三浦瑠麗さんをテレビで見るたびに不思議だった。
女性であることの居心地の悪さに言及されるのだが、私にとってはいわゆる女性らしさに満ちていて、拝見していて戸惑ってしまうからだった。
誰でも人は人前に出る際に無意識に演じてしまうことがあるだろうが、それにしても・・・・である。
三浦さんが女性らしさを持つというのは私だけの偏見でないらしく、ある女性評論家の方が、彼女は高齢男性受けがいいだろうと発言なさったと何かで読んだ。
前後の文脈がわからない発言なので即断できないが、要は「異性を意識した記号的な女性性をもっている」ということではないかと推測する。
そして、そのような場合、同性に嫌われがちであることは、姉妹をもつ私には想像できる。
本書である。
三浦さんにとって、女であることは「見られること」(p59、p126)であるという。
考えてみると、私が冒頭に書いた女性らしいは、三浦さんの振る舞い、仕草、視線、話しぶりのことだから「見た」ことに過ぎない。まったくお恥ずかしい。
三浦さんは少し違うニュアンスでお書きになっているが、私は、もう一つ、女であることの困難さがあると思っている。
それは「(まともに)聴いてもらえないこと」である。
手元にないが、ある対談本で中野信子さんが、女性はーー特にある一定以上の容姿の場合、と中野さんはおっしゃっていたーー内容のある話を聞いてもらえない、まともに理解されない、そもそもそのような話を求められないと指摘なさっていた。
男の場合、「見られる」と「聴いてもらえる」はほぼ無関係で、この点は圧倒的な非対称性があると思う。
本書は薄いが内容が濃く、私自身、まだ消化しきれていない。
レジリエンスとか、強さとか、癒しとか、そういう観点からも読める。
ただ、私はそういった観点をとりたくない。
書かれているエピソードに対する三浦さんの態度は、誤解されそうだが、傷ついて当然の場面で「ちゃんと、真正面から、傷ついている」としか、今のところうまく言語化できない。
なので、この点からの私の感想は以上で。
ところで、本書で私の疑問は少しだけ解けた気がした(p134-137)。
青っぽいアイシャドウの濃い先生(p57)が好きになれない幼い三浦さんは、同時にお姫様のような衣裳に憧れる(同ページ)。
それは、ある時に剥がれる(p51)ことで楽になる(p52)ようなものと関係している。
しかし、剥がれて楽になったと思ってもライフステージと共に戻ってくる(p119~ 二十節)。
そして、今の三浦さんはそれで良しとされている。
それがタイトルの意味でもあるのだろう。
おおと膝を打った文章。
「孤独な人は、他者の不幸に自分の不幸を繋げようとする」(p108)
「他人の不幸は蜜の味」なんていうのは、一緒に「ホントだ!蜜の味だね」と共有してくれる他者がどこかにいると思い込んでいる人が言う台詞だと思う。
本当に孤独な人は、相手が「うん、この蜜、甘いねー」と言ってくれないかもしれないと思っている。
というか、そちらの可能性が高いと考えている。
そういう人は、他人の不幸を乗っ取ることまでして仲間に入れてもらおうと割り込もうとする。
不幸を知る人は幸福も知っているのかもしれない。
三浦瑠璃「孤独の意味も、女であることの味わいも」
新潮社 144ページ
1300円+税
ISBN-10 4103522526