「土曜授業」…その行方は!? | 作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

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本日は、2014年5月31日(土)。
5月もいよいよ今日で最後。
いやはや5月病なんか感じる前に6月を迎えてられそうです。

さて、本日の新聞(読売新聞)では、「土曜授業」について1面と39面に記事が載っています。

今年度から正規の土曜授業が解禁されたということですが、実施している自治体は約14・5%、任意参加の体験活動や補修などを実施している自治体が約11%だと、読売新聞の調査結果が報じられています。
(ヨミウリオンライン http://www.yomiuri.co.jp/national/20140530-OYT1T50208.html


私が小中学生の頃は、当たり前のように土曜日も午前中だけ学校がありましたが、高校生あたりから隔週の土曜日がお休みになったように思います。

現在では、私立の学校などを除いて、多くの公立小中学校では土曜日がお休みというのは、完全に定着している状態ですよね。


そもそも土曜日がお休みというのは、いわゆる「ゆとり」の一環として、様々な体験活動等を含めた有意義な時間を過ごすために土曜日の授業がなくなったわけです。

が、実態としては、単に「学校に行かない日(時間)」が増え、TVを見たり、ゲームをしたりする時間が増えた、というように本来意図していたような有意義な時間として費やされていないことも多々あるようです。

文科省の調査では、5割近くの子どもがそうした本来意図していないような、「大人的」「ムダ」な時間を過ごしているようです。


さぁ、これはこれで問題ではありますが、本当の問題はここからです。

なぜ土曜日休みが定着している現状、さらには多くの自治体が未だ正規の「土曜授業」を実施していない現状で、「土曜授業」が解禁となったのか。


最近の教育事象を語るうえでは、記事でも触れられていましたが、国内外の学力調査における「学力低下」問題はさけては通れません。


近年の大きな教育の流れとしては、やはり2000年から3年毎にOECD(経済協力開発機構)が実施している国際学力調査「PISA」が大きな潮流となっています。

2003年に「読解力」(正確にはReading Literacy(リーディング・リテラシー)の平均点のランキングが大きく下がったことを受け、「読解力低下」→「学力低下」の論調が大きく前面に出てきました。

これを受けて国内でも平成19年度から「全国学力・学習状況調査」が実施され、具体的な改善案として現行の学習指導要領が打ち出されたんですね。


だから、今回話題の「土曜授業」も、「ゆとり」の反省→「学力低下」克服というものが基調テーマとなっているんですね。



ただし、ひとつ気になることがあります。



教育や学力などの話題になるとすぐに学校が連想され、何かあれば「学校は何をやっている!?」「どうなっているんだ学校は!?」と、何でもかんでも学校の問題、学校の責任にしてしまう風潮がないでしょうか。

「そんなことはない」と胸をはって言える方は、きっときちんと「自分事」「自分たちの事」として教育という話題もお考えを持たれている方なのでしょう。

もちろん、教育については学校というものがあり、教育のほとんどは学校を中心に回っているといっても良いのが現状です。


しかし、ちょっとよく考えてみて下さい。


子どもたちに何かを「教」え、「育」む場は、何も学校に限ったことではありません。

子どもたちは生まれてから幼稚園などに通う、あるいは、小学校に入学するまでは家庭やお稽古事などの場で様々なことを学ぶわけです。

小学校以降学ぶことは、教科学習や(集団)生活指導です。
で、もっともっと根本的には学校が担うのは、特に公立学校などはそうですが、「『公』教育」なんですね。
つまり、学校というのは、公のルールを身に着ける場所なんです。


しかし、それらもそれまでの躾や同時進行的に行われる多くの、有意義な「『私』教育」があってこそ有意義なものとなるものですよね。

つまり、何かに集中して取り組んだり、誰かと言葉を使ってコミュニケーションする機会が十分にあったり、本を読んだり、アニメを見たり、音楽を聴いたり、思いっきり体を動かして遊んだり・・・

そういう様々な「実」体験があってこそ、集団における生活や教科の学習がきちんと身に着くわけです。


そうした受け皿、器を大きくする作業を抜きに、学校で急に集団生活をさせられたり、実感やイメージのわかない教科学習をさせられても、受け取りきれるはずがない。

だって身も心もそれらを重要だという認識をはじめから持っているわけではないですから。

そうしたことも含めて全部学校に丸投げってのはどうなんでしょう。

たとえ、そうせざるを得なかったとして、でも、何か問題があるときにだけ急に騒ぎ立てるのはどうなんでしょう。

それならば、はじめからきちんと関心を向けておかないと、という気もしてしまいます。



ですから、土曜日に家でゴロゴロしているくらいなら学校の授業を復活させてもらったら良い、と安直に考えてしまっては、結局問題を学校に丸投げしただけになってしまいます。

