とてつもない災厄や暴力行為にあった人は、その経験を語ることができないことがある。

 それは「思い出したくない」からということもあるし、端的に「思い出せない」から、あるいは「(理由は)分かりません。口から言葉が出てこなかった」(p97)からということさえある。

 

 本書は心理学や精神医学、あるいは証言に関する哲学の本ではない。

 ジャーナリストとして戦地を巡る著者が、さまざまな証言に出会う中で考察を深めていった思索集(?)である。

 本書の裏表紙にはエッセイと紹介されているが、私的にはそういう軽い語感で済まない立派な思想書だと思う。

 

 この著者を信頼できると私が思ったのは、何かの理論に基づかず、事実としてあった個別具体的な出来事から、自身の考えを展開し、それを述べている点である。

 

 

 本書を読み通すのは、かなりしんどかった。

 もしも、ある種の犯罪に巻き込まれた経験のある方や災害にあわれた方で、まさにその経験を「言葉にできない」状態のお方は、お読みになるのは控えた方がいいと思う。

 

 

 さて、本書の冒頭、粛清される運命にある女性が、この出来事を伝えてほしいとある人物に頼むエピソードが紹介される。

 そしてエムケさんは、この女性の要請が意味しているのは「このひどい経験を伝えてほしい」ではなく、<まぎれもない私が存在したことを誰かに記憶してほしい>ということではなかったのかと喝破する(p15-16)。

 私にとって本書で得た収穫の一つが、何気ない記述で読み流してしまいそうな、いきなり冒頭にあったこの一文だった。

 

 トラウマとは、心理学研究で「理解できないもの」と定義される(p30-31)。

 つまり、自分固有のこの私の時間の流れの中のどこにも位置づけられない。

 したがってその語りは、エムケさんがインタビューした被害者たちのように、まとまりを欠く(p38-45)。

 理解できない出来事を語るということは、語りの形式そのものが理解不能なものになるということなのだろう(p84)。

 つまり「つっかえ」「口ごもり」「囁き」「間違い」「断片的に」「謎」を含んだものになる(p114-115)。

 トラウマが人生に「ずれ」「断絶」を与えたように、語りも「ずれ」「断絶」「言い換え」が生じる(p118)ことを受け入れなければならない。

 法的なものは本書では除外されているので注意が必要だが、証言は、ともすると信頼性や再現性、合理性などが追及されがちである。

 しかし、あまりにも無残な経験は、形式として理解困難な証言になるのだ。

 

 そして、このような語りの混乱こそ、むしろ精神が破壊されていない証であるとエムケさんは指摘する(p45-46)。 

 ここは説明がない。

 おそらくエムケさんが多くのインタビューを行った上での確信なのだろう。

 理屈っぽい私なりの理解だと、簡単に呑み込めないことを因果論や運命論のような説明に安易に落とし込まず、宙ぶらりんでいられること、それはある種の強さだということではないだろうか。

 

 また、エムケさんは、トラウマの衝撃に耐えるために(「回復」ではない!)、リズム、習慣、物、想像的な二重化(p61-72)などの方法があると、多くの取材経験から指摘される。

 

 とても参考になり、私の宿題になった。

 しかし、習慣のあたりの記述は読むのがかなりきつかった。

 

 

 さて、暴力のもつ特性、<最初の一撃で世界との信頼を一挙に失う>という精神的にはかりしれないダメージを受けた人々(p102)、他者と対話する気力を失しない、あるいは禁じられて「個人性を失った」人々(p53)、つまり名前や属性などを失った、あるいはそれらを承認する他者が不在で「モノ」化してしまった人々、このような人々の語りを私たちはどのように聞けばいいのだろうか。

 

 もっとも私の知りたかったことはこの点だ。

 

 第一は、すでに述べたが、「語り口」への注目である。

 しかし、この点はすでにメタルヘルス界隈で「そういうことになっている」と思う。

 

 ここで、アウシュビッツで無気力となった囚人「ムーゼルマン」を出来事の強度に対する「証言不可能性」「分析不可能性」の例としたアガンベン批判が出てくる。

 エムケさんは哲学者ではないので理論的批判ではない。

 そのために記述はあっさりとしているが、私はだからこそ価値があると思う。

 根拠はあまりにもシンプルである。

 

