以前、ペリュション先生が来日された時、ご講演に参加した。
お綺麗な方で、よどみなく(たぶん。私はフランス語が分かりません)話され、まさに才媛。
私が本書を読みたいと思ったのは、ペリュション先生がご講演の後の質疑応答でおっしゃった一言だった。
「ハイデガーのように死ではなく、誕生について考えたい」。
おお、私も考えたいと思っていたこと。
誕生についてはハンナ・アーレントが論じているらしく、それはまた勉強したい
本書の備忘録。
序論と第一部中間章(第二章)から明らかなように、本書は政治思想書におそらく分類される。
第二部は糧をきっかけに社会契約論を刷新する議論だが、私の関心はさしあたって「糧の哲学とは何か」なので第一部。
ここでは第一部だけ。
冒頭から「糧の現象学」とは「人を抽象的に考えることではない」とされる(p35)。
レヴィナスは、「糧」を「それによって私たちが生きているもの」、要は食べ物、水、あるいは空気などで、その糧との関係を「享楽」と表現した。
これは、視覚を認識モデルにしたフッサール現象学(p39)や、ハイデガーが人と道具との関係、つまり「使う」から「ある」を考えた(p39)ことへの、レヴィナス流の反論(p22)。
ペリュション先生は、レヴィナスの「世界は糧の総体である」をもじって「世界は食物」だと指摘される(p33)。
ただし、ペリュション先生は、糧(本文では「元基element」)が、私たちの味覚に合うだけでなく、力を回復させて、生き生きとさせるもの(p36)、つまり活力を増大するものだとし、必ずしも食物に限らないとする。
たとえば、絵画のような芸術の美しさを味わうことも糧の享楽で(p55)、労働して自己形成する行為さえも糧(p118)。
そして、糧の現象学を「身体性の哲学」「感覚の哲学」「快楽主義」と言い換え(p35)、それは、感覚を通じて他人とコミュニケートしながら、自分が今ここにいること(本文では「実存」)を味わうことで(p58)、自分のみならず他人や自然を尊重すること(p58)、感覚への信頼、身体を通じて感覚された世界を信頼する(p92)ような思想であるという。
さらに享楽とはある種の「余剰」(p32)であり、世界に気を遣わないこと、端的に生きること(p37)であるとされる。
「快楽主義」といっても、利己的で際限のない快楽の追及のことではない。
私の言葉になおすと、糧(食物だけでない自分を高める何か)を、単に栄養補給という意味を超えて、自分の感覚や身体性を貶めることなく、十分に味わい、楽しみながら生きること、それは他者や世界への敬意につながる、ということになるだろうか。
さて、糧の現象学は共同体の問題と結び付けられる。
一つは食べることにおいて。
もう一つは食べられるものにおいて。
食べることは糧の共有と結びつき、それは会食の歓びへ、そしてその会食が共同体の原基とされる(p48)。
さらに糧の現象学の本質は、ハイデガーも論じた「住まうこと」である(p101)という。
確かに糧で生きることを考えることは、農耕する場所、動物を放牧する場所、動物を解体する場所、調理する場所、食べる場所のような、生活の基盤を考えることに他ならない(p101)。
したがって、糧によって生きるとは、住まうことができる世界を作り出すこと(p72)であり、そこで「共に-生きること」である(p124)。
また「共にある」ことは感覚とも結び付けられる。
当然、何かものがあって、私たちは「感じる」のだから。
そうであれば、感覚することは「事物と-共に-感覚すること」「自己を感覚すること」になる(p43)。
つまり、糧によって生きるとは、まずは感覚すること(味わうこと)に他ならず、糧を生産し会食する「他者たちと-共に-存在すること」、もっといえば「世界と-共に-存在すること」なのである(p72)。
一方、忘れてならない問題がある。
私たちは動物を殺し、植物を刈って、食べている。
ペリュション先生は、動植物が自己主張できない、あるいはそのような能力をもっていない(かもしれない)ことをもって、権利を侵害してはならないという。そのような考え方の延長には、思考能力を失った精神障害者はどうするのかという問題とつながるからだ(p126)。
そこで、人間と動物の政治共同体ゾーオポリス(p123)という考え方が指摘される(p121)。
しかし、これはただのエコロジーの問題にとどまらない。
殺される動物を目前にすれば、私たちは直感的に「憐み」の気持ちを抱くだろう。
そして、憐みは「私に先行する。他者からやってくる」「他性への経験」(p140)である。
私たちは、論理的に理屈で考えて「可哀想だなあ」とは思わない。それは感情ではない。思考だ。
憐みは、それこそ湧き上がるように、あるいは突き上げてくるように生まれる。
そして、そういう感情を味わうのは、自分以外の誰かや何かに対した際に経験する。
「憐み」は感情であり、まだ倫理ではない。
しかし、他者との関係こそ倫理の問題であり、憐みは倫理の契機や条件である(p140)。
さらにそうして共同体が出現する(p141)とペリュション先生は指摘される。
また憐みは、「他者の単独性を受け取る」、要は他人のかけがえのなさを実感する、そして「他者の苦しみは私を変える(異化するalterer)」(p141)ことへとつながるという。
「私を異化」って、ちょっと難しい。
