ステイ・ホームで、積読がどんどん減っています。

 でも、だんだん仕事が多くなっていて、積読解消期間、そろそろ終了の模様。

 

 

 さて、本書。

 不思議な内容で、分類すると「エッセイ」でしょうか?

 著者であるパシェさんのお母さんが認知症になり、どんどん言葉を失っていく様を克明に記録したものです。

   

 認知症や言葉について考えたい方は、ご一読をお勧めします。

 

 

 冒頭から興味深いエピソードが。

 パシェさんのお母さん、ご自身の記憶をそうと分からず他人のエピソードとして「ラジオで聞いた」、そして「私の家族と同じ話」とおっしゃると(p5-23)。

 

 「聞こえる」という感覚性があるのは記憶の誤認にしては変だなあと思っていたら、読み進めるとパシェさんのお母さん、長らく失明に近い状態で、朗読を録音したカセットで「読書」をしていらしたと(p39)。

 ということは、記憶がもっぱら聴覚に依拠しがちになり、何かを思い出すことが何かで聴いたにすり替わりやすいということなのでしょうか。

 

 しかし、どのような感覚であれ、エピソードを「想起できる」けれど、それが「自分の」ものではないと感じるというのは、ちょっと不思議です。

 

 

 私の知る限り、認知症の記憶障害は、まず主に記銘力障害(入力障害=新しいことが入らない)から始まり、徐々に他の記憶力、保持や想起が障害されていく(想起障害=出力障害。なので、想起障害がひどくないと、入力に問題がなかった頃のこと=昔のことは思い出せたりする)。

 で、こうなってくると、出来事自体が「無かった」ことになってしまう。

 というのも、覚えているということ自体を覚えていないから。

 覚えていることを覚えていれば「ええ?そういうことあった気もするけど、よく覚えてないなあー」になる。

 言い換えれば、出来事の内容の記憶以前に、出来事についてのインデックスが存在するという記憶がなくなるという感じでしょうか。

 

 だから、認知症が進むと、唐突に思い出して「こんなことあったねえ」ととんでもない昔のことを話しだしたり、あるいは「そもそも思い出さない=口にしない」。

 

 

 でも、パシェさんのお母さんのように「私の」記憶でなくなる、記憶の当事者性が失われるというのは、どういうメカニズムなのでしょうか?

 

 こういう現象って、結構あるのでしょうか。

 えーと、勉強します。

 

 

 

 続いて、認知症の方にありがちな独語について(p25-46)。

 パシェさんは、こどもの場合は独語して遊びを「活性化」して「保護」していると指摘なさいます(p26-27)。

 活性化はわかる。

 私も小さい時分、雨が降って友達が来ない時に、「今、ナントカ星では大変な事態を迎えていた」と<一人ナレーション>して、「ナントカ司令!至急本部に連絡せよ!」とか<一人芝居>して家で遊んでました。

 今、こども3がその時期で、独語しながらウルトラマンと戦っています。

 これって遊びに「没頭」して「空想世界を立ち上げている」ということですよね。

 ただ「保護」はピンとこない。どういう意味か、宿題です。

 

 

 で、認知症の場合は。

 パシェさんは、お母さんの記憶には「言葉の塊」や「文章のつなぎ合わせ」が「保管されている」(p33)、しかし、それが状況に即して使われずに「自動的な応答」をしている、「可動性がない」状態になったのではないかと指摘します(p33)。

 このことは「言葉の括約筋」という不思議なタイトルのついた次章につながります。

 興味深いことに、お母さんが排尿のコントロールを失った時期と独語が始まった時期がほとんど同じだったと(p48)。

 

 つまり、ストックされたフレーズや単語が脈絡なく「だだ漏れ」になる、いわば「言葉の失禁」が認知症の方の独語ではないかということですね。

 

 それは「しゃべらないことの能力の衰退」でもある(p94-95)。

 お母さんはすでに「言いたいと思っていることを言っていない」、ただ「心に飛来するフレーズ(略)(を)勝手に発言している」(p97)だけである。

 

 一方でそれは「遊び」ではないのか(p111)、あたかも手持ちぶたさでソリティアをするようにとパシェさんは推測します。

 

 

 子供は「想像の世界を立ち上げる」ために「遊び」ながら「独語する」。

 認知症の方は「独語する」こと自体が「遊び」になる。しかし、現実が解体し(p115)、不動のものにする力は失せている(p131)。つまり、世界は立ち上がらない。

 

