最近、やっと新しい「生き甲斐」が見つかりました。

 土曜日のドラマ「傷を癒すということ」と、日曜深夜のアニメ「映像研に手を出すな」。

 後者は子供1から教えてもらいました。録画して子供たちと見ています。

 OPで歌っているChelmikoさん、いいですね。ちょっとCharisma.comっぽいけど。

 これで、しばらくの間は生きていけそうです。

 

 

 本書。

 これも本屋でぶらぶらしていて偶然発見。

 なんだか偶然出会った本の方が、面白いことが多い気がします。

 

 

 さて、本書は阿久悠さん(第一章)、向田邦子さん(第二章)、「楢山節考」(第三章)、下田歌子(第四章)、中島みゆきさんと西原理恵子さん(第五章)の作品などを通じて、女性観の変遷をみていくというものです。

 

 感想を先に申し上げると、大陸フェミニズム的なhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12528972116.html、性という差異は現実のものとして、その上でどうするかという議論だったので、私的には大変に得心のいくものでした。

 

 

 まず第一章、阿久悠さんの歌詞。

 それまでの歌謡曲はもっぱら「すがりつく女」(p34)を描いてきた。貫一、お宮の世界ですね(って、若い方はわからないか)。

 しかし、阿久さんは、もっと強い女性を描きたいと考えた。というか、女性は強いのだから、そのように描きたいと思った。

 阿久さんの歌詞に出てくる女性たちは、「結論を自分で出す」「男の前で泣かない、男を恨まない」(p32)、そういった凛とした性格だといいます。

 男を描いた「カサブランカ・ダンディ」の諦めの悪さ。一方、女性を描いた「北の宿から」(懐かしい!!)の歌詞の内容の違い。非常に面白かったです(<着てはもらえぬセーター>を編んでいる意味、説明されてなるほどなあという感じでした。普通、逆に考えそうだけど・・・)。

 

 ついで第二章。

 私の母親は向田邦子さんの大ファンで、私が小中学生のころ、よく読んでいました(最近は、なぜか私の苦手な村上春樹さんばかり読んでいます)。

 なので、自分の母親のことを考えながら読むと、いろいろ肯けました。

 向田さんは「女性を信用していない」のだそうです(p58)。それはなぜか。

 一つは「度し難い業」がある(p85-96)。それを向田さんは「阿修羅」とも表現した。小説(ドラマ)のタイトルになっています(p103-104)。

 それがどのようなものかは本書をどうぞ。

 非日常を愉しむということなのでしょうが・・・・。

 

 ついで「馬鹿をよそおう」が、実はそこに計算がある「利口な女」がいること。

 「生臭い」までの「したたかさ」があること(p112-116、p234-236)。

 うーん、これって最近はどうだろう・・・と思ったのですが、考えてみると三浦瑠麗さんが男相手に会話をするとき、「とりあえず聞き手」にまわるhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12564112378.htmlと仰っていたのは、「私は、ソノコトについて、あまり知らないので、とりあえずお話を伺います」ポジションを「敢えて」とるということだから、これの応用版ですね。

 

 さて、向田さんにとって女性の「強さ」は「男を巧妙に『調教』するという『変テコなウーマン・リブなんかより、うまいやり方』をさらりとやってのけること」(p68)とされます。

 日本では古来、主婦のことを「刀自(とじ)」と呼んでいたそうで、もともと「独立した女性」という意味だったそうです。

 なので主婦は(よく批判される)「一家の主人の妻」という意味だけではなく、「一家の主人である女」も意味していると。

 イメージは「女将さん」、つまり家の中の秩序を一手に引き受けている女性です(以上、p72)。

 そして、そういう働きをすることが、女性の矜持なのだと向田さんが繰り返し論じていると、本書では指摘されます(p79)。

 さて、この考え方、現代の女性の皆さんはどうお感じになるか。

 これは、第四章でもう少し展開されます。

 