大事なのは子どもがどういう体験を重ねて、どんな成長を遂げるのか。

その「機会」や「環境」を整えてあげるのが大人のツトメ。

それは一部の学校教育関係者が考えたり、多くの責務を負うことだけで解決する問題ではありません。

親御さんや地域の方や、学校以外の教育機関の関係者などなど、多くの大人がどんな「機会」と「環境」を準備することができるのか、知恵を出し合わなければ、本質的にはあまり意味がない行いとなってしまいます。


だって午前中のわずか数時間学校の授業があるかないか、それはもちろんある人から見れば大きなものでしょうが、そのわずか3~4時間学校で教科の勉強をしたかしないかなんて、大局的には誤差の範疇かもしれません。

だらだらと3~4時間過ごすくらいなら、集中して1時間自習した方がより多くのことを、より良い経験値を得られるかもしれません。

だから、安易に学校があれば良いというような、短絡的な発想でこの問題を考えてはいけないと思うのです。



記事には、「教育委員会は学校側の事情を優先するのではなく、子どものための土曜日の有効な使い方を考えてほしい」というコメントが書かれています。

もちろん、それはそうなんですが、しかし、この手の発言をする方は本当に学校教育の現場を知っているのでしょうか。

いや、そもそも「教育」ってことを学校だけの狭い世界で考えてはいないでしょうか。


こうやってサラっともっともらしい見解を示してしまうと、現実問題の有意義な、根本的な解決を遅らせることにつながるか、新たな大問題を作る恐れがあります。

特に大きなメディアで大々的に示してしまうと、やっぱり、自分で考える前にそんなものかと思ってしまう人も多くなるでしょう。

そんな流れが抑えきれないほど大きな流れとなり、望まない形で実施が踏み切られることになったらどうでしょうか。

単に、一部の教員に負担が集中し、より学校教育現場が過酷な労働環境になりはしないでしょうか。

先生が子どもたちに向き合う十分な準備時間が確保できず、その場しのぎの対応が続けば、それこそ子どもたちにとってネガティブな状況です。

こうした話題になると、すぐに学校がやり玉にあがり、学校が何とかすれば良いというような論調が「正義」のようになりますが、しかし、そうではありません。

いずれにしろ、その「正義」の内実は、デメリットが多分にあることをも十分に認識しないといけないし、そうではないのであれば、不用意にこの手の「正義」発言をするべきではないと思います。


だから、私は、単に「家で遊ぶのを防止するために登校日(授業時間)を増やす」とか「学力低下(と一応言われているからそれを改善する)のために授業時間を増やす」のであれば、その必要ないでしょう。
というか、その目的のためであれば、解決策は他にもたくさんあるでしょう。

だから、それ以外の意味で、公の視点で有意義な時間の確保ができるのであれば、公の力で「土曜授業」はどんどんやるべきだと思います。

そういう準備があってはじめて「子どもたちのため」の「機会」と「環境」の提供が実現できると思うのです。


だって、39面に「全国学力学習状況調査」で毎年トップクラスの成績を出している秋田県の担当者の方のこんなコメントが載っているじゃないですか。

「今の授業時間の中で、いかに良い授業をしていくかが大切。単に時間数を増やせばいいものではない」


至極ごもっとも。

学力低下を阻止し、有益な教科学習をするなら、時間を増やすってことだけが解決策じゃないんです。



みなさんはどう思われますか?


年頃のお子様がいらっしゃる方とそうではない方とでとらえ方は違うかもしれませんね。

人それぞれ、家庭それぞれの事情がありますから。


とはいえ、シツコイようですが、学校は「公教育」の場です。

そうした価値観ではなく、私的な理由が前面に出ることであれば、それは本来学校に望むべきものでなく、各家庭なり、地域なり、「私」の部分で対処するべきものです。

教科学習だろうと、生活指導であろうと、その根本は「私」の部分です。

その部分がきちんと考えられていなかったり、きちんと機能していなければ、どんなに「公」が頑張っても、う~ん・・・。

結果は、・・・・そういうことです。


最近は明らかに学校サイドがよろしくない行いをしているというニュースも報じられているので、何となく学校は悪者にされやすいです。

だから、ついつい「学校がもっとがんばらなきゃ!」って思ってしまうのは分からなくはありません。

でも、現場で自分の身も心も、生活も削りに削って奮起されている先生たちがいっぱいいることも確かです。

だから、お互いにきちんとコミュニケーションをとって、学校も家庭も「子どものため」というのを合言葉にそれぞれ「オトナノセキニン」を果たしていく関係をつくりましょう。


じゃないと、すべては大人の利権争いで終始してしまいます。


主役は子ども。


そうであるなら、立ち位置は自ずから見えてくるはず…だと思うのですが。