あけましておめでとうございます。

 

 年末はばたばたして、結局、仕事関連の本は一冊しか読み終わりませんでした。まずい・・・

 その合間に読んだ本書(てか、仕事しろ)。

 

 その前に。

 三浦瑠麗さんは「瑠璃」さんではなかったのですね。

 「瑠璃色」の瑠璃かと思ったら「璃」は人名用漢字になくて、瑠「麗」になったそうです(p49-50)。

 過去ログ、訂正しました。https://ameblo.jp/lecture12/entry-12523808756.html,  https://ameblo.jp/lecture12/entry-12496700530.html?frm=theme

 

 

 さて、本書。

 なんとも不思議な本です。

 おそらく、趣旨としては、障害者として、女性として生きていくことの困難を、互いに語りあう対談ということだろうと思います。

 「思います」というのは、そういう読後感がないからです。

 最終章が本のタイトルに意味合いが近そうですが、内容がほとんどネット・リテラリシ―の話なので、やっぱり全体として不思議な本です(と三浦さんもあとがきにお書きになっている)。

 また、これは男女の違いか、お二人の個性の違いなのか不明ですが、前半と後半で構成はシンメトリーなのに、内容がシンメトリーになっていません。

 前半:乙武さんから質問 → 三浦さんお返事(質問から主旨は離れないが詳細) → 乙武さんの短いうなづきに近いご意見かご感想。

 後半:三浦さんから質問 → 乙武さんのわりと短いお返事 → 乙武さんのお返事や経緯を踏まえて、三浦さんがお考えになった乙武さん像、あるいはお返事に対する三浦さんなりの解釈の確認。

 読み終わると、全体として三浦さんがずっとお話なさっていた気がして、対談・・・・なのかな?という読後感もあります。

 

 

 仕事的には後半が面白かったのですが、個人的に面白かったのは前半です。

 

 以前も書きましたがhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12496700530.html、私が三浦さんを興味深い方だなあと思う理由の一つが、「女性として生きることの困難さ」を語る一方で、三浦さんが(私が思う)「フェミニン」な雰囲気を両立させていることです。

 この点について、本書ではご自身でも述べていらっしゃいます。

 自身の女性性は「伝統的な日本女性」のものとも、アングロサクソンで見かける「強い女性像」とも違う(p14)。

 そして、「もっとフェミニンでいたい」とおっしゃる(p14)。

 ただ、それが具体的にどのようなものか三浦さん自身「うまく表現できない」と率直におっしゃっています。

 ・・・・なら、私のような凡人にはなかなか理解できないわけです(・・・安堵)。

 でも、なんだかあれこれ考えたくなります(・・・・余計なお世話)。

 

 また女性であることの困難さについては、前著のエッセイと同様です。

 いつも「見られている存在である」こと(p12)。

 さらに本書で「呼吸するように周りに気を遣う」(p12)ことも加わっています。

  ちなみに私はもう一つあると愚考しております・・https://ameblo.jp/lecture12/entry-12496700530.html?frm=theme

 

 読んでいて納得し、私もそうだろうなあと愚考するのが、男女平等になっても、性を巡る緊張感はなくならないだろうというご指摘(p21)。

 このご指摘が重要なのは、その根拠が理論とか理屈ではなくて、某国大使館での三浦さんご自身の経験談であることです。

 このようなリアリズムは、三浦さんの持ち味だろうと思います。

 「何かが異なる」故に生じる緊張感は、その相手に「なぜか惹かれる」ことの胚種となるのではないでしょうか。

 そして、そのことは異性のみならず、同性でも事情は同じはずです(つまりLGBTの方々においても)。

 

 また、驚き、感嘆したのが、三浦さんの「私は、いってみてば『女』のかたまりです。女から抜け出している、なんて言うつもりは全くありません」(p141)という断言です。

 「女性だから」何かができない、「女性ゆえに」何かを妨げられたという言説を、安易に使うことを自ら封じたといえる。

 もっと私的に重要なのは、性別云々ではなく、「私はまちがいなく<この私>です」という宣言のように聞こえることです。

 つまんない専門用語でいうところの、「ジガドウイツセイ」とか「セイテキドウイツセイ」の「カクリツ」とか言われるものですね。

 自分を語るときには、かくありたいものです。

 

 

 私の仕事的に役に立ちそうな部分(p103-107、116)。共感についてです。

 人の話を聞く際に「共感しなさい」というのはクリシェです。

 しかし、これ、ともすると「共感の押し付け」になってしまう。

 他人の気持ち、テレパシーの持ち主さんでもない限り、そうそう簡単に「わかる」ことはできない(というか、安易に「わかる」と思ったり、言ってはいけない)と思います。

 

 じゃあ、どうするか。

 エムケさんhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12555897829.html、マラブー先生https://ameblo.jp/lecture12/entry-12558890521.htmのご著書と同じことが。

 「傍観者にならない」「連帯する」(p106)。

 

 「あなた」は「私」ではないので、簡単には心情や事情はわからないかもしれない。

 「にも関わらず」、「あなた」に関心を向け続けること、傍らにいること。

 

 さらに三浦さんは他者の言説の理解に共感は最後まで使わないといいます。

 使うとすれば「分析スキーム」(p104)。

 具体的には?

