思い出のプロ野球選手、今回は片平 晋作選手です 

 

1970年代から80年代にかけて中距離ヒッターとして活躍し、王貞治選手にそっくりな一本足打法と、豪快なフルスイングで多くのファンを魅了した選手です。

 

【片平 晋作(かたひら・しんさく)】

生年月日:1949(昭和24)年8月5日
生年月日:2018(平成30)年1月22日(68歳没)

入団:南海('71・ドラフト4位) 
経歴:上宮高-東農大-南海('72~'81)-西武('82~'86)-大洋('87~'89)

通算成績:1,503試合 打率.274 1,181安打 176本塁打 601打点 10盗塁
表彰:Gグラブ賞 1回('83)
節目の記録:出場-1,000試合出場('83.10.20)、1,500試合出場('89.8.31)
      安打-1,000本安打('86.6.26)
      本塁打-100号('83.4.16)、150号('86.6.19)

オールスター出場 1回('80)

 

個人的印象

南海の強打の選手、です。

後に西武へトレードされ、そこで活躍機会を見る事が多くなり、王選手そっくりな一本足打法はやはり印象的で、また豪快で大味な印象もありました。184㎝の長身で一本足だったのですごく画になった、と感じたように思います。いろんな選手が一本足にトライしましたが、ほとんどが挫折していて、こんなきれいな一本足で魅了する選手はほとんどいなかったので貴重な存在でした。

 

最後は大洋で38歳になる年に移籍してきましたが、当時の大洋にホームランを打てるバッターが少なく、大ベテランでありながらまだまだ健在の活躍ぶりも目にしました。

とにかく打席に入ってくる度「豪快なホームランを打ってくれそう」で、そんなワクワクする選手でした。

 

 

プロ入りまで

高校は大阪の上宮高校でしたが、甲子園出場経験はないまま終わりました。当時の上宮高校はまだ甲子園出場歴がなく、初の甲子園は彼の在学時の10年以上も後の1980(昭和55)年だったので、これからの学校でした。OBには大先輩に一枝修平氏がいますが、同年代のプロ野球選手は少なく、下の世代に多く居るといった感じです。

 

大学は東京農業大学へ進学、父親が全農の所長だったという事で、これを継ぐような形で進学したといい、野球の強い大学ではなかったようです。

ここもまたOBには下の世代はいますが、同年代では広瀬宰選手が3つ上にいたぐらいで、プロで活躍した選手はあまりいないようです。

 

それでも大学では大型の左打者との評があり、1971(昭和46)年のドラフト会議で当時の南海ホークスが4位指名し入団となりました。

 

 

初期キャリア

南海ではルーキーイヤーとなった1972(昭和47)年、10月の1試合に代打で出ただけで、三振に終わっています。

実質的には2年目から一軍のキャリアを形成し、1973(昭和48)年は61試合出場、156打数42安打、打率.269で4本塁打18打点を記録しました。

この年南海は優勝、実質的なデビュー年で優勝を経験する幸運に恵まれました。

日本シリーズにも出場しましたが、4打数でヒットは記録できませんでした。

南海在籍はこの時の優勝が最後で、そもそも南海としてのチームの優勝自体がこの年が最後でした。

 

 

隔年で波のある成績

3年目1974(昭和49)年は更に飛躍し、82試合出場で200打数53安打打率.265、9本塁打26打点としました。

これから盤石のレギュラーへ、というところでしたが、1975(昭和50)年は失速して39試合の出場にとどまり、1976(昭和51)年は107試合と初めて100試合越えの出場を果たし、規定打席にはわずかに足りないながら、341打数84安打打率.246でしたが初の2ケタ12本塁打に43打点を挙げ、本当にレギュラークラスの働きをしました。

 

しかしまたまた翌1977(昭和52)年はわずか44試合出場にとどまり、この時にはバセドウ病を発症したといいます。甲状腺機能亢進症という事で、全身の臓器が常にフル回転する症状がおこる病気だといいます。

これを乗り越えて、翌1978(昭和53)年は再び100試合越えの101試合に出場、290打数71安打で打率.245ながら15本塁打37打点と一発の魅力溢れる打者へと定着していく事となります。

この年は前年まで定位置争いをしていた柏原純一選手が、当時の野村克也監督の退団騒動に伴って日本ハムへ移籍した事が大きく、競争相手は年上の小田義人選手となりました。

 

という事で、1974年からの5年間は、実にハッキリと活躍できた年できなかった年を交互に繰り返していました。

 

 

ベストシーズン

記録、数字的なものとしてベストシーズンといえるのが1979(昭和54)年で30歳を迎えるシーズンでした。

この年は本塁打以外のほとんどの項目がキャリアハイになっており、123試合に出場していますが、120試合を越えたのもこの年のみでしたが、シーズンを通してフルに出るという事が全体的にありませんでした。

444打数146安打で打率.329は打撃ベストテンの5位に入り、8年目にして初の規定打席が3割越え、しかも.329という高打率での記録となりました。

16本塁打68打点も見事な成績でしたが、この年の南海は門田博光選手がアキレス腱を断裂し、シーズンのほとんどを棒に振る状況でもありました。

 

 

オールスター出場

1980(昭和55)年も2年連続で規定打席に到達し、380打数101安打、打率.266と降下しましたが唯一の20本越えとなる21本塁打66打点を記録しています。

 

ホームランを量産していた印象が強い選手ですが、フルに出る事が無かった為、記録としては思ったほどではなく、シーズン20本塁打以上はこの年1度だけでした。その代わり2ケタ本塁打が多い(計10度)のでホームランバッターの印象が強いのかもしれません。