先日、テレビを眺めていたら、何回も見ているはずのユニセフのCMが流れた。
こういってはなんだが「よくある映像」で、アフリカの貧しい子供たちの様子が映し出されるものである。
10歳くらいの難民の女の子のインタビューになった。
彼女は、最初は無表情に一人で逃げてきたことを語る。
ついで、知人や家族が拷問され、殺されたことを語り始めた瞬間、彼女は唐突に泣き出すのである。
号泣ではない。押し殺したように。彼女の膝の上には1歳くらいの幼児がいて、泣き出した姉(?)をきょとんと見上げる。
その瞬間、私は「憐み」と「悲しみ」の感情に襲われ、同時にそういう自分に物凄く驚いてしまった。
私のような皮肉屋が、こういう「よくある映像」に涙が出るほどの衝撃を受けると思わなかったのである。
私は自分の中に「知らない自分」がまだいるということを、中年のおっさんになって自覚させられた。
それは「私の中の他」を知った瞬間だった。
自分の経験に引き寄せるならば、おそらくこういうことをペリュション先生はおっしゃりたいのではないかと愚考する。
さて、糧を考えることを通じてペリュション先生は、レヴィナスとは別の考え、つまり「享楽の次元から倫理の次元に断絶があると考えない」(p16)という結論に至る。
食べること、糧を味わうことは、自分がどのような者か、自分にとって他人はどのような位置づけなのか、もっと言えば動植物の権利についてどう考えるのかについてさえも語ることを意味するのである。
先生の表現だと「食べることは語ることである」(p174)。
そして、レヴィナスとは異なる倫理と正義の定義が指摘される。
倫理は、他者の糧へのアクセス権を私が勝手に制限しないこと(p174)。
正義は、糧の分配、共有である。それは、自ずと節制という徳と結びつくだろう(p175)。
とても簡潔な表現だ。
興味深いことに、第三章で摂食障害について論じられる(p175~)。
ペリュション先生は、メンタルヘルス界隈で指摘されていることをおおむね誤りなく論じていらっしゃる。
たとえば摂食障害の患者は「自身と他者への信頼を欠いている」(p183)、「食事が快楽に結び付かない」(p192)など。
しかし・・・
「食べ物を味わうことを取り戻すような知で修正できないか」(p191)。
食事を「味わう」ことができたら、ほぼほぼ「治った時」なのだけど・・・・
「自分らしさを取り戻そうとする欲求、他の存在に優位にたつ」(p185)。
後半はその通り、でも前半は少し追記が必要。
彼女たち(多くが「彼女たち」)は自分らしさを取り戻そうとしているが、それを見失ってダッチロール状態に陥っている。
そしてなんとか仮そめの安定化を図ろうとした結果が「痩せ」である。
「両親の期待への反抗、暴力」(p187)。
少し単純化されているような。これだと高齢発症の摂食障害が説明できない。
「治療」のカギではないかと匂わされる議論があって、食べ物は友であると自覚し、会食することで「他者と-共に存在する」感覚を取り戻すこと(p194-195)。
ランチセッションする家族療法などはあるけれども・・・
さらにp183に「自己のかけがえのなさを痩せることと別の表現で見つけるようにすること」、さらにp195では「自分の身体や他者への関係を作り直すこと」が指摘されている。
これは総論的にまったく正しい。
ただ、そうなっていただくために具体的にどうすればいいかが大変な苦労なのである。
p182「身体の変化は、何かを失うこと、主体の破綻、無力さを表す」
この指摘はちょっと考えたい一文。
もっとも期待した誕生についてはp67から。
ハイデガーは、私たちのありようを被投性としてとらえたが、そう考えるべきではなく(p34)、また彼は人間の本源的な状況を悲劇的なものと考えてしまった(p34)とペリュション先生は批判する。
では、どう論じられているか。
ポール・リクールを引用しながら、「私は生きた自分を見出すのであり、すでに生まれている」(p68)。
確かに。気が付いたら生まれていますもの。でも、これは被投性を言い換えただけな気が・・・・。
ただし、続きがあります。「私の生の背後にも生がある」(p69)、そのように意識することで「私は祖先を通じて、あらゆる人とつながっている」こと、「私が世界にたった一人でいるのではない」ことへの意識とつながる(p70)。
なるほど、途中までラフカディオ・ハーンが指摘した日本人の「先祖から子孫まで連綿と続く中の私」という意識の話と似ているけど、そうか、この考え方は縦方向だけではないですね。
横や斜めにも広がるのか。
気が付かなかった。
そうすると、一家・一族の話が、すべての人へと広がる!
なんともロマンティックで壮大な話です。
ただし、誕生の現象学は、ここまで。
私は糧に他者を含めるのはどうかと考えているのだけど、ご講演当日、先生に質問したら、「レヴィナスはそういっていません」と即座に却下されました。トホホ。
ちなみにもう一つ質問したのですが、良く考えるとちょっと言いがかりっぽい質問だったかも。
「糧で享楽を得るということですが、食物でアレルギーを起こすことがありますが、どう、お考えですか」と。
お返事は・・・おお、そう来たかという感じでした。
面白かったです。
コリーヌ・ペルュション「糧 政治的身体の哲学」 平光佑、樋口雄哉、佐藤真人、服部敬弘訳
6000円+税
萌書房 400ページ
ISBN 978-4-86065-133-6