思い出のプロ野球選手、今回は鍵谷 康司選手です。 

 

昭和50年代に日本ハムに在籍した内野手で、守備のうまさで準レギュラー的に活躍しましたが、1981(昭和56)年の日本シリーズでは決勝打を放つ活躍も見せました。

 

【鍵谷 康司(かぎたに・こうじ)】

生年月日:1950(昭和25)年7月2日

入団:日本ハム('75・ドラフト4位) 
経歴:柳井高-大昭和製紙富士-日本ハム('76~'82)

通算成績:346試合 打率.248 133安打 0本塁打 29打点 6盗塁

位置:内野手 投打:右左 現役生活:7年

 

 

 

 

個人的印象

現役時代、こんな名前の選手がいるぐらいしか知りませんでした。

当時自分が通っていた小学校に結婚されて苗字が変わった「鍵谷」先生という方がおられて、それで鍵の字を「かぎ」と読むと知り、「かぎたに」という名字を覚えました。

そんなに目立った印象はなく、一軍半ぐらいの印象でした。

 

 

プロ入りまで

高校は山口県の柳井高校で、3年の春季中国大会で前回記事の奥江英幸投手(岡山東商)と対戦し完封され、甲子園とは無縁のまま終わりました。

 

その後社会人野球へと進み、大昭和製紙富士に入社し、都市対抗の常連として活躍しますが、ここでの在籍は実に7年間にもおよびました。

 

1975(昭和50)年のドラフト会議で日本ハムから4位指名を受け入団しました。同期入団には2位で行沢久隆選手がいました。

 

当時の日本ハムは球団名が変わってまだ2年目の時期で、それまでの旧「東映」色を一掃しようとトレードが盛んに行われていましたが、前年には大杉勝男選手がヤクルトへ、この年オフには張本勲選手が巨人へ移籍するなど激動期でした。

 

 

初期キャリア

入団時の背番号は「29」で、現役時代を通してこの番号で過ごしました。

ルーキーイヤーの1976(昭和51)年は26歳になるという大卒同期より3年遅い高齢入団で、ドラフト4位とはいえ初年からが勝負の年だったと思いますが、この年50試合に出場し、109打数25安打(打率.229)で2打点でした。ホームランは生涯0本につき、以後も打点のみを記します。

2番打者として度々先発出場しましたが打撃面の非力さが否めず、翌1977(昭和52)年は5試合で2打数無安打とほとんど出番がありませんでした。

 

3年目1978(昭和53)年は21試合で42打数11安打(打率.262)で1打点でしたが、これも1年目の半分くらいの出番・成績でした。

 

 

準レギュラー期

鍵谷選手のキャリアハイシーズンは1979(昭和54)年、29歳になる年でした。

この年は90試合に出場し、112打数29安打(.259)で11打点の成績を挙げ、2ケタ打点はこの年のみでした。29安打でしたが、20四球を選んでおり、三振よりも四球が多かったのはこの年のみでした。

初めて年間通して一軍で過ごし、ショートには即戦力として鳴り物入りで入団した高代延博選手が入りましたが、セカンドとショートで起用され、241機会連続無失策を記録しています。

 

1980(昭和55)年、1981(昭和56)年もほぼ同等の出番でしたが、試合数はいずれも半数そこそこで、1979年ほどの数字は残せませんでした。

 

そして1981年は入団以来初の優勝経験を得て、またチームが日本ハムになってからも初めての優勝でした。

 

巨人との「後楽園球場を本拠地とするチーム」同士の対決となった日本シリーズの第3戦、ここで鍵谷選手は最初で最後といってよいレベルで全国規模の注目を集めました。

それがこの試合での決勝二塁打を放った事でした。

当時の大沢監督の代打起用に応えて、見事なライト線の2点二塁打を放って試合を決め、最後は江夏豊投手が抑えで締めて見事に勝利し、江夏投手に駆け寄って祝福の握手をした途端に、江夏投手から左手で持ったグローブでポンと頭を叩かれる祝福を受けるシーンが見られました。「おぅ、やったなオマエ」そういう感じだったのでしょうか。

その後ヒーローインタビューを受け「年に1回、2回あるかの事(チャンス)」といい「定岡投手のスライダーにヤマを張って打った。ストレートだったらダメだった」とも語っていました。大沢監督も手厚く出迎え、勝利監督インタビューでも「鍵谷がよく打った」と絶賛していました。

結局巨人とのシリーズには最終的には敗れましたが、この大舞台で8打数3安打、決勝タイムリーでの2打点をあげた事は鍵谷選手の野球人生に当たった派手なスポットライトだった事は間違いないと思います。

 

引退

日本シリーズで大活躍をした翌年1982(昭和57)年でしたが、44試合出場で59打数16安打(打率.271)で4打点と、それまでより出番を減らしましたが、それでもまだ戦力としてやれそうには思いましたが、結局この年32歳で引退しました。

 

 

0本

先にも書きましたが、鍵谷選手は通算133安打を記録していますが、本塁打は「0」でした。

意外とあっさり引退したなと感じましたが、プロに入ったからには1本くらいホームランを打ちたかったのではないかな?と思いました。

 

引退後の消息はよく分かりませんでしたが、近年沼津のリトルシニアの監督をしていた事が分かっています。

 

↓1981(昭和56)年の選手名鑑より。

 身長166㎝の小柄な選手でした。

 この年の日本シリーズで活躍しましたが、この翌年

 には引退しています。