おっさんには渋谷は似合わない。

 強烈なアウェー感でいたたまれず、ああ、家でラグビー見てた方がよかったかなあなどと思いつつ、足早にシアター・コクーンへ。

 私と同年齢らしい男性も皆さんこじゃれた服装です。あとお綺麗な女性と一緒だったり。

 私のような、全身、ユニクロ男が一人で行く場所ではないですね。

 ホントに疲れました。

 

 オイディプス王。

 10年以上前の野村萬斎版は立ち見で家内と観たのですが、今回は2階席に座って一人で鑑賞。

 しかし、久しぶりのシアター・コクーン。2階からだとこんなに舞台から遠かったけ。

 以前、「走れメルス」を深津絵里さん見たさに観劇した(お綺麗だった!)時や、「盟三五大切」を観に行った時は双眼鏡持参だったと後悔。

 てか、このブログ、読書がテーマなのに、連日、本の話になってないですね。

 ま、いいですかね。

 

 

 で、オイディプス王ですが、ギリシャ悲劇で古典中の古典なのでネタバレなんぞないのですが、未見の方は演出に触れるので、以下、避けていただいた方がいいかも。

 

 

 

 

 舞台はおそらく近未来?

 疫病のため、基地のようにデザインされた宮殿に入るためには、防毒マスクや防護服を脱ぎ、消毒しなければならないという設定。

 なんか、昨今のゾンビ映画とかデストピア映画っぽいです。

 テーバイの人々はみすぼらしい恰好で1階、王と王妃たるオイディプスとイオカステは2階に寝室があり、そこで居住しています。

 また彼らの居住空間だけ透明のガラス(?)で仕切られ、鉄骨剥き出しの人々の居住地と異なり、明らかに住みやすそうです。

 わかりやすいヒエラルヒー。

 

 さて、舞台は、人々が疫病で憔悴している中、2階の寝室でオイディプスとイオカステが服を整えているという場面で始まります。

 「薔薇の騎士」みたいで、なんとも艶めかしい・・・というか、服装が現代風なので「艶めかしい」を通り越して「生々しく」、私はちょっと引いてしまいました。

 

 海老蔵さん、とにかく背広姿が似合ってかっこよかった!

 また発声がはっきりしていて、本当によく台詞が聞こえるし、早口になっても何を話しているかしっかり聞き取れます。

 私は実は舞台がちょっと苦手なのですが、その理由の一つに発声があります。

 日本人俳優さんは体格のせいか「劇場で声を通そう」とすると若干「怒鳴り気味」になることあって、子音がつぶれて何を話しているのか分からなくなることがあるのですよね。

 でも、さすが海老蔵さんは、そんなことはありません。

 歌舞伎特有のファルセットも使って、見事でした。

 

 森山未来さんも、劇場の後ろまでよく通る、いいお声でした。

 さすがダンサーです。

 体幹の筋肉が違うのでしょうね。

 

 今回の舞台は、クレオンが実は・・・・な演出、解釈ですが、まあ、それは横に置いておきましょう。

 個人的には、あとで述べる神への抵抗と敗北の悲劇が矮小化されて、いかがなものかという印象だったので。

 今回、拝見しての私の大きな発見は、「オイディプスの傲慢さ」についてです。

 

 野村萬斎版、とにかく野村さんが例の口調で、四六時中、怒鳴っ・・・もとい、大きな声で攻撃的に話していて、まあ、「気性が激しい」という設定なので、仕方ないのですが、何しろ台詞も上演時間も長いので、結構、観ていてしんどかったのも事実です。

 

 ところが、今回の海老蔵さん版。

 海老蔵さんの演技、時にのらりくらりとし、そして相手を小ばかにし、いきなり恫喝して威嚇するなど、緩急をつけてテーバイの人々やクレオンなどと接している様は見事でした。

 今回の演出の肝、私的にこれだと思ったのが、海老蔵さん版オイディプスが、誰に対してもいつもどこか小馬鹿にしているところです。

 だって、気性の激しさだけでは「常に人を見下す」ことにはつながらないですよね。短気で怒りやすいことはあっても。

 

 おそらくオイディプスは、己の運命、あるいは運命を左右する神に、「勝った」と思っている。 

 神を、運命を、自力で出し抜いたと思っている。

 それは傲慢にもなるというものでしょう。

  

 だからこそ、後半、真実を知った時のオイディプスの絶望感は一層、際立ちます。

 自分が出し抜いたと思っていた神は、実は自分を思い通りに動かしていた・・・

 運命に抵抗し、それに抗うことができていたと思ったが、それはただの思い込み、自己満足に過ぎなかった・・・・・

 

 気性が激しければ激しいほど、この事実は大きな屈辱であり、絶望であったでしょう。

 

 