 

そんなこの年はプロ生活唯一のオールスター出場を果たしました。

第2戦と第3戦に全パの一塁手として3番で先発出場しましたが、この年は一本足打法からその着こなしまで色々と真似をするほどの憧れだった王貞治選手が現役最後に出場した年でした。普段はリーグも違いなかなか目にする事のなかった憧れの存在と夢の舞台で共演!至福の時だった事でしょう。

 

 

西武へ移籍

1981(昭和56)年は、それまでより出番が減り、3年ぶりに規定打席を割り込み、96試合で283打数77安打、打率.272の8本塁打35打点に終わりました。

 

このオフには2対2のトレードで、山下律夫投手、山村善則選手とのトレードで、黒田正宏捕手と共に西武ライオンズへ移籍する事となりました。

当時の西武といえば、球団創設3年を過ごして1981年にはようやく弱小っぷりを脱し、着々と優勝を狙うチームへ変貌を遂げようしている頃で、1982(昭和57)年には広岡達朗監督を迎え、いよいよ優勝を!という雰囲気に溢れた頃でした。

 

そんな時期にトレードでやってきた片平選手は33歳になる年でしたが、117試合に出場し365打数101安打で打率.277と再び規定打席に到達し、14本塁打47打点と見事に移籍1年目で復活しました。

そして移籍早々、西武は日本一を果たしました。

南海時代も実質的な一軍初年でリーグ優勝を経験し、新天地でも移籍初年で今度は「日本一」となり、巡り合わせの良さを感じます。

ちなみに背番号は「4」となり、この年初めてひとケタになりました。南海時代は22と25への不思議な変更でしたが、ひとケタの経験がなく、レギュラー扱いでなかったのかな?と子供時代感じたものでした。

 

常勝西武の戦力として活躍

西武への移籍後も順調な活躍を見せた片平選手は、翌1983(昭和58)年も2年連続で規定打席に到達し118試合出場、370打数103安打、打率.278で19本塁打55打点と、西武在籍時5年間では最高の成績を残しました。

この年には、現役生活唯一のGグラブ賞を受賞し、通算1,000試合出場100号本塁打という節目の記録にも到達し、34歳のシーズンにして充実した時期だったといえます。

 

1984(昭和59)年は西武5年間では最も出番が少なく、86試合出場で231打数62安打、打率.268で12本塁打42打点、と規定打席は大きく割り込み、前年1983年が最後の規定打席となりました。それでも2ケタ本塁打を残し打棒健在を示しはしました。

 

1985(昭和60)年は巻き返して103試合出場、327打数100安打、打率.306で10本塁打55打点を挙げました。規定打席不足ながら3割を記録し、100安打にも届きましたが、この年が100安打以上記録した最後の年となりました。

1986(昭和61)年もほぼ同様の成績で、規定打席不足ながら93安打、17本塁打45打点を挙げています。

この年は超高校級の新人・清原和博選手が入団し、一軍で起用するか二軍で育てるか論議はありましたが、最終的に前者となり、それまでの一塁から指名打者へ回っての出場となりました。また、節目の記録として通算1,000本安打150号本塁打を達成しています。

また、この年37歳になっていましたが、西武での5年間はすべて2ケタ本塁打を記録し、うち4度リーグ優勝、3度日本一と常勝軍団の戦力として見事な活躍を続けました。

 

 

大洋へ移籍

前述の清原選手の一塁手として定着があったり、また当時南海時代にコーチとして世話になっていた古葉竹識氏が大洋の監督に就任した事もあり、広瀬新太郎投手との交換トレードで、1987(昭和62)年に永射保投手と共に横浜大洋ホエールズへ移籍となりました。

38歳になる年で初のセ・リーグ在籍となりましたが、102試合出場で275打数82安打、打率.298を残し、13本塁打36打点を記録しています。2ケタ本塁打はこの年で最後となりますが、ここまで6年連続2ケタ本塁打をマークしました。

当時の大洋打線は外国人のポンセ選手こそ35本塁打をマークしたものの、他は途中加入のアドゥチ選手が13本で、日本人選手では片平選手がやはり13本で最多でした。他は高木豊選手が12本打ったものの2ケタ本塁打は他に居らず、38歳の大ベテランが日本人最多だった点に大洋打線の大きな課題がありました。

 

 

代打人生

1988(昭和63)年は新外国人パチョレック選手が入団した事もあり、61試合出場とかなり出番を落とし、また約半数は代打での出場となり、ひと振りに賭けるキャリアを積み重ねていきます。

この代打・片平というのがなんとも怖いものがありました。一発の魅力があり、一本足で来られると他球団のファンとしては怖い存在でした。この年135打数33安打、打率.248で5本塁打17打点でした。

また通算10盗塁しかしていないにもかかわらず、39歳になるこの年に最後の盗塁を記録しています。

 

1989(平成元)年、38試合出場しましたが、8/31に通算1,500試合出場の節目を飾り、その後3試合を出場しただけで10/18に最終出場となり、現役生活18年間40歳で引退しました。

ラストイヤーは40打数10安打で打率.250、1本塁打6打点でした。10安打中二塁打4本記録しているところがまだまだ長打力のあった片鱗が垣間見られました。

 

 

その後、西武でコーチやフロントなどを歴任しましたが、2018(平成30)年に68歳で亡くなられました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

西武在籍時のものです。

前年84年がやや出番が少なく不本意な成績に終わりましたが、ここからまた巻き返しました。

形態模写や人をだますことが得意というユニークな人柄が窺えます。一方でプラモデル作りが趣味だったそうです。

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村