思い出のプロ野球選手、今回は「大橋穣」選手です。 

 

1970年代を中心に東映、阪急で活躍しました。特に阪急では、チームの強い時代に鉄壁のショートとして知られ、その華麗すぎる守備は名手として後世にも受け継がれているレベルの選手です。

 

【大橋 穣(おおはし・ゆたか)】

生年月日:1946(昭和21)年5月29日

入団:東映('68・ドラフト1位)
経歴:日大三高-亜大-東映('69~'71)-阪急('72~'82)

通算成績:1,372試合 打率.210 739安打 96本塁打 311打点 87盗塁

表彰:ベストナイン 5回('72~'76)、Gグラブ賞 7回('72~'78) ※遊撃手での7年連続、および7度受賞はパ・リーグ記録

節目の記録:1,000試合出場('77.8.5)

 

 

●個人的印象

強い阪急の名ショートです。

もっとバリバリのレギュラーかと思っていましたが、成績を見ると規定打席到達がたったの1回だけでビックリしました。

当時いた大選手と混同する事がありました。

ただ、自分がリアルで見ていた頃はもうあまり出ていなかったかも、というぐらい晩年は寂しい実績でした。

 

●プロ入りまで

高校は日大三高という東京の名門校で、甲子園には1年次に控えで出てから、3年春の選抜大会にも出ています。

その後大学へ進学、亜細亜大学へ進み、アジア選手権にも出て、東都大学リーグ記録となる通算20本塁打をマークする実績を引っ提げて、1968(昭和43)年のドラフト会議で東映から1位指名されて入団しました。

山本浩二、田淵幸一、星野仙一、有藤通世、山田久志、福本豊、加藤英司、東尾修…といった大活躍した選手に満ち溢れた「大豊作ドラフト」で1位指名された訳です。

 

●東映時代

ドラフト1位で入った東映で、1年目は1969(昭和44)年、いきなり122試合に出場し、規定打席にほんのわずかに足りない390打席に立っていました。打率.217で8本塁打、31打点の成績でしたが、97三振も喫しています。

その後も限りなくレギュラーではありましたが、一度も期待打席には到達しないまま、東映はわずか3年間で出る事となります。

 

当初は打撃がウリで入ったといわれていましたが、プロ入り後は一貫して低打率にあえぎ、14年間も在籍しながら最高打率は.229(1975年)で、規定打席に到達したのが1回だけ(1972年)という、この低打率ぶりが万全なレギュラーになれなかった大きな一因でしょうか。

昔の遊撃手は低打率の選手が多かったといいますが、ここまで極端なキャリアの選手はなかなかいないと思います。

規定打席不足かつ350打席以上が4回もあるという、いかにレギュラークラスでやっていながら完全なるレギュラーになれなかったか、という事ですね。

それでも東映での3年間で、二遊間を組んだ大下剛史選手との華麗なる連係は伝説となり、大下選手からの「グラブトス」を捕球し、二塁をアウトにして一塁へ送球しダブルプレーを取るコンビネーションは当時を知る人々からいまだに語り継がれています。

 

●阪急へ

東映にドラフト1位で入団しながら、わずか3年で阪急へのトレードを通告されましたが、これは当時の阪急・西本幸雄監督の強い要望によるものでした。

 

1971(昭和46)年の巨人との日本シリーズで阪急は、阪本敏三選手が打球を捕れなかった事が流れを変えてしまった、としてショートの強化を検討中に、東映で華麗なプレーをしていた大橋選手に白羽の矢が当たる格好でトレードが成立、このトレードは阪急と東映の正遊撃手同士、正捕手同士の交換という大変不思議なものでした。

大橋選手と交換相手の阪本選手もここから約10年、流浪しながらも38歳になる年まで現役を続け、いわゆる「Win-Winな」トレードでした。

 

そしてこの阪急への移籍初年度の1972(昭和47)年、現役生活唯一の「規定打席」に到達しました。何回も書いていますが「これ1回きり」です!