 乳児は「パパパパ」とか「ママママ」などの喃語を発すること自体を、あたかも愉しんでいるように見えることがあります(喃語した後に、全身を動かして笑ったりしますよね。子供たちが赤ん坊だったころ、そうでした)。

 要は端的に口腔と咽頭の運動を愉しんでいる、あれに近いということでしょうか。

 パシェさんも喃語と特定していないけど、子供の独語について似たことをお書きになっています(p25-26)

 

 

 


 それからもう一点、興味深いのが、お母さんの様子を観察しているうちに思いつかれたというパシェさんの認識に関するご意見です。

 そのまま書きます。

 

 「人と人」「物と、その名前」の間に「距離」「空虚」があるのではないか。だから、私たちは何かを認識するとき、その「空虚」に「身を投じている」のではないか(p124)。

 

 ムツカシイ・・・。

 私なりに言い換えると、私たちは他人と対面すると、その誰かに向かって自分を開く/関係性を作る(パシェさんの表現なら「空虚」に「身を投じる」)が、その刹那はまだ相手が誰と特定されない。そして、私たちは記憶を使って、相手の名前と「情報の束」(p124)を想起し、相手を誰それと認識する。

 つまり、相手を認識する際に、記憶が作動するための<隙間>(パシェさんのいう「空虚」「距離」)があるのではないか。そのために記憶が作動しなくなると相手を認識できなくなるのではないか。ただ、それは単純に「の先」「の後」と表現できない次元であると。だから、パシェさんは時間ではなく空間の比喩で表現されたのではないかと愚考いたします。

 

 もし誤読でないとしてですが、うーん・・・・・ちょっと考えたいです。

 

 

 

 あと、私が以前から不思議に思っていることなのですが、認知症の方といえども文法は「忘れない」ことです。

 パシェさんのお母さんはポリグロットでフランス語とロシア語を使える。

 で、単語を忘れると覚えている方の単語を発語するので、外国語の単語が混った言葉使いになるようなのですが、あくまで単語レベルの問題で、文法構造は忘れない、間違えない(ただし男性形や女性形を間違えることはある p71)。

 

 

 脳の責任部位が違うからねえ・・・とかそういう話をしたいわけでないです。

 「言葉」と一括りにされるけど、単語/文章と記憶の関係は別物ではないかということです。

 単語と文法の成立機序が違うのは、スティーブン・ピンカーなんかが主張しています。

 まま、生成文法論だったら「文法は生得的だから忘れねえよ」なんでしょうけど。

 でも文法が特異な「ピダハン」(ダニエル・L・エヴェレット著 みすず書房)だってあるし・・・。

 

 てか、誰か研究していると思うので勉強します。

 仕事とあまり関係ないけど。

 

 

 

 私的にはこちらの方が仕事的に面白い。

 「笑いが言語の基礎の一つである」のではないか(p162-163)。

 

 言語の発生と感情の関係。

 これもいっぱい本がありそう・・・・・うーんと、積読本にそんな題名の本があった気が。

 

 

 

 

 本書、郷原佳以先生がある書評で、コミュニケーション論とは違った言語の在り方の可能性を示唆していないかと指摘なさっていましたhttps://dokushojin.com/article.html?i=4679

 うーん。

 何かに向かって開かれていない言語に、どのような可能性を見ればいいのでしょうか。

 「自動書記」のような「芸術」としてならまだしも。

 ついでに付け加えると、このような事態での言語を「芸術」として消費することは倫理的に許されないと思います(本書は文学作品というより「認知症とは何か」の思索の試みで、マラブー先生の著作と同質のものだと思いますhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12558890521.html?frm=theme)。

 もしも、この事態でご本人やご家族が苦痛を抱えているとしたら、それをどのように癒せばいいのか、そのためにこの言語の在り方を活かせないかという視点は必要だと思いますが。 

 

 

 赤ちゃんがどのように言葉を獲得するかは、以前、読んで、このブログにも備忘録で書いておりますhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12515217502.html?frm=theme

 言語の獲得と喪失は、当然ながら対称ではないのですが、だからこそ何かヒントがある気もします。

 

 

 おお、またまたあれこれ考えたい宿題をいっぱい見つけることができました!

 

 

 でもねえ、そろそろ仕事しないと・・・・時間をくれよお

 

 

 

 

 

ピエール・パシェ「母の前で」   根本美作子訳

2400円+税  224ぺージ

岩波書店

ISBN 978-4-00-024487-9

 

 

Pachet P: Devant ma mere.  Gallimard, Paris, 2007.