思い出のプロ野球選手、今回は「石渡 茂」選手です。
近鉄初優勝時代のレギュラー内野手として活躍し、「江夏の21球」の時にも重要な役どころで登場した選手です。
【石渡 茂(いしわた・しげる)】
生年月日:1948(昭和23)年8月12日
入団:近鉄('70・ドラフト2位)
経歴:早稲田実高-中大-近鉄('71~'82)-巨人('83~'85)
通算成績:1,176試合 打率.249 800安打 53本塁打 280打点 84盗塁
表彰:ベストナイン 2回('77、'79)
節目の記録:出場-1,000試合出場('82.10.7)
オールスター出場 2回('77、'80)
個人的印象
近鉄のレギュラー内野手(ショート)、です。
ベテランになってから巨人へ来ましたが、ここでは目立たないながら渋い働きを見せていた印象です。
いつの間にか巨人に来ていた感じで、近鉄でいなくなってから引退したのかな?と思っていたら巨人へ移籍してたと知り、なんとなく良かった、とか思っていました。
プロ入りまで
この記事を書くまで知りませんでしたが、高校はナント早稲田実業高校です。
王貞治選手の8年後輩で、荒木大輔投手よりは16歳上になります。
近いところでは、大矢明彦選手の1学年下になります。
甲子園には出られなかったようで、大学は中大へと進みます。
この記事を最近upしている選手って結構中大が多いかもと感じます。
中塚政幸選手は3つ上で、水沼四郎選手は2つ上萩原康弘選手は1つ上といった具合です。同じパ・リーグで活躍した宇田東植投手や杉田久雄投手などが同級生でした。また榊原良行選手は1つ下になります。
東都大学リーグでは優勝を2度経験し、ベストナインにも2度選出されたといいます。
そんな経歴を引っ提げて、1970(昭和45)年のドラフト会議で近鉄から2位指名を受けて入団しました。
下積み時代
大卒でドラフト2位入団というと即戦力の期待が大きかったのではないか、と思いますが、ルーキーイヤーの1971(昭和46)年はわずか5試合の出場で、2打数無安打でした。
2年目1972(昭和47)年はナント一軍出場ゼロでした。
3年目1973(昭和48)年も出番があまりなく、21試合で32打数7安打、初本塁打の1本と2打点で打率.219でした。意外にも3年目でようやく初安打・初本塁打・初打点を記録したのでした。
一軍定着の足掛かりを掴んだのは4年目1974(昭和49)年で、95試合に出場し、179打数32安打、打率.179で2本塁打12打点、打撃成績はそれほどでもでしたが、13盗塁は立派な実績となりました。
レギュラー期
1975(昭和50)年に完全にレギュラーに定着し、ショートの定位置を確保しました。
前年もそういう状態ではありましたが、まだ伸びしろがあったというところで、
この年初めて規定打席に到達し、打率.209でしたが、122試合出場の363打数76安打で、2本塁打24打点でした。
この年から1980(昭和55)までの6年間が彼のキャリアのピークで、6年連続規定打席に到達しています。
1976(昭和51)年は、それまでの背番号32からレギュラー番号の「6」に変わった年でしたが、92安打で打率.259まで上昇し、6本塁打26打点を記録しています。
そして、唯一130試合フル出場したのが1977(昭和52)年でした。
500打数を越えたのはこの年だけで、508打数145安打と初めて100安打をクリアしたこの年の安打数はキャリアハイで、打率.285まで上げ、4本塁打ながら48打点まで上げ、打点もキャリアハイでした。盗塁16もキャリアハイでしたが、ここから3年連続で2ケタ盗塁を記録しています。
そんな大活躍もあってか、この年初めてオールスターに出場し、また「ベストナイン」も受賞しています。
30歳を迎える1978(昭和53)年は、打率.266で440打数117安打でした。500打席を越えたのは前年とこの年だけで、出番的なピークはこの2年だったといえます。
近鉄初優勝に貢献
1979(昭和54)年、念願のチーム初優勝を経験し、レギュラーとして活躍し優勝に貢献しました。
395打数111安打、打率.281で、11本塁打45打点の活躍でした。
