助機関の依頼で、アフガニスタン、東ティモール、ネパールなどの平和構築に従事する機会を得た。日本としてどうしたら平和構築に貢献できるのか、調査して提言せよというのである。ところが、報告書執筆の各段階で、発注者である援助機関から多くの「修正要求」が入る。中には的を得た指摘もあるが、大方は組織としての利益を守ろうとするための検閲的な修正が多い。そのたびに、私は忸怩(じくじ)たる思いを繰り返してきた。同様の思いをしている大学関係者、コンサルタント業界関係者も少なくないはずである。

本書の執筆にあたっては、いかなる組織の利益あるいは国益にも左右されず、あくまでも開発経済論を専攻する一研究者の平和構築論を読者に伝えることにこだわった。その中で、もっとも伝えたかったことは、軍事的な問題に対して、非軍事的に関わり、影響を与えることは可能であるということである。そのためには、関係するアクターが協調して、一つのゴールに向かわなければならない。しかし、現状は、援助機関は組織益にこだわり、国家は国益にこだわり、協調を行うための大きな壁が立ちはだかっている。市民社会の力それらを打ち破るにはいたっていない、閉塞状況である。

この原稿は、所属先の早稲田大学から一時はなれ、フランスにあるパリ政治学院(シアンス・ポ)の研究室で執筆している。隣の研究室には南北朝鮮関係を専攻する、私と同世代のロシア人研究者がいる。その彼は1980年代末に、ソ連兵としてアフガニスタン・ウズベキスタン国境に駐留し、マスード将軍らムジャヒディンと戦っていたそうだ。ロシア人にとってのアフガニスタンは、アメリカ人にとってのベトナムに匹敵する、独特の思い入れがある。

時は流れる。次に私がグランド・ゼロを訪れる時には美しい木々に囲まれた記念公園が完成しているに違いない。その頃にはアフガニスタンやイラクにも、真の平和が構築され、人々に笑顔が戻っていることを願ってやまない。