仕事納め。でも明日もどうせ仕事だけど。
本屋パトロール中に見つけてしまった本書。
正直、このような理論的女性論は・・・と思ったのですが、勉強のために手に取りました。
別にフェミニズムに興味があるわけではないです。
患者さんに女性が多いからです。
そして、私には「分からない」ことが多すぎるからです。
おしゃれな表紙です。
第一章。
精神分析理論で女性がどのように論じられたてきたか。
本章は、現在、手軽に読める本の中で、もっとも簡にして要を得た精神分析的女性論の概説ではないでしょうか。
この第一章を読むためだけでも、本書を購入する価値は十分にあると思います。
ざっくり流れだけ。
まず悪名高きフロイトと直弟子の、男からみた女性論の時代。
ついでフェミニズム論者が精神分析を批判した時代(臨床と絡まないのでやや空振り気味な議論だと思うのですが、北村先生も同様のお考えのようです p19)。
そしてケアの倫理の議論が大きな転回点に。
精神分析の女性論は、一時期、男女平等の議論になった。
しかし、結局、これでは逆差別の問題を解消できない。
そして、現在は男女に差異があることは前提とし、しかも、どうしても二元論的に考えてしまうことを織り込み済みで、それでもなお考え続けるという、成熟した議論になってきているのだそうです。
したがって、多重的葛藤的な議論にならざるを得ない(p55-57)。
竹下先生が別の観点からお書きになっていたことと同じです。
本書で面白かったのが、今は使わないけれども”ヒステリー”が、セクシャリティーの問題という古典的議論に加え、最近は、母娘と父娘の関係性ではないかという議論があるという示唆。
オリヴィエ先生も指摘なさっていたし、フロイトのドラ症例がそうです(p31注12)。
これは重要な気がするので、自分なりに考えてみます。
本書で「そうだ!そうだ!」と思ったのが、そもそも精神分析は、男のフロイトが(主に)女性患者を治療して作り上げた理論なので、どうしても「男からみた女性」というバイアスがかかるという指摘です(p58-59)。
いままで漠然としていた、フロイトの女性論を、臨床抜きで批判するフェミニズム系の本を読む気になれなかった理由が言語化されました。
臨床で彫琢された理論は、臨床経験で反論しないと議論がかみ合わないと思うのです。
第二章。
無茶苦茶面白かったです。
臨床実例も含めての議論です。
へー!と思ったのが、フロイトは、自分の臨床で早期の母子関係が出てこなかった(なのでその点は考察してない/できない)とちゃんと書いていたこと(p72)。
知りませんでした。
よく指摘されるフロイト自身の問題も関係しているのでしょうが、大事なのはフロイトがその点を自覚し、自分の限界として書き残していることです。
すごいなあ、フロイト。
えらいなあ、フロイト。
さらに興味深かった点。
フロイトが自分の娘アンナを分析していたのは有名ですが、フロイトの女性論はアンナとの分析に依拠している可能性があるという某分析家の指摘(p72-75)。
だとすると、いわゆる「父の娘」(父への深い敬意と愛着から離れられず、生き方に大きな影響を受けてしまった女性。矢川澄子さんが平凡社からこのテーマの本を出していますが絶版)の、いわば病理を、フロイトは一般的な女性論と考えてしまったということになります。
これは面白い。
フロイトの女性論が、男の場合に比べてややこしかったり、どこかネガティブな理由の説明がつきます。
フロイトの女性論を見当違いと捨てさるのではなく、別の問題を考えるときの材料に出来るという点でとても生産的な批判だと思います。
他にも学びになる記述てんこ盛りですが、思春期をうまく通過できるかどうかに父親-娘関係も重要という指摘が興味深かったです(p83、95-96)。
それから、女性の方が治療者に向いているという議論が多いらしいのですが(p106-107)、私もそう思います。
第三章は日本の精神分析で重要な阿闍世コンプレックスについての詳細な議論。
精神分析がご専門の方ならば必読。
この章で「あっ!」と思ったのが、「女性治療者はなぜ出産について語るのか」です(p173)。
あるいは、女性アーティストは、なぜセルフ・ポートレイトを撮りたがるのか(p175)。
女性治療者が臨床を語る際、どこかで男の視点を挟み込んでいないか。
この大きな問題がすっぽりと抜け落ちているように思います。
非常に勉強になりました。
西見奈子編「精神分析にとって女とは何か」
2800円+税
福村出版
ISBN 978-4-571-24085-0