 第三章は楢山節考についてです。

 本章のメインのテーマは読んでいただくとして、私的に面白かった点をいくつか。

 まず「恥」は、葉、歯、端など、本体からはみ出したもの「外ず(はず)」から来ているとのこと(p125 向坂寛先生の指摘だそうです)。

 それからイザナミが、日本国の源となる島々を生んだわけですが、そのあと死んでしまう。つまり、イザナミは<生の神>でかつ<死の神>だったという伊藤先生のご指摘(p138-139)。

 そこから「楢山」の習慣に話がつながり、女性が「子どもを産み」「育て」るだけではなく「命をつなぐ」意味をもっていること(p142 食い扶持を減らすことが若い世代の食を担保する p145)、言い換えれば「死が生を支える」ということになる(p145)。

 「私の」死から「私の」生を考えるというハイデガー式のものの見方でなく、「私の」死が「私以外の」生を支えるという考え方は興味深いです。

 また、繰り返しになりますが、生と死を考えるとき、生から死(誕生して死ぬ)というより、死から生(死んで誕生する)という方向性を女性の精神分析家や精神科医がしてきたhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12546491605.html?frm=themehttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12542407526.html?frm=themeことと関連性がありそうで、少し考えてみたい点です 

 

 面白かった第四章。

 下田歌子って、私は知らなかったのですが、林真理子さんのファンの方なら「ミカドの淑女」でご存知も。

 彼女は「良妻賢母」の提唱者だったそうです。ただし、明治以降(からおそらく現代にまで)、広まった考え方、男は富国強兵に沿って国家に貢献し、女性は「二次的存在」として「内助の功を尽くす」(p153)という意味では<ない>のだそうです。

 そもそも下田は漢学、儒学、源氏物語の研究、欧米留学など幅広く研鑽し(p155)、これらの見識、学識から女性はどう生きればいいのかを考えたといいます。

 その結論は「女性の長所を生かす」こと(p159)。

 それも西洋由来のものを無批判に取り入れるのではなく、時代の変化を無視した復古的な生き方を保持するのでもない(p159)。 

 

 具体的には?

 「家庭を修めること」。つまり家政であるといいます(p172)。

 収入、収益を増やすことを得意とする男(なので社会に出る)に対し、女性は「決まった収入に対していかに支出を抑えるか」に長けている人が多いと(p172)。それは「国家の政事」(p175)に対する「家事内政」(p174)なのだといいます。

 考えてみるとeconomyの語源であるオイコノミアは<家政>という意味です。このことと「国家の基も、社会の基も、みな家庭からなるのですから、家庭を治め、家族を理ることは、すなわち国家の基礎を作る」という下田の主張はつながるように思います(p177)。

 つまり女性が家で行っていることは決して「二次的」ではない。あえて言えば「間接的」(p177)。

 

 では女性は家を守るのに専念しましょうと下田は言いたいのか?

 「そうではない」と下田は強調します。

 

 適性があれば、もちろん女性は学問を学び、社会で働くできであると、下田は奨励しています(p178-181)。

 むしろ「女性に学問はいらない」という、当時、広くあったであろう言説を、激しい論調できちんと攻撃しています(p181)。 

 そして下田は「欧米諸国の女権論者」のような男性上位、女性下位という考え方はとらないといいます。

 そうではなく、両者は表裏の関係であり、どちらも重要である、帯のように裏が外にあらわれたり、逆に表が内側になることがあるのだ、と巧みな比喩を使って説明しています(p183)。

 

 もちろん、女性の長所が「家政でしか活かされない」のかという反論、あるいは社会制度的な問題(いわゆる「ガラスの天井」)があるではないかというご議論あるでしょう。

 ただ私なりに下田の議論をまとめると(抽象化しますが)、家事内政云々、もう少し言えば男女も横に置いて、要は<人には「差異」がどうしてもあるのだ、それを認めるところから出発しよう>ということだと思うのです。

