今日の仕事はまあまあでした。

 優秀な後輩がいると仕事もはかどります。

 

 さて、「アンティゴネ」なのにブレヒト?

 アンティゴネは、今年の10月まで海老蔵さんの出ていた「オイディプス(王)」https://ameblo.jp/lecture12/entry-12538076169.html?frm=themeの続編ですから、ソフォクレスの作のはずですね。

 これ、ブレヒトの改作なのです。

 知りませんでした。

 本屋で見つけて驚いてしまい、即購入した次第。

 

 さて、オイディプス王がエピソード1なら、本作はエピソード3です。

 原作(以下、ソフォクレス版を「原作」、ブレヒト版を「本作」と表記)は、アンティゴネの兄2人が後継戦争を始めてしまい同士討ちになる、そして兄弟間の紳士条約を破り他国の力を借りて自国テーバイを攻めてきたポリュネイケスをクレオンは許さないという出だしでした。

 さて原作のクレオンの主張。

 私はあながち間違ってないのではと思ってしまうのです。

 国家をうまくコントロールするためには秩序が必要で、おのれの欲望を優先させたポリュネイケスには、それ相応の処分が必要ではないか・・・と。

 私は「アンティゴネ」をギリシャの国立劇場の来日公演で観ましたし、原作も何回か読みましたが・・・・・お恥ずかしいのですが、正直、アンティゴネの理路が良くわからないのです・・・・

 

 一般的に(というかヘーゲルは)、アンティゴネが体現する「神」あるいは「自然」の掟と、クレオンが表象する「人」あるいは「国家」の法の対立が原作のテーマであるとされます。

 確かに世俗の世界において、どのような振る舞いをしたにせよ、もはやその者が死んだときには、ある意味「ノーサイド」というべきか、対等に扱うべきというのは、なんとなくわかります。

 あるいは原作では、コロスが「神」を持ち出すので、アンティゴネの言い分に神の大義があるらしいことは理屈ではわかります。

 

 しかし、己の国家、国家が近代的な響きがしてお嫌なら、自分の郷土、故郷でもいいのですが、故郷に刃を向けてきた者を許すには、それ相応の理屈がないと、おいそれと呑み込めないのが人情ではないでしょうか。

 私は何回読んでもアンティゴネの理路が、ポリュネイケスと同じような「わたくしごと」としてしか理解できない。

 うーん、私に理解力がないというか、私がバカなんでしょうね・・・

 あるいは私の感覚が「現代」のものなので腑に落ちないのでしょうか。

 とすると、ギリシア時代の生死観などを調べると、この辺りはもう少しクリアになるのでしょうか。

 もうちょっと勉強しないといけませんね。 

 

 それから実際に観劇すると、クレオンとアンティゴネはかなり長々と対話します。

 だとすると、やっぱりギリシャらしく「ロゴス」で、観ているものを納得させてほしいのですけど・・・・・

 

 

 さて、本作。

 原作にない要素がいくつかあります。

 まずクレオンが戦争を始めたことになっている。

 さらにその戦争に勝って、バッカスの祭りを行う手筈になっている。

 兄ポリュネイケスは逃走兵なので埋葬を許されないことになっている。

 クレオンの妻はカット、クレオンがアンティゴネへの対応を決めた後の懊悩、アンティゴネの墓の中での苦悩もカット。  

 アンティゴネの主張の中の「神」「自然」の要素が薄められている。

 

 本作での2人はどういう位置づけか?

 解説で訳者の谷川先生は、クレオンは権力のもつ残忍さ、愚かさを表していると指摘されています(p145-146)。

 そしてアンティゴネの反乱は肉親の情愛を超えた性質のもので、彼女は支配・被支配の構造から抜け出した者だとおっしゃっています(p149)。

 なるほど。

 

 私なりにちょっと考えてみます。

 本作、クレオンは戦勝祝いにバッカスの祭りをしようとしています。

 バッカスはローマ神話の表記で、ギリシャ神話ではディオニッソスです。

 ディオニッソスといえば・・・ニーチェですよね。

 また1951年には削除されたプロローグに記される「1945年4月」は、戦史マニアにはおなじみ、ソ連のベルリン包囲戦が始まったころです。

 さらにわかりやすいことに、このシーンでは親衛隊員が出てきちゃう。

 てか、物語の中でクレオンが「総統Fuhrer(直訳は「リーダー」くらいな感じですが)」と呼ばれる(!)シーンまでご丁寧にあります(p36)。

 ものすごいベタにナチスのことを象徴(という言葉が似合わないくらいわかりやすい)しています。

 じゃあ、本作はナチスの話かってことですね。

 

 で、ディオニッソスについて、もう一つ。

 ディオニッソスはギリシャからみて「東方の神」でした。

 ドイツの「東部」戦線は、対ソ戦です。

 「1945年4月」はカットされても、ディオニッソス=「東方」は残った。

 そしてブレヒトは共産主義者でした。

 

 さらにディオニッソスの祭りの時に、かつては演劇をしていたそうで、どうも「アンティゴネ」も演じられていたようです。

 つまり、本作は入れ子構造になっている。

 ディオニッソスの祭りで行われる劇の中で、ディオニッソスの祭りが行われる。

 しかし、本作では演劇をするとは書かれていない。 

 では、その演目は?