 私は野村版では後半のシーンでずっと号泣してしまったのですが、それはオイディプスが自分には不利なはずの「真実」を知ることを躊躇わなかったたことに対してでした。

 むしろイオカステや羊飼いの方が躊躇っていて、オイディプス本人は神殿にある「汝自身を知れ」に忠実に、自分自身の真実を知ることを避けようとしない。

 徐々に事情が明かされるにつれて、どうも自分に都合の悪いことらしいことはオイディプスも分かっている。

 でも、誇り高きギリシャ人として、王として、彼はその義務あるいは生きる指針である「自分を知る」ことを避けなかった。

 まことに感動的でした。

 

 もう一点。

 野村版では、「妹にして娘」であるアンティゴネ―がもう少し成長していて、おそらく父にして兄、娘にして妹であるという、忌まわしい状況をわかってしまっている。そうであっても「父上」と呼ぶことをやめない。

 彼女も、己の運命を「父にして兄」とともに引き受けようとするところ、私の涙腺はそこで完全崩壊していました。

 

 

 さて、今回は。

 号泣まではいかず。でも周囲で鼻をすする音が聞こえていました。

 野村版のオイディプスは「苦悩」していましたが、海老蔵さん版はオイディプスは情けないほどに「おろおろ」するのです。

 自分が「負けた」ことに茫然自失とするオイディプス。

 自分が「勝った」と思っていたが、「見えているもの」=神には、お見通しだったに違いない屈辱感。

 本当に哀れでした。

 同時に、野村版のように最初から「運命を受け入れよう」と立派に振舞うのと少し違うオイディプスに、ちょっと親近感(?)を覚えて新鮮でした。

 

 

 今回の演出で残念なのこと。

 まず、アンティゴネーが幼すぎること。

 子役さんたちは名演技で涙をさそうのですが、悲しみの質が「パパと離れる」なんですよね。

 やはり、「呪われた血を受け継いでいる」ということを知って父にして兄と共に慟哭するのとインパクトが違います。

 どうして、あの年齢にしちゃったのかなあ。

 

 もう一つは、現代的な設定なので、オイディプスがどうして真実をあんなに知りたがったのかをうまく説明できないように思われる点です。

 あんなにナルな感じで、かつ現代人だと、「It's "Fake news"!」とか言って、無かったことにしそうではないですか?

 やっぱり紀元前400年くらいのギリシャ人でないと、あそこまで「私自身を知る」ことにおいて自分を追いつめ、悲劇的な状況に陥らないのではないかと思ったりします。

 だから、今回の演出では途中のオイディプスの感情を追っかけられなくなる。

 クレオン叛乱の証明のために性急に真実を知りたがるというのなら、今回の演出的には説明ができそうですが、流れ的に無理だと思うし。

 

 まま、古典だし、いいでしょうかね。

 

 感心したのが翻訳です。

 舞台が始まる直前に読んだパンフレットによると、演出家の脚本は原語では神を「God」ではなく、わざわざ「the god」にしているのだそうです。

 このニュアンス、どう日本語にするのかなと思ったら、いちいち「あの神」「この神」と連体詞を付けて訳していました。

 で、どうしてそうしたのか、パンフレットで読んだ時は分からなかったのですが、舞台を見てなんとなくわかりました。

 

 こういういい方だと「例のあの神」というニュアンスになって、「唯一にして絶対的な神」という意味合いが失われるんですね。

 だから、「神」がなんだか便利な道具というか、真剣で真摯な信仰は失われていて、ご利益第一な神、利用価値のある神という感じになっていました。

 

 でも、神が失墜しているという脚本なら、オイディプスが運命から逃れられないこととは何を意味するのでしょうか。

 あるいは、オイディプスは何に負けたのか。

 

 テーバイの人々から常にやや離れたところに立つ「リーダー」、あるシーンではオイディプスにまとわりつく人々を後ろから「操っているかのように」動く「リーダー」。

 そして、オイディプスがコリントスに居た時に「噂話」をする群衆。

 

 神なき世界で、神からの信託を受けなくなった権力者の力を担保するものは何か。

 それは<ある物語>でしかない。

 たとえば「スフィンクスの謎を解いた英雄」。

 その物語は、簡単に覆せる。

 たとえば「あの人は本当はコリントス王の子ではない。ライオスの子だ」。

 

 そして、物語の転覆は、民衆の力をうまく利用すれば誰でもできるのだ・・・・ということでしょうか。

 

 そうそう、クレオンの高橋和也さんもよかったです。

 いかにも「私はナンバー2でいいですう」と言いそうでぴったり。

 なにしろ野村版のクレオンは吉田鋼太郎さんでしたからね。

 どう考えても、次の王位を狙ってそうでしたよ。

 

 うん、古典劇はやっぱり面白いです。

  

 

 

 

 市川海老蔵主演「オイディプス」  2019年 シアター・コクーン