仕事柄、言葉や意味について考えるのは大好きなので手に取った本書。

 多和田さんのご本は一冊しか読んでいませんが、ポリグロットの方特有の言葉や語そのものへのフェティッシュな構え、多彩色でイメージ豊かな物語、堪能しました。

 

 

 多和田さんの感性でなるほどと思ったこと。

 「青い手触り」のような表現にあうと大きな喜びを感じると。

 それは強烈らしく「激しい身体的な喜び」(p187)。

 ちょっと艶っぽいです。

 

 このエピソード。

 仏文研究者の郷原佳以先生が、高校時代にお父様の本棚にあったエリュアールの詩を手にとって(エリュアールの詩が本棚にある家!)、「大地はオレンジのように青い」という一節に、雷に打たれたような衝撃を受けたという逸話を思い出しました。

 

 

 さて、言葉の意味について。

 正確に理解するべきか。

 少なくとも文学を読む上では、必要ない。

 その言葉の「豊かさ」「喜び」を「味わえば」いい(p227)。

 以前、このブログで書いた横光やフローベールと同じ言語観だと思います。

 

 

 トーマス・マンのある作品の一文について(p196,221)。

 その文章で使われる「始まった」は、ドイツ語で普通に用いられる語でなく、<日常用品>を<開封する>のニュアンスがある語。

 そうなると、直線的な時間軸上の<開始>でなく<突如始まる>という印象になる。

 邦訳すれば「節目」になる名詞。もとの動詞が<切り込む>という意味なので<切れ目>といった方がいい(p196)。

 

 以上の単語が使われていることの意味を私なりに考えると、マンは、時の流れは自然発生的で、区切りは人為的であると表現したかったのではないかと。

 こういうことは多和田先生のように、しっかりとドイツ語を読めないとわかりません。

 

 

 ドイツでは意外にも夏目漱石より知られている(!)井上靖の文体について(p114)。

 禁欲的な文章なのに、突然「歌謡曲的な一節が現れ」て「ぎょっとする」。

 たとえば「美しい清らかなもの(略)を、この娘は(略)誰かに捧げたくなっている(略)誰かに汚してもらいたくなっている」。

 井上先生・・・

 

 

 あと、しばしば多和田さんは「美しい言葉」という表現をなさる(p15、144など)。

 「美しい言葉」(美しい言葉遣い、ではない)という言葉自体が、なんだか美しい気がします。

 

 

 ドイツ語を勉強している者として驚いたこと。

 

 ドイツ語の格変化について、多和田さんのご経験(p192-193)。

 車内放送で、前置詞の後なので3格になるべき名詞が1格のままになっていた。

 おかしいと、高齢の上品な女性が運転手さんに抗議したものの、運転手さんは「話し言葉だから」とどこ吹く風。

 ドイツでは2格や3格が滅びつつあるのだそうです! 

 

 

 ワーグナーの作品。

 私が大好きな「パルジファル」。

 ワーグナーは自身で脚本を書きますが、「パルジファル」は古風な文体なのだそう。

 たとえば、2格が頭にくる(p206-207)

 英語なら"a man of  the royal palace"が、"Of the royal palace a man"になるような感じ。

 日本語訳で、このニュアンスはどうしているのでしょうか。

 

 

 ドイツ語のVer~について。

 Ver~は「間違える」「逸れる」というニュアンスがあるそうです。

 なのでVerschreibenは「書き間違える」になる(p106)。

 

 あっと思ったのがBinswangerの、Ver-weltlichungという語。

 「世-俗化」と訳されていました。

 そもそもVerweltlichungが世俗化という意味なので、なぜ「Ver-」とされているのか分かりませんでした。

 でも多和田先生のご説明で考えると、「本来的世界(説明は略)」から「逸れる」ことが「世俗」と同じだとBinswangerは主張したかったのだろうと腑に落ちました。

 

 

 

 メンタルヘルス的に興味深かった点。

 

 人称の問題。

 これは自分の宿題用にページだけ(p136-138)。

 

 

 あと、ドイツ語の慣用句で「くよくよ考える」は「sich einen Kopf machen」だそうです。

 普通に「考えごとをする」は「sich einen Gedanken machen」(p77-78)。

 つまり、思考という機能を使うのと、頭部(脳?)という器官を使うのでは違うと。

 ドイツ人にとって「くよくよ考える」のは身体感覚優位なのかもしれません。

 

 

 言葉の意味の複雑さは大切だという多和田さんの主張の流れで、「言葉通りの意味」とは「安全な足場」である(p75-76)。 

 なるほど。

 「言葉通りに受け取ってしまう」という個性の偏りのある方がいらっしゃるのですが、このような方々は「言語世界に安全な足場がない」という特性があるのかもしれない。

 具体的には宿題にします。

 

 

 ちなみに多和田さんは、もしもお子さんが「美人と言われた」と喜んだら、「たとえブスと言われても、顔が美しければ同じでしょう」と返事をしたいのだそうです。

 他人の言葉にもたれかかるな、自分の言葉で考えろと。

 我が家の子育ての参考にします。

   

 

 あと、言葉ではないですが、男性性について印象に残った文章。

 「誇りを傷つけられた時に、憎しみの対象だけでなく、欲望の対象をも傷つけ殺してしまおうとするゆがんだ自己愛は、男性性の暗い影だ」

 エルンスト・ハニッシュという方の文章だそうです(p181)。

 嫉妬について考えるときに参考になりそうです。

 

 

 

 

 本書で多和田さんが、もっともおっしゃりたいだろうと思うこと。

 

 「文法に思考を譲り渡してはいけない」(p60)。

 

 たとえば「死ぬ」にこそ直接目的語をつけた方がいいのではないか(含蓄あります p60)。 

 他の例で「痛い思いをした」と多和田さんがお書きになったら、編集者さんから「心が痛んだ」と書き直した方がいいと指摘された。

 でも多和田さんの身体感覚は、あくまで「痛い思い」だったわけです(p91-92)。

 

 

 

 言葉について考えたいときに必読。

 

 

 

 

多和田葉子「言葉と歩く日記」

800円+税

岩波新書

ISBN 978-4-00-431465-3