思い出のプロ野球選手、今回は「辻 恭彦」選手です。

 

 

「ダンプ」の愛称で親しまれ、42歳まで現役を務めた捕手です。

 

【辻 恭彦(つじ・やすひこ)】

生年月日:1942(昭和17)年6月18日
経歴:享栄高-西濃運輸-阪神('62~'74)-大洋('75~'84)

通算成績:974試合 打率.209 418安打 44本塁打 163打点 8盗塁

 

●ダンプ

この写真の時が現役最終年のカードかと思いますが、42歳になる時のもので、それでもこのガッシリした雰囲気が伝わってくると思います。

実際にかなりタフで、また運送会社(西濃運輸)出身でもあったことから「ダンプ」というあだ名がついたそうです。

また、阪神には同姓で同じキャッチャーでもある「辻佳紀」捕手が居て、こちらは「ヒゲ辻」として後にタレント的に活動するほど有名になった人物ですが、゜ダンプ辻」「ヒゲ辻」がチームに並び立つ状態でもありました。

 

●個人的印象

大洋のベテラン控え捕手の印象はありました。世代的に阪神時代は知りませんが、大洋では福島久晃捕手がいて、その控えのイメージが強かったです。

大洋は他に伊藤勲捕手がいて、加藤俊夫捕手が移籍してきたり、若菜嘉晴捕手が移籍してきたり、高浦己佐緒捕手がいたりなど、とにかく捕手に関してはめちゃくちゃ充実していた感があり、今から思うと勿体ない気もしますが、そんな下でしのぎを削りながら、42歳まで現役を続けていたんですね。

 

●入団

高校は甲子園の古豪である愛知・享栄高校の出身で、甲子園にも出場し、社会人の西濃運輸では2年目を務めていた1962(昭和37)年の都市対抗終了後に阪神に入団しました。

当時はドラフトがなかった事もあってか、入団って色んな時期にあったりしたんですね。

 

●江夏用捕手

辻選手は選手時代のキャリアのほとんどを控え捕手として過ごしていますが、実質22年間の現役生活の中で、阪神時代の1971(昭和46)年の1度だけ規定打席に到達しています。そのたった一度が打率.193と1割台というのもなかなか珍しい記録だと思います。

実質デビューの1963(昭和63)年は4試合に出て、6打数無安打で、翌1964(昭和39)年は同じく4試合6打数でしたが初安打のみの1本で、.000以外の打率を記録しました。

この年阪神は優勝していますが、まだほとんど出番のない状態でした。

1965(昭和40)年は少し増えて9試合で6安打、初打点初本塁打もこの年に記録しました、共に「1」でしたが…。

少し戦力になってきたか、というのが6年目1967(昭和42)年に6安打でしたが、うち実に半分の3本がホームランで6打点を挙げています。

 

そしていきなり躍進したのが1968(昭和43)年でした。

前年に江夏豊投手が入団した事が大きな転機となり、「江夏専属捕手」的な役目を担う事でチームの貴重な戦力となっていきました。

この年、江夏投手は高卒2年目で前年いきなり12勝を挙げて主力にのし上がりましたが、この年は前人未踏のシーズン401奪三振の快挙を成し遂げ、この過程で常に辻選手がアシストしてきた訳です。この年がプチブレイクというべき、86試合出場で248打数63安打、本塁打7本で29打点を挙げて、それまでの実績から大きく伸ばして、これからという感じで躍進してきました。これにはもう一人の「ヒゲ辻」の不調と他の捕手の外野転向等もあったのですが。

 

●1度きりの規定打席到達

1971(昭和46)年、入団10年目29歳の年に唯一の規定打席到達をしています。

ベテラン時代の控え捕手的な活躍しか知らない身としては「規定打席届いた事あるんだ」と驚きでした。

阪神では、1969(昭和44)年に大型捕手である田淵幸一選手が入団し、前年戦力になって意気揚々としてきたところを削がれる形になりましたが、それでも前年に近い数字は残しました。

しかし出番は年々少しずつ減り、田淵選手の存在が大きくなっていきますが、この1971年は田淵選手が故障の影響で捕手としての出場が殆どなかった為、130試合フル出場し、たった一度きりの規定打席に到達、わずか.193でしたが自己最多8本塁打27打点を記録し、最良の年となりました。

22年のプロ生活の中で、規定打席到達が一度きりならば、100試合以上出場したシーズンすらこの一度きりでした。以後10年以上引退まで半数以下の60試合以上出場したシーズンは2回だけ(それも40、41歳の時)しかなく、そのくらい際立った一年となった訳です。

 

●控え捕手のキャリア

1972(昭和47)年30歳のシーズンですが、ここから長い控え捕手のキャリアが続く事となり、田淵選手の捕手復帰に伴い、阪神での出番が極端に減っていきます。

しかし見せ場は江夏投手の登板機会にあり、1973(昭和48)年江夏投手のノーヒットノーランにして延長11回まで0対0から、自身でのサヨナラホームランで決めた試合、このドラマに捕手としてアシストしたのが辻選手でした。

この翌年が阪神で最後となり、阪神でダブル辻だった「ヒゲ辻」こと辻佳紀選手が大洋に在籍していましたが、このヒゲ辻選手とのトレードで大洋へ移籍する事となりました。

 

●大洋時代

1975(昭和50)年に大洋へ移籍しましたが、ここには伊藤勲という同級の正捕手が君臨し、若い福嶋久晃という捕手が台頭してきていました。という事でやはり第三の捕手としてのキャリアが続く事となりました。

福嶋選手の台頭、レギュラーへの躍進と共に伊藤選手が南海へ移籍となり、第二捕手的な立場となり、1979(昭和54)年頃から少し出番が増えてきて、1978(昭和53)から2年連続で3本塁打を記録、1973(昭和48)年から0か1しかなかった本塁打だったので、控えなりに出番があった事を感じます。

 

●40代のキャリア

1982(昭和57)年には加藤俊夫捕手が日本ハムから移籍してきます。34歳の加藤捕手でしたが、35歳の福嶋捕手がこのあたりから出番を減らし始め、翌年には30歳になる若菜嘉晴捕手が移籍と、捕手のカオス状態となりますが、この2年間は100打席以上の出番があり、控えながら存在感のある捕手として君臨していました。

 

上の写真は1983(昭和58)年の成績が載っていますが、ただの控え捕手以上の成績を残していて、しかもこれが41歳の時の記録なので、ダンプのあだ名通り「丈夫で長持ち」を地で行った選手キャリアでした。

 

翌1984(昭和59)42歳になるシーズンも一軍の試合に出ていましたが、6試合で9打数無安打、さすがにこの年42歳で引退する事となりました。

捕手は選手登録が長く、殆ど実績のない試合に出ない選手でも長々と(いざという時の為に)現役登録されているケースがよくありますが、辻選手は40歳を過ぎるまで控えながら第一線で活躍を続けてきたのは、実に素晴らしいものがあります。

最後の出場は、やはり同じ年に引退した平松政次投手と同じ日でした。

 

 

このブログではおそらく1,000試合も出ていない(かつ500安打も打っていない)、タイトルも記録も特にない選手を紹介するのは初と思いますが、それでも印象に残る選手は数多くいる訳で、これからもこの連載は続いていきます。今は昭和10年代生まれで自分が現役時代の記憶のある選手を挙げていっていますが、そろそろ限られてきたかなというところですが、次回もまた宜しくお願いします。

 

 

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