 後年になってから、「証言したい」と声をあげだした元・ムーゼルマンたちがいた(p89-91)。

 

 エムケさんからすればアガンベンは理論を優先して事実を無視したのではないかと指摘する。

 しかし、だからと言って「誰でも証言できるはずだから、証言しなくてはならない」などという「なんでも話せば解決する」という考えの足りない結論に至らないようにエムケさんは注意を喚起する(p88)。

 そうではなく、安易に「ひどい経験は語れないものだ」「分析不可能だ」という理論に落としこまないように警告する(p88)。

 

 

 とても重要な指摘だと思う。

 あまりに理論先行、あるいは「ひどい経験は語りえない」と思い込んでしまうと、語るべき人を黙らせるという別の暴力の発動になる。

 たとえば、ある事件が言葉の使い方次第で「なかったこと」になった実例があげられている(p110-112)。

 

 

 もう一点は、エムケさんも衝撃を受けているが、読んでいる私も衝撃だった点だが、「相手の身になって考えろ」という警句がまったく意味をなさない場所もある。本書ではパレスチナだった。

 しかし、「にも関わらず」、「あなたに」関心をもっていることを、態度で伝えること(p131)。

 その重要性が指摘されている。

 

 

 ついで、証言者は誰のために、誰に、語るのか。

 

 エムケさんの暫定的結論を私なりにまとめると以下である(p106-107)。

 誰のためにか。すでにいない人を記憶するため。

 誰にか。私たちに。私たちは聞き手となる。そして隣人に語り継ぐ倫理的責任がある。 

 

 証言を聞くことは、あるいは語ってもらうことは、出来事の凄惨さを「知る」「理解する」ことではない(エムケさんは「理解」という言葉を、やや不用意に使っている箇所がある(p121)が、私はこの言葉はやはり避けるべきと思う)。

 ましてや、「消費する」ことなどでは、もちろんない。

 そのような経験をした「人々がいたことを記憶する」ことである。

 そうやって、証言者や失われた人々を「名を持った個人」として「共同体に再び向かいいれる」ことが重要なのではないか。

 それは、もしも語られている方が亡くなっていれば、私たちの母語でいう「悼む」ことと同義だろう。 

 

 

 

 本書の後半は証言から離れる。

 拷問に加担してしまうのはなぜか(p134-146 「凡庸な悪」論がいまだにアクチュアリティーを持っている!)。

 皮肉が効いているが、リベラルな人種差別(p148-158 リベラルの劣化は世界的現象なのだろうか。もちろん保守の劣化もひどいと思うが)。

 さらに人々を乱暴にムスリムとレッテル貼りすることという古くて新しい問題などが論じられる。

 

 本書で唯一、ほっとした章。

 「故郷」(p178-189)。

 ブレヒトが書いた「アンティゴネ」の「故郷は土地のことではない」に呼応する興味深い内容だったhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12543538106.html

 未完であること、開放されていること、更新し続けること。

 私が大好きな考え方だ。

 

 

 落ち葉ひろい。

 フーコーは人々の健康さえも疫学で管理する生政治における主体概念を批判したが、この概念の思わぬ陥穽をジャーナリスティックな経験からエムケさんは指摘している箇所がある(p79)。

 しかもフーコーが重要視していた点が、その批判のポイントなのである。

 フーコーを数冊しか読んでいないので、フーコー専門の方からすると誤解のある議論かもしれない。

 しかし、一考に値するように感じた。

 

 それと脚注で、自己認識に他者が必要だという議論にプラトンの「アルキビアデス」を引用している点(p55)。

 かなり前に私が仕事の都合で読んだ時は<自分を認識することを通じて他者を認識する>という話だったような・・・・。

 当時、おお!フッサールみたい!と感動した記憶があるのだが、また間違っているのか。

 

 ああ、宿題がいっぱい。

 

 ・・・でも、今日は、この本でくたくたです。

 もう帰って寝ます。

 

 

 

 

カロリン・エムケ「なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について」  浅井晶子訳

3600円+税   288ページ

みすず書房

ISBN 978-4-622-08853-0

 

 

Carolin Emcke: Weil es sagbar ist. Uber Zeugenschaft und Gerechtigkeit

Fischer, Frankfurt am Main, 2013