 私が思うに、本作ではないか。

 すると、目の前の演劇は、(目の前の)演劇の中で行われる演劇となります。

 演劇の中の、演じている者たちが見るはずの演劇を、私たちが観ている。

 つまり、クレオンもアンティゴネも<私たち>だということですよね。

 

 私が驚いたのは原作を確認していないのですが、クレオンが「神の秩序である国家の秩序」といい、アンティゴネが「神の秩序かもしれない。でも私はそれ(国家の秩序)は人間の秩序であってほしかった」と反論するシーンです(p58)。

 原作の「神=自然」対「国家=人間」の対立軸はあっさりと壊されています。てか、アンティゴネの「国家の秩序は人間の秩序であってほしかった」って台詞は、原作を読んでいるとかなり混乱します。 

 またクレオンとアンティゴネの激論で、アンティゴネはもっぱら他国と戦争をしても自国が傷つくだけだと主張しています(p54-57)。

 原作にあった、ポリュネイケスをなぜ弔う必要があるのかの議論はほとんどありません。

 

 そして、最後。

 コロスは「あの女、すべてを悟りはしたが、ただただ敵を助けたばかり」(p117)と歌いあげます。

 これは、中盤の墓に連れて行かれる際のコロス「だがあの娘もかつては、奴隷たちが焼いたパンを食べていたはず」(p87)に呼応します。

 この点は解説で谷川先生も触れられています。

 

 

 アンティゴネは一見すると、クレオンたちをはじめとする上流社会、国家支配層に抵抗したように思えます。

 しかし、本当にそうか。

 結局、アンティゴネとクレオンの争いは、一般民衆のあずかり知らぬところで行われた「意見の違い」でしかない。

 彼らが論争している間に、兵士たちはどんどん死んでいる(本作では、実は戦争が終わっていなかったことが終盤に明かされる)。

 アンティゴネがクレオンに訴えたように戦争が否定されるべきものであるなら、アンティゴネのするべきことは「自分の」兄の埋葬について、つまり「わたくしごと」について抵抗することではなかったのではないか。

 結局、彼女も上流社会、国家支配層の一員でしかなかったのではないか、とブレヒトは主張しているように思います。

 

 ブレヒトは、本作でわかりやすくナチス、ソ連(共産主義)、反=戦争などの要素を振りまいているけど、実際に彼が述べたかったことは、少し違ったのではないかと愚考します。

 真の意味で「抵抗する」とはどのようなことなのか。

 共産主義台頭のアンチとしてナチスが成立してしまい(ヴィスコンティの映画「地獄に落ちた勇者ども」で描かれていました)、ドイツから「抵抗」せずに逃げたブレヒト。

 亡命先のアメリカでは冷戦の影響で(西)ドイツに戻ったが、入国拒否されたブレヒト。

 本作が執筆された1948年は、ベルリンの分割統治が始まった年。ソ連が本格的に大国として振る舞い始めた年。

 彼が信じた共産主義が変質していくのを、「抵抗」せずに眺めていたブレヒト。

 

 

 最後に。

 私がおおと思った台詞。

 クレオンの「故郷を侮辱するのか」と批判した際のアンティゴネの反論。

 「違います。大地は憂いのもと。故郷とは、大地だけではない。家だけでもない(略)そんなところは故郷とは呼べない」(p55-56)。

 これ、原作にあったかなあ。

 こういう前提からであれば、「故郷に刃向う者への罰」とは有効か、そもそも「故郷とは何か」という議論になって、もしかしたらアンティゴネの主張を飲み込めるような気がします。

 そして、亡命生活の挙句、居心地が良かったのか謎な東ベルリンにたどり着いたブレヒトが、もしかしたら寂寞感を込めたのではないかなあと、ちょっと切ない気持ちになります。

 

 ああ、これ観劇したいなあ。

 てか、もう一回原作を読みます。

 

 やっぱり、読書は面白い!

 

 

 

ブレヒト「アンティゴネ」  谷川道子訳

800円+税      186ページ

光文社古典新訳文庫

ISBN 978-4-334-75315-3

 

Antigone.

Bertolt Brecht, 1948