 そして、その「差異」は埋められないこともある(たとえば、私の近眼は、家内の乱視と、全然見え方が違います)。

 だから<差異を前提にして、各人が「得意」なことをすればいい>ということになる。

 当然、「差異」に「上下」はない(近眼と乱視のどっちが上か下かはナンセンスです)。

 「差異」は差異でしかない。 

 (ただ、下田の「表裏」という比喩、どちらが「表」なのだとか、女性が「裏」(と下田は書いています。時代的な制約でしょう)なのはけしからんという、私からするとちょっと的を射ていない反論を引き出しそうですが・・・)。

 

 いかがでしょうか。

 私は納得できます。

 もちろん、社会制度の設計見直しは必要でしょう。

 

 また、本筋とは関係ないけど面白かったのがイザナミとイザナギの下田解釈。

 イザナミは「成り成りて成り合わざる処一処あり」。つまり何か<欠け>ている。

 一方、イザナギですが「成り成りて成り余れる処一処あり」。つまり<余計なもの>がある。

 これ、下田の解釈では<男女”とも”に不完全なのだ>ということになるのです(p170)。

 おお!ファルス(ペニス)中心主義と批判される精神分析「学者」(精神分析「家」ではないです)と、そう批判なさる方たちに聞かせたいです。

 

 日本では男女差は、単に「ある」に対するその否定の「ない」ではない。

 「余計」と「不足」、あるいは「ある以上にある」と「ある未満にない」で、いわば同じ次元なのです。

 

 ちょっと唸りました。

 

 しかも古事記では(蛭子を生んでしまったあと)男女の神で「御協議」している(p167)。

 その際には<レディーファースト>なことに「女神がまず進んで言あげして」います(p167)。

 うまくことが運ばなかったとき、古事記の男女の神は、まず女神が口を開き、そして二人で<話し合っている>のです。

 ちょっと目から鱗でした。

 古事記解釈のあたりは、下田歌子の本を読んでみたいです(どうも絶版ぽいですが)。

 

 さて、最終章。テーマは幸せ/仕合わせについてです。

 本筋から離れますが私が面白かったのが浄土真宗のことです。

 真宗は他力信仰で知られていますが、実は他力は自力が前提なのだそうです。

 「山から月がでるかどうかは私たちにどうしようもできない」(他力)。しかし、月が出たかを確認するには「私たちが頭を高くあげて月を待ち続ける」必要がある(自力)(p205)。

 なるほど。ただ他人の力に頼るだけではないのですね。

 さすがに本物の宗教は深いです。

 

 そして、またしても九鬼の偶然論が出てきますhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12562084204.html

 「『何故』に対しては、理論の圏内にあっては、偶然性は(略)不可欠条件」(p208)。

 つまり因果のような論理で、「なぜ?(出会った)」かは偶然だとしか言えない。

 一方、「実践の領域にあっては」「『遇うて空しく過ぐるなかれ』という命令を自己に与えることによって理論の空隙を満たすことができるであろう」(p208-209)。

 理屈でなく私たちが生きていくうえでは、もし誰かと出会ったとしたら、それをむざむざと見過ごすなということが実践的な命令(これってカント的には道徳ですね)なのだと九鬼は言っているそうです。

 

 さらに「偶然が人間の実存性にとって核心的全人格的意味をもつとき、偶然は運命と呼ばれる」(p209)。

 美しい言葉です。

 

 

 

 というわけで、女性観の変遷を論じる本ですが、女性を恐怖してきた(私はそう思っています)https://ameblo.jp/lecture12/entry-12528972116.html男性の「他者」に対する歴史を論じる本でもあると思います。

 

 ざっくりと読むと「専業主婦」「良妻賢母」などの単語があふれているので、「時代遅れ」で「男性目線を取り込んでいる」価値観で彩られた本と読めてしまいそうです。

 しかし、繰り返しになりますが、差異をもった他者との「出会い」をどう考えるか、他者によって逆照射される自分を、あるいは自分の役割をどう考えるかという本でもあると思います。

 

 

 うーん、ちょっと女性の方の読後感を知りたいなあ。

 ちなみに著者は1975年生まれの女性です。 

 

 

 

 

 

伊藤由希子「女たちの精神史 明治から昭和の時代」

2200円+税   256ページ

春秋社

ISBN 978-4-393-31302-2