思い出のプロ野球選手、今回は三村 敏之選手です 

 

1970年代を中心に広島で主力選手として活躍し、上位打線で華麗な守備と共に昭和50年代のカープ優勝、日本一にも大きく貢献した選手です。

 

【三村 敏之(みむら・としゆき)】

生年月日:1948(昭和23)年9月19日
没年月日:2009(昭和21)年11月3日(61歳没)

入団:広島('66一次・ドラフト2位) 
経歴:広島商高-広島('67~'83)

通算成績:1,567試合 打率.255 1,245安打 149本塁打 490打点 49盗塁

位置:内野手 投打:右右 現役生活:17年
表彰:ベストナイン 3回('72、'75、'76)、カムバック賞('79)

規定打席到達:7回('70~'73、'75、'76、'79)

オールスター出場 4回('70、'72、'74、'79)

節目の記録 出場-1,000試合出場('76.10.22)、1,500試合出場('81.10.12)

      安打-1,000安打('78.5.30)
      本塁打-100号('76.8.11)

 

 

 

個人的印象

広島のベテラン内野手、自分が見始めた頃はレギュラーでなくなっていたかもしれません。代打から準レギュラー的な感じだったと記憶しています。主に二塁を守っていて、同世代の広島の同僚(山本浩二衣笠祥雄水谷実雄選手など)とは一線を画した線の細い、雰囲気に「濃さ」がない?寡黙な職人タイプだった印象もあります。

 

 

プロ入りまで

高校は広島の名門・広島商業高校で、3年夏で1回戦敗退でしたが甲子園に出場し、この時は1学年下の2年生エースとして後に阪神へ入った山本和行投手がいました。

この年、1966(昭和41)年の第一次ドラフトで広島から2位指名を受け入団しました。

 

 

60年代

高卒入団で当初の背番号は「48」でした。

1年目から一軍での出場機会を得て、42試合に出場し99打数18安打、打率.182で2本塁打7打点の成績を残しています。

 

その後、3年目まではほんの少しずつですが、各数字を伸ばしながらレギュラーを窺うといったところでしょうか。

 

 

レギュラー定着

4年目1970(昭和45)年が、それまでため込んでいたエネルギーを一気に解き放つかの如く「飛躍の年」となりました。

この年は背番号が「30」と軽くなり、それまでショートのレギュラーだった今津光男選手に代わって定位置を奪取しました。個人的には二塁手の印象が強いのですが、元は遊撃手だったのですね。

 

オールスターにも初めて出場し、初めて規定打席にも到達しギリギリの405打席でしたが、368打数96安打の打率.261で、9本塁打27打点を記録、盗塁も16とこの年だけ2ケタを記録しています。

打撃成績についてはさしてタイトルに縁はありませんでしたが、死球10がリーグ最多記録として残っています。2年後も実に19死球とこれもリーグ最多を記録していますが、意外にも球をよけるのが苦手だったようです。

 

それからは4年連続規定打席に到達し、広島のレギュラー遊撃手としてすっかり定着しました。

1971(昭和46)年は、それまでの「30」から1年で、背番号が「9」とレギュラークラスの126試合ほぼ全試合に出て、463打数100安打、打率.216でしたが15本塁打45打点の成績を残し、100安打と2ケタ本塁打はこの年初めて記録しました。

1972(昭和47)年は、規定打席に到達した全7回のうち唯一3割をクリアしました。これはセ・リーグ打撃成績で首位打者の若松勉選手の.329に次ぐ2位の記録でした。また、打席がキャリアハイの568で最も多く打席に立った年でもありました。

468打数144安打で打率.308、12本塁打39打点を記録し、安打数もキャリアハイでした。また2年ぶりにオールスターに出場し、初めてベストナインも受賞しました。意外にもゴールデングラブ賞は受賞していないのですね。

 

1973(昭和48)年は.269と大きく打率を落としますが、ここまで4年連続で規定打席に到達し、1974(昭和49)年はレギュラー定着後初の規定打席到達未達に終わりましたが、2年ぶり3度目のオールスターに出場しました。今年は新人の木下富雄選手が特に後半ショートのスタメンに起用されることが多く、規定打席に届きませんでした。ただし本塁打は14本打っており、連続2ケタ本塁打は維持していました。

 

 

