何回読んでも挫折する本って、ありますよね。
私の場合、レヴィナスの「存在するのとは別の仕方で 存在の彼方へ」(以下「存在の彼方へ」)。
何が書いてあるか以前に、文章が頭に入りません。
なので、どうしても通読できませんでした(飛ばし読みでも)。
で、「存在の彼方へ」に「ついて」の本ということで購入。
でも、あんな分厚い本をこんな薄い本で説明できるわけがないのであって・・・・・
読んでみると、案の定、やっぱり何のことだかわかりませんでした。
まさに浅智恵以外の何物でもない。恥ずかしい。
GWに入りましたが、子供1が小さかったころにGWに出かけて大変に痛い目にあって以来、我が家は家でぼんやりと過ごすのが通例となりましたので、特に苦も無く自宅で過ごして読書の日々です。
なので、計3回(以上)読み直し、ようやく・・・という感じです。
で、本書。
リクールがレヴィナスの本を「解説する」本かと思ったら、そうではなくて「批判する」本でした。
考えてみれば、一流の学者さんが「解説本」とか書かないですやね。
タイトルがお洒落すぎていて気づきませんでした。
「存在するとは別の仕方で・・・」を「別の仕方でAutrement読みます」という本なんですね・・・
てか、フランス人はおサレすぎで、ちょっと嫌味なんだよ!
・・・と、悔しまぎれの苦言はこのくらいにして以下は完全な備忘録です。
本書の目的が1ページ目に。
要はレヴィナスの思想を根っこからつかみたい。そのためには「存在の彼方へ」の読解が重要なのだと。
なるほどです。
レヴィナスの思想は倫理がすべてに先行する(p10)ことは知られていることですhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12520568521.html?frm=theme。
で、「存在の彼方ヘ」はそれを極限まで進めた(ことになっているらしい)のですが、どのように理論化されているのかということですね。
さて、以下、もう「レヴィナス用語辞典:チャート式」のようになりますが;
「語ることDire」=倫理(p9)=近さproximite=脱内存在化desinteressement=応答責任=身代わり(p13)=隔―時性dia-chronie(p19)=自己の提供s'offrir=苦しむsouffrir(p25)=他のための一なるものl'un-pour-l'autre(p26)=強迫=傷つきやすさ=トラウマ(p29)=痕跡(p30)
「語られたことDit」=存在(p9)=主題化thematisation(p12)=言語学的体系=存在論=現出(p14)=共‐時性syn-chronie(p19)=顕示=ドクサ=ロゴス=真理(p23)
と関連される。
で、レヴィナスはこの両者、つまり倫理と存在論を、うまく結びつけられたかをリクールは問います。
リクールの結論、「あくまで相関のまま」(p14)。
もし、「絶対の他」という存在とはことなるものを言葉や概念で捕まえようとすると、概念化(主題化)できないものを概念にするという自己否定に陥る。
なので「前言撤回dedire」という文章作法しか方法がない(p17)。
もっといえば、いい回しに頼っていて、論証できてないよと。
もっと厳しく言えば、「哲学」とか「思想」と言えますか?と(そこまで書いてないですが)。
またリクールのレヴィナス批判に、レヴィナスが不用意に「先pre」という語を使っていることに触れています(たぶん)(p18)。
もし起源があるとなると、起源を設定できる「主体」が必要になる。
時間を感じている誰かが「今」を起点にして遡って、「これが始めだ」と言わないと始めも終わりもないですものね。
ということで、「先」でなく「無an」をもっと使わないと、というのがリクール先生の批判その1(えーと、たぶん。 p18)。
あるいは、そこから時間性を組み込むと「隔dia」が出てきたのねという理解(p21)。
ついで、レヴィナスの「全体性と無限」の議論:「私」が他者に無限責任をもった存在として倫理的であらねばならないを、「存在の彼方へ」で議論しなおした訳ですが、わざわざ論じ直した意義はあったのか?
「全体性と無限」で有名な「顔」だとやっぱり<存在>に引き寄せられてしまう。
なので、「存在の彼方へ」では、存在ではない「時間」をもってきて「共時性」「隔時性」「痕跡」、あるいは強度としての「強迫」(執拗さですね。「脅迫」ではない)「近さ」(距離だから微妙だけど<存在>からは逃れる)などの用語を使いました。
さて、リクール先生の判断は。
手厳しい。
「誘導的比喩的語法を付け加えただけ」(p33)。
「比喩」だけならまだしも、「誘導的」で付け加えた「だけ」って・・・・。
「正義」について。
私は「存在の彼方へ」のこの箇所(第一章の後半のあたり)から、ぜんぜんわかりませんでした。
いや、「私」の隣にいる「他」にとっての「他」が「第三者」で「第三者」がいると「正義」が始まると、確かに書いてあります。
でも、どうして、そこから「正義」なのか。
あと第三者も「別の近きもの」で「同類」ではない(p39)って、じゃあ誰?
