トラウマにまつわる陰と陽 | 心と体の整え処 要(かなめ)

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『仁癒整心体(じんゆせいしんたい)療法』と
『本来の自分と繋がる自分軸セッション』で
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前回の投稿で

母が最大半面教師

という話をした。

 

これは実は私なりの

最高の褒め言葉だ。

 

良くできた母親を持つよりも

(特には、子育てという面で)

強烈にイケてない方を

見せてくれることは

私の最高の学びだったと

大変感謝している。

 

母からの学びは『心配』のことだけではない。

それこそ沢山沢山あったキョロキョロ💦

 

そうでなければ

『最大反面教師』

なんて称号は簡単には送れないのだニヤリ

 

ちなみに、そんな母ではあるが

尊敬できる面も沢山あるし

今でも、とても仲が良いので

そこは誤解のないようにウインク

 

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今まで、

自分のプロフィールには

幼少期のことを書かないでいた。

 

それは、何もなかったからでも

言えないほど辛いのでもない。

 

2020年頃に

しっかり掘り起こして向き合った結果

なんのわだかまりもなく

とるに足らない

普通の思い出に全て変わってしまったので

言う必要を感じていなかったのだ照れ

 

なのだが

『陰徳』の話がしたくて

その前置きとして必要なので

少々長いかもしれないが

書いてみたいと思う。

 

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【過去の最大のトラウマ】母方の祖母

 

私には、生まれた時から、

『恐怖』というべき存在が一人

存在していた。

 

それが母方の祖母。

母の母という人だ。

 

その人が私を明確に

嫌っている。

恨んでいる。

憎しんでいる。

 

私に向ける顔が常に般若のようなのだ。

 

彼女の娘である

私の母に対する顔は常に笑顔なのに

私に向き直ると瞬時に般若に変わるガーン

 

からくり人形か何かのよう。

 

すさまじい恐怖だった。

子どもながらに

(いや子どもというよりももっと小さい)

全く理解できなかった。

 

「おばあちゃんって、孫は目に入れても

痛くないほど可愛いって言わないっけ??」

 

すごく幼い自分でも

こんな常識があることを

認識していたんだよね。

(過去世からの知識なのだろうか?

外から教わった気がしていない

身に染みて知っていることって感じ)

 

「なんだよ!!きいてないよ!!

この人、その常識に全然

当てはまってないよ!ガーン💦💦」

 

当時は何故、母方祖母がそんななのか

全く理解できていなかった。

後に理解したのは、

母が5人兄弟の末娘で、

祖母にとって溺愛の対象だったこと。

 

そして、

その母が溺愛する対象が私なので

祖母からすると私は

母を祖母から奪う存在だった。

ということだ。

 

大勢いた彼女の孫たちの中で

そのような扱いを受けていたのは

実際、私だけだった。

 

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幼少期の記憶

 

幼稚園のとき

両親は共働きだったので

お迎えは

父方の祖父か

母方の祖母の

どちらかが来ることになっていた。

 

父方の祖父母の家は

幼稚園の近くにあり

私はいつも幼稚園の前後は

そこで預かってもらえていた。

 

しかし時折

母方の祖母が自宅へ泊まり込みで

母の家事の手伝いに来る期間があり

そのときには

父方の祖父母の家には行かずに

母方の祖母が送り迎えをする。

 

私はいつも

今日のお迎えが

誰なのか?を

知らせてもらえていなかった。

(母は子どもに気持ちがあることを

知らなかったのかもしれない)

 

帰る時間になって

外を見て、お迎えの人の顔を探す。

 

父方の祖父がお迎えだと

私はとても喜んだ✨✨

 

反対に

 

母方の祖母の顔が見えると

一気に地獄へ落ちた気持ちになった。

 

その一喜一憂を今でも鮮明に覚えている。

 

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私は幼稚園の頃に一度

笑い方が

全く分からなくなっている。

かなりの期間それは続いた。

 

幼稚園生の悩みが

「笑うってどうやるんだっけ?」

だった。

 

口角を絞り上げて

全く笑っていない

不自然な笑い方をする

写真が残っている。

 

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母方の祖母の言動

 

祖母は私に

「穢れた血」だの

「おまえは生れてきちゃいけなかった」だの

言っていた。

 

そのお陰もあって

これを癒した40代初めまでずっと

私の自己肯定感は見事なまでに底辺だった。

 

なんとなくずっと

生きていることが許されていない感覚が

あったからだ。

 

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小学生の頃

家で祖母と二人で留守番している間は

私は基本、ピアノの練習をすることしか

ゆるされていなかった。

 

自分の意志で喜んで習い始めた

ピアノとバレエだったが

 

このこともあって、

見事にピアノだけは楽しく感じ無くなった。

 

だんだんと

ピアノのレッスンには行かなくなり

自然とやめた。

 

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祖母から暴力は受けてないのか?といえば

ある日、学校から帰って来た瞬間に

頭をぶたれたことがあった。

かなりの強さで。

 

意味がさっぱりわからない。

 