 離れたページで、政治学とは何かについての箇所に書かれていました。

 「相手の立場にたつ」(=共感ですよね)ためには、まず「構造化」が必要である。そうでないと印象を述べるだけになると(p117)。

 これ、メンタルヘルス界隈の仕事にパラフレーズできますね。

 さて、ではどう「構造化」するかです。

 思わぬ本で勉強になりました。

 

 

 落ち葉ひろい。

 

 私は一人でいることは苦にならないし、そういう時間が必要な性格ですが、三浦さんもそのような方なのでしょうか。

 ただ、表現が不思議です。

 「(略)人と距離があってぬらぬらしている」(p58)。

 「ぬらぬら」ってどういうニュアンスでしょうか・・・・もっと知りたかったです。

 

 あと思春期の頃、ヘッセや川端康成などを読んだが「みなさん、女をわかってないなあと思っていました」と(p78)。

 まま、確かにヘッセや(てかBLですよね・・・て、唯一読んだ本が丸わかり)川端康成はそうだろうと思います(よりによって「眠れる美女」しか読んでいませんが・・・)。

 では他の作家さんはどうか、どのような点でわかってないと三浦さんがお考えになったのかを、乙武さんに深堀していただきたかった・・・。

 

 また、女性にとって大事なのは「パートナーに理解されること」、しかし男性は「受容される」ことだろう(p199)という三浦さんのご指摘は、精神分析家のクリスティーアヌ・オリヴィエ先生と同じご意見ですhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12528972116.html

 分析家がクライエントさんと自身の経験から見出した見解と、三浦さん個人の経験からくる意見が一致するのも興味深いです。

 

 面白かったのがp192-196での対話。

 もっぱらご両親から愛情深くケアを受けてきた乙武さんが、対等であるべきパートナーとの関係で「与える」「与えられる」の不均衡で悩んだと。

 そこに切り込む三浦さん。

 おおっ、どうなるかと思うと「愛ってなんでしょう」と総論で逃げようとする乙武さん(うーむ。男あるある)。

 それに対する三浦さんのお返事!

 乙武さんも驚いていましたが、私も驚きました。

 

 フランスのあるエラい精神分析家は「愛は自分にないものを与えること」と定義しました。

 なんと逆説的でカッコいいフレーズでしょう!

 でも、カッコ良すぎて頭の悪い私にはぴんときませんでした。

 ところが、三浦さんのお返事は、この「カッコいい」定義を、具体的、経験レベルに落とし込んで、わかりやすく説明してくださっているように思います。

 まま、本書をお読みください。

 

 女性の方は、「ええ?そんなことも分かんなかったの??・・・だっから男は・・・・」と思われるかもしれません。

 そうです。男は、こういうこともカッコつけて訳のわかんないことを言いたがるのです・・・。

 私は30歳前くらいのうちに、この本を読んでおきたかったです。

  

 

 あと、私がとてつもなく恥ずかしくなったところ。

 男同士の会話では、まず互いの腹の探り合いでマウンティングが始まる。

 ところが男女間では、男は女性に対してなぜか「演説みたいに一方的に話を始めることが多い」。

 また男は会話で「自分が知っていることを強調する」ような、「はしたないあいづち」(!)をうつ。

 そのため議論が、普遍的な方向に行かずに「『自分が知っていること』を披露する会」になってしまう。

 そんな男性社会で生きていく三浦さんの女性としてのスキルは「聞いてあげる側にまわる」こと、なぜなら先に触れたように「男は講釈を垂れたがる生き物」で「助言をしたがる」からだというご指摘です(p133-134)。

 ・・・・はい、その通りです。

 ・・・・ああ、あんなことがあった・・・・そういえば、こんなこともあった・・・・恥ずかしい・・・・・(あ、追加します。このブログもですね・・・)

 

 

 P234あたりの三浦さんは、もはや完全に乙武さんの「お姉さん」になっていて面白い(と三浦さんもあとがきにお書きになっている)のですが、まだ40歳にもなっていない三浦さんより、はるかに年上の私もついでに「お姉さん」とお呼びすることをお許しいただきたいです。

 って、気持ち悪いか。

 

 じゃ、「ミウラの姐さん」で。

 うーん、変わらない。

 

 

 

 

三浦瑠麗、乙武洋匡「それでも、逃げない」

820円+税     266ページ

文春新書

ISBN 978-4-16-661243-7