「潮騒の聞こえるアルバム」
鹿児島に枕崎という港町がある。
白い空に両手を広げて、カモメが優雅に飛んでいる。
呼吸を荒げるほどに、潮騒が少しずつ近づいてくる。
九州を自転車で旅していた彼は、この町にたどり着いた。
羽を休めよう、そう思えるような優しい午後。
峠を1つ越えると、風に乗って、浜の香りが漂い始める。
そんな場所で彼は、何人かの漁師と出会った。
彼は、港に並べられた漁船に見とれながら、
沿岸をひたすら自転車で走っていた。
その漁港の切れ端に、なにやら騒がしい様子の白いワゴン車を
見つける。
彼は、ここでなら新鮮な魚が食べられると思った。
断られるのをダメ元で、漁師たちに声を掛けてみることにした。
すると、おじさんの1人が、こう言った。
「寝泊りするんなら、あの倉庫の脇がいいよ」
海沿いは風が強い。倉庫を探しているうちに、天気も崩れ始めてきた。
きれぎれの斜線。
彼は、急ぎ足で元のワゴン車がある位置まで戻った。
そして、図々しくも、この付近で美味しい魚を食べたいと言った。
オッサンは答えた。
「お前、船、乗れるか?」
彼は頷いた。そして、漁をすることと引き換えに、魚を食べさせてやると
言った。そのうえ、彼らは、ワゴン車の中に寝泊りする場所を提供した。
優しい人たち、そう彼は思った。
翌日、彼は船に乗り込み、漁に出かけた。
空は青く、海は波立つほどに光輝いていた。
漁師たちは彼に、底引き網の手ほどきをやってみせた。
延々と引き続ける網に、魚や海老、タコ、それから珍しいタツノオトシゴも
引っかかっていた。
一通り、仕事が片付くと、漁師は元の漁港へと戻る。
沿岸の脇では、ワゴン車が出迎えてくれた。
そして、徐に漁師のリーダーが5千円札を差し出した。
「これで、何かお前の食べ物も買ってきな」
スーパーに向かおうとした時、背後から、「ついでにビールも」
という声が聞こえた。彼は、手を振り上げてOKの合図をした。
買い物を済ませると、漁師たちは、ワゴン車を囲んで、
鍋に生きたままの海老や貝や魚を放り込んでいた。
片手には薩摩の芋焼酎。
すでにアルコールが回っている漁師もいた。
なんだ、と彼は思った。
騒々しさの原因はこれかと。
暫くすると、1人の女性が近づいてきた。
リーダーの奥さんだった。
彼をまじまじと見るや否や、奥さんは淡々と話し始めた。
「東京から来てるって、あなたね。話を主人から聞いていたの」
妙に親近感がある人だと、彼は思った。
彼女は続けた。
「うちにも、あなたと同い年の息子がいるの。今は横須賀の
米軍基地で働いてるんだけどね。
普段はこんな所に来ないんだけど、珍客がいるって聞いたから」
隣では、すでに大盛り上がりだった。
漁師の言葉がなかなか聞き取れなかった。
呂律が回ってないせいではなく、
港町に住む人特有の方言が入り混じっているからだ。
1人の黒縁眼鏡のオッサンが笑いながら話した。
「俺らの言葉、聞き取れるかい?フランス語の発音と似てるらしくってよぉ。
前にフランス人と話してたら、意気投合したんだ」
笑顔がたまらなく愛嬌に満ち溢れていた。
人間を感じずにはいられなかった。
奥さんは呆れた様子で、紅茶を手に取る。
彼は、その和やかな雰囲気に次第に溶け込み、
鍋に入れられた新鮮すぎる具がぐつぐつと煮え込む様子と
自分を重ね合わせていた。
「いい味が出始めた」
赤い鼻をしたオッサンが嬉しそうに彼の顔を覗き込んだ。
奥さんは、リーダーを指差して、話を続けた。
「あなたも幸せ者ねえ。そうそう、この人が言ってたのよ。
息子のように思えてくるって。同じ年齢っていうのもあるけど、
横浜にいて、ずいぶん会ってないからねぇ。
ところで、どうして旅に出ようと思ったの?」
彼は暫く考え込んだ後で、はっきりと答えた。
「わからないです」
リーダーはその直後に、フォローを入れた。
「若いから、何でもやりたがるんだ。男ってそういうもんだよ。
俺も昔は、大西洋と太平洋、イタリア、アメリカなんかを転々と
してたもんだよ。その頃から、もう海の仕事だったけどな」
リーダーは何でも知っていた。
漁師とは思えないほどの見識を持っていた。
酔いが回ってくると、息子の話からピタゴラスの定義、
ピラミッドの話まで飛び出した。
奥さんは聞いていない素振りを見せながら、
息子、という言葉にはちゃんと反応を示していた。
「この人は、教育熱心なの。息子がラサールに行って
悪さをした時も、さんざん担任の先生に文句を言って帰って
きたんだから。
『俺のほうがよっぽど教育できる』って。
熱心に息子に勉強を教えすぎて、本当に熱出して寝込んじゃったり
もしたのよ」
そう言っては笑う夫婦を彼は微笑ましく思った。
鍋に具がなくなる頃には、夜も更けてきた。
紫色の雲が、海の上を流れていた。
「お前、もう一晩、泊まっていくんだろ?」
リーダーはそう言って奥さんに肩を支えられながら、
千鳥足で自宅へと戻っていった。
翌朝、彼は、ワゴン車から出て、片付けを済ました。
昨晩のことを思い出しては、胸が熱くなるような気持ちが
ぐつぐつと音をたてて、煮込まれていた。
しばらくすると、見慣れた軽乗用車が、ワゴン車の前に
止まった。
リーダーが、近づいてさり気なく言った。
「もう行くんだろ?」
彼は、はいと返事をした。そして、徐にワゴン車に見とれながら、
記念に写真を撮ろうとした。
リーダーは制止した。
そして、次の瞬間こう言った。
「やめときな。そういうのは、心の中にとっておくもんだよ」
彼は、自分のしようとしていた行為を恥じた。
それと同時に、旅で残る色あせない気持ちをずっと
心のアルバムに閉じておこうと思った。
自転車の荷台に寝袋を括りつけた。
リーダーは顔を合わせようとせず、ひたすら黙々と
底引き網を手入れしていた。
「寂しいんだろうな・・・」
彼は胸の中で反芻した。
そして、旅立ちの時、彼は自転車に跨り、
こう言った。
「おじさん、ありがとうございました」
リーダーは口を噤んだまま、「おお」と返事をした。
戸惑いながらも、1回転目のペダルを踏んだ。
港から離れ、リーダーの背中が小さく映った。
彼は、もう1度、手を振りながら叫んだ。
「ありがとう・・。ありがとう!!」
リーダーの手が左右に大きく動くのが見えた。
湾岸に連ねる防波堤の隅に自転車が入っていく。
こうして、彼は漁師と別れた。
5年経った今でも彼は、あの時の出会いを思い出している。
ハンドルに滲む汗。
優しい海の波音と匂い。
そして、最後、南の港の片隅で、温かさに包まれたごつごつ
した手を。
今も心の中で映し出されるアルバムを。