ホームランはこの年がキャリアハイで、2ケタ本塁打はこの年のみでした。100安打以上を3年連続で記録してきましたが、この年が最後となり、盗塁10個で2ケタ盗塁もこの年が最後でした。
2年ぶり2度目のベストナインを受賞しましたが、これも最後となりました。
優勝に貢献する中で、いろんな記録を残しますが、選手としての峠はこのあたりを境に越えていくのかな、という感がありました。
「江夏の21球」ラストバッター
チームは念願の球団創設以来の初優勝を遂げ、そして広島東洋カープとの日本シリーズに突入します。
そしてここで、伝説のシーンの主人公になります。それも悲劇の主人公ですが…
それが「江夏の21球」です。
詳細は他サイトに譲るとして、日本シリーズ最終戦で広島が4-3でリードし、抑えの切り札・江夏豊投手が登板し万全の体制を敷くも、1死満塁絶体絶命のピンチを迎えました。
逆に近鉄にとっては大チャンスで石渡選手が打席に入り、バントの構えでスクイズを敢行するも、裏をかかれて球は大きく外され、これを無理やり当てに行くも届かず、三塁走者がアウトとなり、一気に2死2、3塁と状況が変わりました。
そして結局空振り三振を喫し、このシリーズ最後の打者となって日本一を広島にさらわれました。
そんな運命の分かれ道の主役を演じる事となった訳です。
パ・リーグ連覇
1980(昭和55)年は最後の規定打席到達となり、99安打でギリギリ100安打を逃し、以後到達する事はありませんでした。
この年は3年ぶり2度目のオールスターに出場し、これも最後なりました。
いわば、最後の力を振り絞るかのように、レギュラーとして全うし、2年連続のリーグ優勝に貢献した形となりました。
9本塁打47打点を記録し、本塁打は全53本のうち、78~80年の3年間だけで28本と半分以上を打っています。
彼の全盛期は77~79年で、もう少し広くとらえると76~80年で、大体現役生活の真ん中周辺30歳前後という事になります。
不調から控えへ
1981(昭和56)年は不振に陥り、定位置も若手に譲らざるを得ない状況となり、この年以降規定打席到達はなく、59試合の出場で25安打のみ、2本塁打13打点とすっかり控えの数字になってしまいました。チームも前年までの連覇が一転して最下位に。連覇時代に力を結集し、使い果たしたかのようでした。
1982(昭和57)年はやや復調し51安打で、90試合に出場しましたが、かつてのレギュラーの勢いはなく、福山雅治さんの義父である吹石徳一選手や若手イケメンの森脇浩司選手の台頭により、定位置確保が難しくなってきました。時に34歳を迎えていました。
巨人へ
1983(昭和58)年の開幕前にトレードが決まり、「あの」元祖甲子園アイドルの太田幸司投手と共に読売ジャイアンツへ移籍しました。トレード相手は巨人の無名選手で、現役生活も短く一軍実績のなかった選手でした。この選手プラス金銭という事ですが、これだけ実績十分な二人と無名の若手選手との不思議なトレードで、ほぼ金銭との話もあるくらいでした。
巨人では当時ショートにはベテランになってきていましたが、年下の河埜和正選手がいて、まだまだレギュラーとして健在の状況でした。その中でもそこそこの出番があって50試合くらい出て、同じくらいの打数で、ほぼ控えや守備固めといったところでしたが、要所を締める渋い存在として地味ながら活躍を続けていました。
そして1985(昭和60)年、37歳を迎えていましたが、それまでの2年間より多く出番が巡ってきました。
というのはレギュラーの河埜選手が阪神戦で痛恨の落球をして、その後立ち直りが困難となり、ここでサブだった石渡選手に出番が回ってきて先発出場機会にも恵まれました。巨人での過去2年の合算よりも上回る数字を記録するほどで、まだまだやれるという感じでしたが、後半岡崎郁選手など次世代を担う若手が次々に台頭してきて、巨人のショートは一転して激戦区となり、若手の活躍を見届けるかのようにこの年限り37歳で引退しました。
引退後は主にスカウトとして活躍し、少し年が上がってから再び現場に戻るなどしていました。
▼現役最後の年となった1985(昭和60)年の選手名鑑より
思い出が近鉄の優勝経験ではなく、巨人での殊勲打だったそうで。
推理小説のファンで、犬猫をあやすことが趣味とは意外でした