本のタイトルを見てさっと立ち読みし、お、これは・・と買うのが、私の本の購入の仕方です。
なので、本屋さんで実際に手にしない限り、私はほとんど南米大河さんを利用しません。
しかし、昨今の状況では本屋に行けない・・・
さて、パッと立ち読みして、うきうきしながら帰宅してじっくりと読んだら、思っていた内容と違うことがしばしばあります。
本書もその一冊でした。
「ケアとは何か」を考えたかったのですが、ケアに関する思想的位置づけに関する内容。
とはいえ、面白い議論もあり備忘録に。
本書は一貫してキャロル・ギリガン先生という(私は存じ上げません)方の議論に沿って展開しており、彼女からの引用も多い著作です。
ギリガン先生、フェミニズムがご専門のようです。
なにしろ本書の第一章、「『ケア』の主題/女たちの声」ですから。
まず、ケアの理論とは何か。
他者への関心によって形成される関係性。
個人は根本的に弱い存在であり、自立/自律して生きていけないので、相互依存の中で生きていくという人間観が前提になる(p19)。
うん、それは理解。
で、本書はまず歴史的振り返りをして、この業界の先駆者(なのかな?)ネル・ノディングスという方の「ケアリング」という本が俎上にのせられます。
なんでもケアは「母子関係をモデルにする」と主張されているそうです(p23)。
おっと、ここでアレルギー反応を起こす方がいそうです。
ただし、ケアは「話を聴く(受容)」「関係する(関係性)「関心をもつ(応答)」からなると論じられているそうで、これは多くの皆様も賛同なさるでしょう。
で、この「母子関係云々」の前提、本書ではもちろん批判されます。
では、ギリガン先生はどう考えたか。
いったん、遠回りになります。
ギリガン先生は、従来の「道徳」が「普遍性、合理性」「法」「感情を切り離す」で男性(的)論理である一方で、もう一つ、道徳があるといいます。
それは「責任の共有と人間関係の理解」「他者の幸福、相互援助に関わる」道徳。
女性の「道徳」です(p30-31)。
しかし、後者の第二の道徳は無視されがちであると(p31)。
なぜか。
社会が個人として自分を構築することに価値をおき、競争、規則、法の関係を重視しており、「もう一つの声」が重視されないから(p35、37)。
もう一つの声が、そう、ケアです。
これは、配慮と関係性で構成されている。
配慮は利他性と関連して自己性と衝突するし、関係性と競争や規則・法は必ずしも重ならない。
法に規定された関係性もありますが(市民と議員とか)、ほとんどが法が生まれる前からあった関係性に、後から法が被せられたといってよいと思います。
たとえば、民法の親子とか夫婦とかですかね。
ただ、この流れだと、露骨にフェミニズム運動に結びつきそうですが、ギリガン先生、「家父長制」批判とケアの問題は「異なる」と明確に述べています(p35)。
ケアはジェンダーの問題ではない、民主主義、多様性の問題だと(p35)。
さて、以上の議論を受けてのブルジェール先生の提言。
道徳は「正義=法」「論理=非人格性」という実践理性。
他方、「配慮」「関係性」「責任」の倫理、ケアの倫理がある(p37、43)。
そして、ケアの倫理は「女性の」倫理ではない。ジェンダーと絡まない(p52)。
とはいえ、ケアの主体の大半が女性という現実がある(p54)。
ちょっと、わかりにくい感じがします。
議論がアクロバティックというか、あっちに行ったりこっちに行ったりしている。
ちょっと、まとめてみます(誤読していたらごめんなさい)。
まず、正義、論理、競争の「道徳」で世界は動いてきた(動いている)。
私が愚考するに、資本主義の発達とともに所有や蓄財を重視する世界となり、所有権を保証する法と、いち早く財を入手するための競争が重要視されるようになったということでしょうか。
しかし、もう一つ違う倫理がある。
それが、関係性と配慮の倫理。つまりケアの倫理。
これは、平等、公平性、多様性の許容と、民主主義の根幹に関係する重要な倫理だけど、残念ながら軽視されてきた。
そして、この第二の倫理に関わったのは主に女性で、女性性と無根拠に結び付けられた。
とはいえ、この倫理のありようと女性性はまったく無関係ではないだろう・・・・という感じでしょうか?
