とにかく、講演会で何かを学ぶことに飢えています。
必死で探し回り、見つけ次第、参加しまくり(仕事はどうした、仕事は)。
今回は以前読んだ多和田葉子さんの「献灯使」を、チェコ語、ポルトガル語、ドイツ語、中国語、韓国語、タイ語、英語、ロシア語、トルコ語(順不同)で翻訳、朗読するという企画。
翻訳とはなにかを考える面白いシンポジウムでした。
仕事と関係ないようですが、私のモットーは「世の中に無駄なものはない」なので、これだって仕事に引き付ければ、相手の話を理解するとはどういうことか、理解できない時にどうするべきなのかなどを考えるヒントになると思いました(たぶん)。
私は多和田さんの小説は翻訳不可能だと思っていたのですが、事実、本WSで紹介された各国の翻訳文は確かに「意味」はそうなのだろうけど、作品で重要な「言葉遊び」がほぼ翻訳できていないようでした。
これだと多和田小説を読む(見る)時の醍醐味、言葉が音と意味で解離し、様々な意味を乱反射させて物語が一気に多層的になるという魅力が伝わらない。
私が今読んでいるジョイスの「ユリシーズ」が、イマイチ、私にはピンとこないのもむべなるかなです。
訳注を読んでいても、多くの意味を含んでいるらしい原語(しかも英語のみならずイタリア語、フランス語、ラテン語などが交じりあう)を翻訳で読んでも・・・・という感じです。
もっとも私のリテラリシ―の低さと教養の無さのせいなのでしょうけど。
先ほど触れた擬音語や同音異義語をどう翻訳するかの議論が多い中、面白かったのが多和田さんがお聞きになったというあるタイの方の感想です。
この物語が「明るい、しかし緩やかな独裁のありようを正確に描いている」という主旨のご感想でした。
多和田さんは大変感心されていたのですが、私もええ!と驚きました。
ある作品が、国や状況が違うと、これほどまでに受け取られ方が違うかと。
どのように受け取るかは読者の自由と考えるのが、作品にとって、あるいは作家さんにとって、ある意味、生産的なのかもしれません。
プルーストも、文学は、「誤読」してしまうことを恐れず、自由に読まれるべきと考えていたようですし。
さて、表立って締め上げるように自由を奪う独裁ではなく、アジアに多い(らしい)「ゆるやかな独裁」(除:現在のミャンマー)があの小説の雰囲気にあるのだとすれば、日本の立法府がよく(?)行う「罰則のない規定」「罰則のない努力義務」、最近なら「要請=(お願い。命令ではない)」、あるいは私たちに根強くある同調性は、実はゆるやかな独裁(が言い過ぎなら、すすんで自縄自縛状態になる)を生み出しているのかもしれないのでしょうか。
そして、私たちはそういうことに鈍感になっているのかもしれません。
制度的には、選挙で私たちが選んだ代議士がいて、その代議士が立法の代表者を選び、さらに司法と行政は立法と独立しているので、独裁は無理なはずなのですが。
残念だったのが同じ漢字を使う国で「遣唐使」と「献灯使」がどう翻訳されているかがはっきりしなかったことです。
何かを<もらって運んできた>のと何かを<捧げて運んでいく/見送る>というベクトルの違いや、仏教を伝えてきた遣唐使と仏教の「お盆」を思わせる献灯の対称性、先進国<から>と超越した空間<へ>という宛先の違いなど、どのように日本人以外の方々に伝わるのかがよく分からなかった。
私は本作を「彼の地と此の地の狭間で、大いなる者が彼の地から此の地に降りようとする刹那の物語」と読みました。
これ、全くの誤読のようですが、私はこの線の読み方が気にいっているので、まま、これはこれで(と誤魔化す)。
あ、やっぱり、全然、対話の話になっていない・・・・仕事をしろ、仕事を。おれ。
でも面白かったなあ。
当分の間、こういう企画を探すことになりそうです。
何しろ流行り病で、どういう訳か博物館から何から閉まっているし。