祖母が言うには

私が給食費をもっていかなかったと

言って怒っているが

在校中、一度もそんなものを

学校へ持って行ったことが

そもそもなかったし、

母に朝そんなものを渡されたり

していなかった。

 

「身に覚えがない」とはこのこと。

 

祖母の恐怖はいつもいつも理不尽で

どんなに注意していても

回避行動を徹底的にとってもいても

及んでくる

最悪のものだった。

 

ただ生きているだけで

自動的に浴びせられる恐怖が常にあった。

針のむしろにいるようだった。

 

そして

このことを母は全く知らないでいた。

(気が付いてもよさそうなものなのにキョロキョロ

実際、母に話したのは大人になった後のこと。

 

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父方の祖父母
 
父方の祖父母はそれとはとても対照的だった。
 
父は男3兄弟。
そして私の上には兄。
私は木下家で初めて生まれる女の子だった。
そのことを父方の祖母はとてもとても喜んだ。
 
赤ん坊のときは
保育所に預けられることなく、
父方の祖母が面倒を見てくれた。
 
父方の祖母は早くに亡くなったが
その後は父方の祖父が良くしてくれた。
 
父方の祖父母の家で
いつでものびのびと
過ごしていた記憶がある。
 

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父方の祖父との会話
 
幼稚園のころだろうか。
祖父と2人で過ごしているときのこと。
 
祖父は常に庭と部屋を行き来して
何か作業をしている。
 
その日祖父は
庭の物干しにぶら下げたラジオで
相撲の中継をききながら
作業をしていた。
 
そして
「がんばれ!!がんばれ!!そこだ!!」
と、ラジオの相撲のいちばんに
熱烈な応援をしている。
 
そして、勝負が決着すると
盛大に喜んでいる。
 
私は質問した。
「おじいちゃんはどっちを応援しているの?」
 
おじいちゃん
「勝つ方を応援しているんだよ。
そしたら応援している方が絶対勝つからね。」

 

子どもながらに

なんじゃそりゃ?と思ったが

とても智恵のある人だ!とも思った。

 

常に自分が上機嫌でいることを

選択できる人なのだから。

 

そういえば、

おじいちゃんが機嫌悪かったことなんて

一度もなかったな。

 

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私の父

 

何でも口を出す母とは対照的に

父は私に「どうしろ」とは決して言わない人だった。

 

そして、父に怒られた記憶は1度しかない

私がお風呂のふたをしめられなかったことを

注意された1度だけだ。

 

理由が明確で、

1度でお風呂のふたを閉められるようになった。

 

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私の決断をいつも肯定してくれて

(母に相談しても必ず反対されるため

社会人になって、最初に家をでるときには

まず父に話して認めてもらった)

 

どんな私でも

ニートでも引きこもりでも

鬱でも閉所恐怖症でも

父は私のどこも問題としなかった。

(母はそうじゃなかったが爆  笑💦)

 

大人になってからも定期的に

私が好きな料理のあるお店へ

私を誘いだし

家族で自然と過ごせるように

取り計らってくれていた。

 

お寿司屋さんに

二人で行くことも良くあった。

美味しいもので私を釣るのが

とてもうまい父だった✨✨

 

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父が他界して、

月日をかさねるにしたがって

強く思うこと。

 

それは

父の愛は深かった。

ということ。

 

口をださないでいることが

どれほどすごいことか。

 

私が今、自分の魂の道を歩いていると

強く実感すればするほど

父の愛を強く強く感じるのだ。

 

父が生きているうちに

私は何も成し遂げていない。

父が亡くなる前後は特に

私は人生のどん底にいただろう。

 

それを父は受け入れてくれていた。

責めず、口を出さず。

私が助けてほしいと言ったことにだけ

応じてくれていた。

手を差し伸べるときでさえ

苦言の一つも言ってはこなかった。

 

その時期があったからこそ

私は今、自分を生きることを

選択できている。

 

私のことを本当の意味で

信頼してくれていたのは

父だけだった。

 

父や、父方の祖父母のことを想うと

その愛の深さにいつでも

涙があふれてしまう。

 

これを書いている今も

この愛に涙してしまうのだ。

 

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陰と陽

 

木下家からの愛を

これほど色濃く感じて

受け取れるようになったのは

 

母と母方の祖母あってのことだ。

 

もし

母や母方の祖母が

良き母・良き祖母であったならば

私は愛がなんなのか

理解することはおろか

感じることすら

できていなかったかもしれない。

 

深い漆黒の闇を感じたからこそ

光が眩しく美しく尊く感じられるのだ。

 

その闇を与えてくれた

母方の祖母にも

そういった意味で感謝をしている。

(行為そのものを好きにはならないがキョロキョロ

 

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陰徳

 

本「おてんとうさまはみている」

の中で、陰徳という言葉が出てくる。

 

徳積みに全く惹かれない私ではあるが

陰徳という言葉には

ビビビっとくるものがあった。

 

父の行いは

父の愛は

まさに陰徳ではないか?!!!

 

というか、

 

真の徳や愛は、

陰徳しかありえないのではないか??

 

というところに

思い至ったのだった。

 

陰徳についてはまた別投稿で

 

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