では、わざわざ「ケアの倫理」を理論化しなくてはならないのはなぜかが、次に問題になります。
それはケアが女性の「自然な在り方」「私的なもの」とされ「労働」とみなされなかったから(p82、97)。
つまり、自ら、自主的に、自然にやっているのだから、「仕事」ではないでしょ、と。
しかし、今やケアは社会生活の中で重要な位置を占めている。
なので、これらが社会的に承認され(p97)、組織化(p82)されることが必要であり、そのための理論が必要なのだ、というのが本書の趣旨だったようです(・・・・たぶん その1)。
フェミニズムと近づいたり遠のいたり、微妙な感じですが、おっしゃりたいことはわかるような気がします。
第二の倫理の理論化の遅れは、この倫理に主に関わる女性の権利問題と深く結びつくということでしょう(・・・・たぶん その2)。
で、ケア倫理そのものはジェンダーの問題ではないけど、それの実践においてはジェンダーの問題が絡んで来るということだと思います(・・・・たぶん その3)。
うーんと・・・・読む本を間違えた・・・かな?
でも貧乏性だから、最後まで読んじゃった。
とはいえ、収穫もありました。
「法と正義の道徳」と「相互性・配慮・関係性の倫理」は別という議論、ちょっと、ハッとしました。
カントさんとかを読むときに考えたいです(本書の第二章でもカント、フーコー、ロールズなどの名前がちらほら出てきます)。
ただ、私的に疑問で、もっとも考えたかったのが、本書でも指摘されている「ケアにおける非対称性」です。
「世話する人と世話される人の間に権力の不平等がある」(p75)。
うん。
これ、どうするのか。
・・・ところが、本書では、この問題は女性問題に連結されて「配慮に関わる女性に対する男性の支配」と「支配」の問題になり(p75)、さらに支配の連鎖の中で、ケアを提供する人は、社会に支援を要求できる権利を担保していかなければならないという結論になってしまう(p78)。
ありゃ?
いや、ケア・ギバーに十分な支援をするべきなのは、大事・・・というより、もはや自明の問題だと思います。
ケアにおける非対称性は、どこに行っちゃったのでしょうか?
一応、このことは後半であっさりと書かれています。
配慮を受ける弱い人の立場にたち、関係を水平にしなければならない。
弱い人の必要に関心を持たなければ、関係は垂直(支配ですね)になってしまう(p114)。
いや、おっしゃりたいことをよーくわかりますよ。
相手の立場にたつ、相手のニーズを読む、でしょう?
でも、言うは易しです。
それを十全に行うには、どうすればいいのでしょう。
まま、クセジュ文庫ですから、ここから「自分でもっと勉強しろ」ということでしょう。
やっぱり、自分で考えないといけませんね。
ついでにもう一冊。
大御所アーサ―・クラインマンの「ケアすることの意味」です。
ここにちょっと面白いことが。
こちらにも「ケアとは何か」が記載されています。
・実際的な援助と支援
・承認・認められること
・肯定すること
・情緒的援助
・道徳的人間的連帯と責任性 (p123)
でも、もっとも重要なのが「現前性」、つまり「いること」です(p106)。
何か「するdoing」ではなく「いることbeing」が重要なのは、よく言われていることです。
クラインマンの定義はわかりやすい。
理屈はいいからとにかく現実的に動く。
相手を認める、肯定する、私の表現なら「敬意を忘れない」。
そして、単に身体的世話だけでなく、感情面にも十分にフォーカスをあてる。
私が面白いと思ったのが最後です。
「責任性」
これ説明がないのですが、たぶん「最後までケアを諦めない=関心を向け続ける」ということですよねhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12555897829.html?frm=theme。
もっと、どぎつい言葉を使えば、「最後まで放り出さない」。
大事なことです。
そうそう。
本書に面白い一節が。
「土着(原文ママ)の治療者は扱うケースの大部分をまちがいなく癒す」。
しかし、「現代の専門的な臨床ケアはたいてい、まちがいなく癒すことはできない」(p166-167)。
なぜでしょう?
ケアが関連するのですけど、ぜひ本書をお読みくださいな。
あ、クラインマンの方ね。
ファビエンヌ・ブルジェール「ケアの倫理 ネオリベラリズムへの反論」 原山哲、山下えり子訳
1200円+税 140ページ
文庫クセジュ
ISBN 978-4-560-50987-6
Brugere F: L'ethique du <<care>>. Collection QUE SAIS-JE? N 3903, Universitaires de France, Paris, 2013
アーサー・クラインマン、江口重幸、皆藤章著「ケアをすることの意味 病む人とともに在ることの心理学と医療人類学」
2400円+税 191ページ
誠信書房
ISBN 978-4-414-42866-7