広島初優勝の主力として活躍

1975(昭和50)年、カープが球団創設以来の悲願のセ・リーグ初優勝を遂げ、広島の街が大いに盛り上がりました。

前年規定打席を割り込んでいたものの、この年は復活して再び規定打席に到達し、122試合に出場、442打数124安打、打率.281で10本塁打42打点の成績を残し、3年ぶりにベストナインを受賞しました。

この年は、日本ハムから大下剛史選手が移籍してきて、二塁の定位置につき、盗塁王を獲得するほどの大活躍を見せましたが、先輩でかつ幼馴染でもある大下選手と、ここからしばらく守備では二遊間、打線では1・2番でコンビを組む事となりました。

日本シリーズでは阪急に敗れましたが、全試合先発出場を果たしています。

 

翌1976(昭和51)年には、唯一の全130試合出場を果たし、487打数131安打で打率.269でしたが、27本塁打69打点と現役生活で唯一の20本塁打越えを記録し、本塁打・打点ともキャリアハイでしたが長打力のある面も見せました。8月には通算100号本塁打を達成し、終盤10月には通算1,000試合出場を果たしています。

また2年連続3回目にして最後のベストナインをこの年受賞しました。

 

若手の台頭

1977(昭和52)年は、104試合に出ましたが3年ぶりに規定打席に僅かに届かず、347打数83安打で打率.239、8本塁打40打点に終わりました。

1971年から6年連続で2ケタ本塁打を続けていたのは意外でしたが、その記録がここで途切れてしまいました。

この年は、若手の木下富雄選手も台頭してきましたが、より脅威だったのは3年目20歳の新星・高橋慶彦選手の台頭でした。スイッチヒッターで足もあり、ショートのポジションを奪われる格好で二塁に回るようになりますが、そこにはまだ大下選手がいて、木下選手が控えていた状況でした。

 

1978(昭和53)年は更に出場機会が減少し、なんとか300打席は確保しましたが、261打数65安打、打率.249で11本塁打23打点の成績で、この年通算1,000安打を達成したものの、レギュラー定着後では初めて2年連続で規定打席を割り込み、30歳を迎えており、若手も台頭しというころで、大きな転換点を迎えていたといえました。

 

 

日本一とカムバック

30歳を過ぎて、このまま若手にポジションを奪われてしまうのか!というところで迎えた1979(昭和54)年のシーズンですが、見事復活して3番や5番などクリーンアップを打つ時期もあり、116試合出場で389打数112安打、打率.288で12本塁打60打点を記録し、実に5年ぶりにオールスターに出場し、「カムバック賞」を受賞しました。

規定打席到達、100安打以上、2ケタ本塁打、オールスター出場などはこの年が最後となりましたが、見事な復活を遂げました。

この年カープは4年ぶりのセ・リーグ優勝を達成し、日本シリーズは3割を超す打率を記録する活躍もあり、チームは近鉄を破り、前回果たせなかった日本一を初めて経験しました。

 

1980(昭和55)年以降は規定打席未達となりますが、89試合で119打数42安打、打率.211で3本塁打13打点に終わりました。

この年は2年連続カープの日本一達成となり、再び近鉄との日本シリーズでは最終第7戦で代打で登場し、逆転を呼び込むタイムリーヒットを放って日本一に貢献しました。

 

 

現役晩年、引退

1981(昭和56)年は前年より出番を増やしましたが、戦力らしい戦力としてはこの年が実質的に最後という感じでした。96試合に出て247打数56安打、打率.227で7本塁打26打点の記録を残していますが、ホームランはこの年の7号が最後となりました。

 

1982(昭和57)年は出場機会が激減し、57試合で74打数14安打、打率.189で0本塁打9打点でした。先発出場したのは15試合のみでしたが、通算1,500試合出場を節目として達成しました。

 

1983(昭和58)年は9試合で7打数無安打、打点も0の成績で現役生活17年、35歳で引退しました。

 

 

引退後はコーチを経て、5年間広島の監督として指揮を執り、長年広島を拠点に活躍を続けましたが、楽天のフロントへ招聘されるも健康上の理由で監督就任が叶わず、2009(平成21)年、61歳の若さで亡くなっています。

 

 

↓1981(昭和56)年の「カープ手帳」より

 前年はカープが日本一でV2を達成した時でした。

 その前年に主力として働きましたが、その後は代打や

 準レギュラー的な役どころが主となっていました。

 この2年後に引退しています。

 広島出身で現役も広島一筋でした。

 

                   

 

 

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