しかもギリギリの405打席という…

打率は.216でしたが本塁打は初めて2ケタの15本を記録、打点42をあげて阪急のリーグ優勝に貢献、しかし巨人の壁は厚く日本シリーズでは勝てず、この時点で巨人は「V8」となりました。

それでも大橋選手にとっては、東映では縁のなかった「優勝」をこの阪急に来て、最高の形で初経験できた訳です。

 

翌1973(昭和48)年は規定打席にわずかに届かない393打席でありながら、17本塁打47打点を挙げ、低打率でありながら、ホームランは結構打つ、そんなキャリアを積み上げていく事となります。本塁打と打点はこの年がキャリアハイで、本塁打は翌1974(昭和49)年も10本を記録し、3年連続で2ケタ本塁打を記録したこの辺りが打撃成績的なピークであったといえます。

 

●日本一メンバー

強い阪急のメンバーとして活躍してきましたが、初めて日本一を経験したのが1975(昭和50)年で、初めてセ・リーグ優勝した広島東洋カープを破っての悲願達成で、この時もほぼレギュラーで389打席に立っていました。

 

「勝ち試合のみ」とかそういう条件で起用される事が多かったため、レギュラークラスの活躍をしていてもなかなか規定打席到達するような事がなかったといわれ、低打率の為、出ていても途中で代打を送られるとかあったのでしょうね。

 

そしてチームはというと、ここから4年連続リーグ優勝、3年連続日本一となり、「阪急黄金時代」の真っ只中にいました。

ただレギュラーに近い出番があったのが、V3の最終1977(昭和52)年までで、以後は少し出番を減らしていく事となります。

この1977年は通算1,000試合出場を達成していますが、このシーズン終了時点で通算600安打で、シーズン最多安打が79本(1975年)という、こと打撃面に関しては本塁打数以外は寂しい数字が並ぶキャリアでした。

 

●それでも受賞の常連…

規定打席に1回しか到達していないのに、ベストナインは1972年から5年連続で受賞しており、Gグラブ賞は制定された1972年から実に7年連続7回といういずれもパ・リーグ記録となる受賞をしており、これもまた異例中の異例かと思います。

 

守備の素晴らしさは勿論評価されてGグラブ賞を創設以来ずっと受賞し続けていたのでしょうが、ベストナインが5年連続というのがかなり意外で、他にもっと打ってる選手いなかったかな??となりました。

 

しかしその受賞時期は、「強い阪急」の時代とモロに被っていました…。

 

●晩年

少し出番が減って準レギュラー的になっていったのが1978(昭和53)年からで、少しずつ出番を減らしながらも踏ん張っていましたが、1981(昭和56)年のキャンプ中に肩を骨折した事が、彼の選手寿命を決定づけたといわれます。

その隙に?新人で入団した弓岡敬二郎選手がルーキーで全試合出場という快挙を達成する事にもなります。当然この年はほぼ棒に振り、翌1982(昭和57)年に打率.097に終わると、当時の上田監督からの引退勧告のような形で36歳で引退しました。

 

同年代で三遊間を組んだ島谷金二選手が、新鋭の松永浩美選手に奪われていくのと同じように、大橋選手もまた弓岡選手にポジションを譲る形となり、また阪急V3戦士の高齢化、上田監督の引退勧告のもとで大量にベテラン選手が引退していったこのチームはこの後急速に若返りが進んでいく事となりました。

 

 

低打率の事を結構書きましたが、生涯打率は.210で最高打率は.229と、逆に低い位置で安定していましたが、通算安打は739本に対して、本塁打は実に96本も打っています。打率は低かったものの一発の魅力があり、元々打撃面で期待された選手らしい実績が見えました。

 

●引退の前年、1981(昭和56)年の選手名鑑です。

 内野手として背番号6で名を連ねています。

 30代の選手が多く、阪急V3時代の生き残りが峠を過ぎ、この翌年に大量に肩を叩かれて引退する事となり、彼もその一人だったといいます。

 

 

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