そして、そこから「哲学」「知」「存在論」「現前」「真理」「思考」「制度」へ至る(p38-39)、「可視的になり」「脱‐顔化de-visage」「現前し」「体系の知解可能性が必要になる」(p40)「書きとめられ、書物・法律・学問となる」(p40)って、これが分からないのです。
だって、存在論ではない倫理を語っていたのではないのでしたっけ・・・・・
(たぶん)存在論ではない倫理から、第三者、正義を通じて、「哲学」になるのだということなのでしょうが、どうしてなのか理路が分かりません。
リクール先生も(たぶん)同じことを書いていて、「正義への飛躍」は「『違法』の疑いがあるのではないか」と(p42)。
いや。リクール先生、「わかんねえよ」って書きましょうよ!
最後です。
さすが、リクール先生。批判だけではない。まさに「別の」可能性を論じて、この小論を締めくくります。
一つは「彼性illetie」。これの意味、本書でようやくわかりました(p67の訳注51)。
もう一つは名Nomの発展可能性(p44-46)。確かに「名」って「ある」けど「ない」、「意味している」ようで「意味がない」こともある。
たとえば、「たろう」。これだけでは誰かわかんない。
そもそも「存在しない」かもしれない。「太郎物語」の「たろう」かもしれない。
銅像なら東京タワー、剥製(!)なら国立博物館で見ることのできる、南極に置いてかれちゃった犬の「たろう」かもしれない。
まま、剥製は「ある」か。でも、いつ見てもかわいそうだけどね・・・・
そして・・・ご存じ、Il y aです。
リクール先生は、この語は存在と倫理を消し去る両義性をもっているけれど、「さらされること」の「受動性」、つまり「存在の彼方」で倫理の側とされたことと関係が「あるかもしれないし、ないかもしれない」両義性をもっている(=「存在の彼方」の語法で使えるのではないか、というとではないかと思います。・・・うーんと、たぶん)と指摘なさいます(p46-47)。
最後、正義と記憶、つまり正義は「忘れない」ことhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12555897829.htmlと関連するのではないかと指摘されて論文は終わります・・・・
短いのに時間がかかりました・・・
とはいえ、本書の後半にある、訳者の関根先生の解説が、かなり参考になりました。
さて、本書を読む前に読んだ本も。
おそらく、これを読んでいなかったら、もっと分からなかった。
佐藤義之先生の「レヴィナス 『顔』と形而上学のはざまで」。
図書館で見かけて、借りるか迷っていた本の一つでした。
これは名著です。
ざっくりと。
「全体性と無限」は倫理から哲学を構築するという大胆な試みだった。
それは果たしてうまくいったか。
「存在の彼方へ」は、前著は記述不可能な「他」を「記述して論じる」という論じていることと論じ方のずれがあった。
なので、「記述できないものをいかに記述するか」という方法論で執筆されたが、この試みはうまくいったか。
そもそもレヴィナスは現象学者であると(おお!!言われてみたらそうじゃないですか!!膝を打ちました)。
ならば、現象から出発しているのだから、逆に事象に落とし込めるはずでしょと繰り返し指摘されます(p48など)。
そして、多くのレヴィナス論が「レヴィナス語」を抽象的に論じているだけで、そのような議論がないのはおかしいというのが佐藤先生のご指摘です。
そうだ、そうだ!!(←理解できないものの僻み)
で、本書ではこのブログで取り上げたギリガン先生https://ameblo.jp/lecture12/entry-12591600944.htmlのケア論が例示されます。
なんてこった、佐藤先生の本を先に読んどけば・・・・
と、思いつつ、本棚を見ると・・・
あれ?
積読になっていた本の2冊が佐藤先生のご著書(「感じる道徳」「物語とレヴィナスの『顔』」)・・・・
ぱらぱら立ち読みでビビビ(古い)からの即購入は、間違いではなかった!
ということで、GWに積読さんたちを読んでしまうことにします・・・
ポール・リクール「別様に エマニュエル・レヴィナスの『存在するとは別様に、または存在の彼方へ』を読む」 関根小織訳
2000円+税 132ページ
現代思潮新社
ISBN 978-4-329-00489-5
Ricoeur P: Autrement: Lecture d'autrement qu'etre ou au-dela de l'essence d'Emmanuel Levinas. Press Universitaires de France, Paris, 1997
佐藤義之「レヴィナス 『顔』と形而上学とのはざまで」
1150円+税
講談社学術文庫
ISBN 978-4-06-519345-7