子供の頃から、なぜ明智光秀は本能寺の変を起こしたのか、不思議だった。それが2020年大河ドラマの「麒麟がくる」になるなんて、時代は変わったな、と思いつつ、もうすぐ最終回。前半では本木雅弘さんの演じる斎藤道三の存在感が凄かった(他にも堺正章や岡村隆史などが印象的である)。
もうすぐ明智光秀のブームも終わることが想定されるし、本能寺の変はなぜ起こったのかは完全には解明されておらず、謎なので、いつも気になっていたので考えてみた。
本能寺の変の起こる少し前に、明智光秀は、武田家に勝った祝いのため徳川家康の饗応役をやることになったが、すぐに解任される(武田は山梨県で家康は静岡県なので長年対立関係にあった)。豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)が中国攻めをしており、その援軍に向かうことになった。毛利氏は広島城にいたが、山陰の方も領土下においており、出雲・石見方面を光秀は攻める予定であったようだ。これは、信長公記という信長側の記録ではなく、明智軍記という江戸時代の文献にあるようだ。自分は地元が、兵庫県の姫路のあたりであり、大阪に住んでいたこともあるが、福知山城は明智光秀の築いた城であり立派な石垣が残っており、庶民からも慕われる城主であったという。光秀は丹波のあたりと、滋賀県の近江坂本の坂本城を領有していたが、まだ敵地である出雲・石見を与える代わりに、丹波と近江坂本を返上するように主君である織田信長から申し付けられた。
これが本能寺の変の15日ぐらい前の出来事であったようで、実際に明智光秀は、中国攻めには向かわないで引き返してきて、本能寺に宿をとって少数の取り巻きしかいなかった信長を討つのである。信長自身も、桶狭間で油断していた今川義元を討つことにより、天下人の手前までは行くのであるが。謀反のあと、明智光秀は中国大返しをしてきた羽柴秀吉に討たれることになる。謎の一つは、羽柴秀吉が、信長が死んだことをすぐに信用したことである。実際には正しかったが、もし誤報であったなら、引き返してきた秀吉の命に関わる。中には秀吉黒幕説をいう人もいるが、そうでなかったとしても、秀吉から見ても、主君信長は、いつ身内から討たれても不思議ではないところがあったことになる。秀吉は、やはりそうなった、と思ったのだろう。
パワハラ上司だったからであるというのが理由の一つと思われる。
そもそも秀吉は、氏も素性もない人間であり、父は足軽でもあり百姓でもある。明智光秀は、土岐源氏の末裔であり名門である。実は秀吉や信長は、今でこそ歴史の授業でよく言われるが、実際に彼らが生きた時代ではそうでもなかった。例えば、今、アメリカというと多くの現代日本人はアメリカに好感を持つ人が多いだろう。しかし、アメリカ軍は第二次世界大戦で我々が戦った敵である。同様に、秀吉は信長の命を受けて、日本のあちこちを「侵略」してまわった。由緒ある多くの大名家が秀吉と戦ったが、戦上手の秀吉には勝つことができなかった。いずれにしても支配される農民階層は、大名が変わっても同じだったろうが、実は秀吉は侵略者であったのだ。
例えば荒木村重という伊丹城主(有岡城主)は摂津国(大阪と神戸)の主人であったが、信長とは最終的に対立した。播磨国でも、黒田官兵衛は、秀吉について出世して福岡城主となるが、由緒ある大名家は、いずれも成り上がりの秀吉を嫌って、これと戦った。なので、光秀も、信長に勝てば皆がついてくるかも、という算段もあったと思われるが実際はそうはならなかった面もある。
最終的に、光秀が心を決めた点については、本人にしかわからない部分もある。13000人の兵がいた。自分が敗れても、戦国時代であるから、兵たちが他の大名家に仕えて生き残ることもできるかもしれない。例えば、徳川家光の乳母である福は、朝廷から春日局の名を賜わったが、明智光秀の家来である斎藤利三の娘である(斎藤道三とは、別の系統らしい。斎藤道三は、かつての光秀の主君であり、斎藤道三のおそらくその父は油売りから大名になったようだが、道三は息子に討たれる。斎藤道三の娘婿が織田信長である)。
信長は、神仏をないがしろにするところがあった。イエズス会の宣教師のルイス・フロイスなどとは親交があったが、比叡山焼討ちをしたり、本願寺との長年の戦いがある。朝廷や将軍家は大事にしていた。将軍家については、一度廃された足利家を再興したこともある。その後将軍を廃したが、それ以上追い詰めてはいない。比叡山焼き討ちの任についたのは、光秀だったようだ。光秀は、命令だったので、信長のいうとおりしたが、その後街を再興し、坂本城を築いた。光秀自身は、愛宕神社に参るのが好きだったようだ。愛宕権現というものある。福知山を領地しており、それ以前に北陸に身を寄せていたこともある。博識なので、神様のルーツは、出雲大社にあることは熟知していただろう。もし信長の命令の通りすれば、出雲まで攻めて行って、坂本の街を焼き払ったように、逆らってくる出雲の神を信ずる人たちと戦わなければならない。そこで光秀は、信長のいう通りにして神様と戦うよりも、神様の側について、信長を戦う方を選んだのであろう。
その後どうなったかというと、秀吉なきあとの秀吉陣営は家康に負けた。そうすると、光秀の思いは家康に託されたということになるが、家康の後衛の徳川家は関東で神社に土地を寄進したり、保護をすることをした。天下太平の世は、徳川家が神様を信ずることを奨励したという形で、光秀の思いも、後世に残されたように自分は思う。よく、創作で、命令だから街を攻めるが、本心ではそうしたいわけではなく、その後の復興に尽力する、という場合もある。昔の人は今の人よりも、神仏に思いをはせることが多かったろう。光秀は、坂本でした思いを、出雲で繰り返したくはなかったのではないか、と思う。人々のために働く領主でありたかったのではないかな。