昨日、正確には17(土)と18(日)で、とある学会に参加してきました。
大学院に入学した当初からもうかれこれ数年、毎年2回参加しています。
大学の先生や大学院生、学校現場の先生方の個人研究発表も、いくつか興味深いものがありましたが、今回は全体のシンポジウムに「教育」の「未来」を感じました。
今回のシンポジウムでは「外国につながる児童に対する国語教育」というテーマのもと、4人のパネラーの先生方がそれぞれの立場からの提案をしていました。
わたしたちのいる神奈川県横浜市にも、在校生の中に外国人児童が多数在籍する学校がありますし、少数でも、外国につながる生徒、つまり、言語的なハンディを持っていて通常の「国語」の授業を受けられない状態の児童生徒がいます。
彼、彼女に対して「国語教育」は、何をどのように「教育」するべきか。
そんな話です。
実際に在籍児童の半数以上が外国人児童だという学校の校長先生が、どのような取り組みをしているのかというお話を皮切りに、日本語教育の専門家、国語教育の専門家がそれぞれお話をされました。
これまで、日本の教育界では、
「国語教育」=日本語を母語(第一言語)とする生徒に対する日本語教育
「日本語教育」=日本語を母語ではない(第二言語)生徒に対する日本語教育
と、区別されてきました。
そこで扱われる内容はけっこう違うもので、たとえば「国語教育」で扱われる文法は「学校文法」などと呼ばれるものです。
実際には同じ「日本語」というものを扱う学習ですが、しかし、日本語話者(母語が日本語)と日本語が第2言語の人が、同じ授業を受けられないという事態。
当然のような気もするが、しかし問題なのは、両者が必ずしも地続きになっていないという状況があるということ。
さらには、現在のような、いわゆる「国際社会」という世の中では、そうした現状は変化が求められるわけなんです。
僕は、塾の講師として働いている中で、教科の枠組みを超えて、「学ぶ」ということ、「考える」ということをもう少し考えてみたくて大学院に進学しました。
その際に注目したのが、さまざまな教科や「学び」「思考」などには、やはり「ことば」というものが深く関わっているだろう、ということです。
ですから、「日本語」の「学習」をより良いものに変えることで、多くの教科の「学習」や「思考」をより良いものに変化させられる、さらにも、当然ですが、日常的なコミュニケーションや学校を卒業したあと、つまり「社会人」として活動することなども視野に入れて「学習」ということを考えられると思ったのです。
だから、「日本語」の「教育」について学べるところに進学したいと思いました。
が、いわゆる「日本語教育」の先生にお話を聞くと、「日本語教育」の対象の多くがやはり外国の人であり、僕が考えるようなことであれば、それは「国語教育」に進んだ方が良いということでした。
何で同じ「日本語」を扱うのに、それほどまでの区分けが必要なのか。
その当時は「まぁそんなものか」と「国語教育」の門をたたくことにしました。
が、僕の進学の大きな動機は、さっき書いた通り、単に教科としての「国語」=「国語科」の先生になること、「国語科」の勉強をすることではなく、教科の枠組みを超えて、「学び」の根本となる「国語」=「日本語」を見つめ直すことです。
だから、「国語教育」を専門とする研究科では、当然「国語科」のことを知る必要があるのですが、しかし、それはある意味で「国語科」を解体するためでもあります。
とはいえ、そう易々と解体できるものではありません。
いや正確には僕だけが喚いてもどうしようもないことです。
ただ、幸いなことに、僕が師事した先生方は、非常に真摯な研究者であり、そうした視点の重要性を認識されている方ばかり。
やはり専門家や学会組織などは、自分の領域というもの、他との境を明確にします。
ある意味それは、そうしなければそもそも学問研究が成り立たないということもあります。
ただし、何らかの現実の問題にぶつかったとき、その問題を解決しようとするとき、それは必ずしもある一つの、ある特定の領域の考えだけで解決できるわけではありません。
様々な専門領域がある一方で、学際的なスタンスで向き合わなければ解決が難しい問題が世の中にはたくさんあります。(たとえば環境の問題、国際社会の問題など)
さらに言えば、そもそも、さまざまな学問領域というものは、時代を経て細分化されてきたもので、その根源をたどっていけば、すなわちそこには「考える」ということ、つまり「哲学」というのがあるわけです。
「哲学」が「諸学の母」「諸学の根源」と言われるように、さまざまな学問領域で、そこで扱われる内容がどのようなものであっても、「考える」ということが全くないというものはないといっても過言ではないでしょう。
(宗教などは「信じる」ということがメインなのかもしれませんが…)
で、しかも、「考える」というのは、一つの言語行為ですから、当然「ことば」を知らなければ考えられないし、その考えを議論したりすることが出来ないわけですね。
だから、僕は「ことば」を、「考える」ということを学ぶために「国語教育」の世界に入ったんですね。
でも、専門領域の中では、やはりマクロの視点がだんだんと持てなくなる人もいるようで、「誰某さんの学説」については非常に多くの知識を持っているけど、「…で、結局それを突き詰めることにどんな意味があるのか?」、「じゃあなんで/どういう経緯でそういう考えが生まれてきたのか」といったことにあまり関心が示されていないこともあるんですね。
だから、僕は亜流の人間として、たとえ自分の考えや研究活動が多くの賛同を得るものではなくても、一歩外に出ればきっと世のため人のためになるはずと「信」じこんで、やってきたつもりです。
さぁ、そんなある意味で凝り固まってしまった「国語科」が大きく変化を求められています。
もちろん以前から「国語教育」研究者の中にも、「国語科」の解体を構想する人がいらっしゃいますが、そうした考えが、大きな会で、はっきりと打ち出されているのを実際に体感することができて、大変心躍るひと時を過ごしました。
「自分の思っていること/やっていることはやっぱり間違っていなかったんだ」
多くの業界人が、そうした意識を持って、これまでを見直し、これからを考えることで、子どもたちの未来は明るくなる気がします。
いや、僕的には、そうしないともう「教育」というものが完全に死んでしまうとさえ思うのです。
かなりの極論ですが。
もちろん問題は山積みだし、一朝一夕で変えられるものではありません。
中には、僕が「問題」だと思っていることでも、別の人にとっては「不可欠なもの」であることもあります。
だから、多くの議論が必要なのですが、しかし、議論のテーマになることそれ自体が大きな前進でしょう。
とはいえ、そうした状況が「外国人児童」を契機としてよりはっきりと認識されるようになるというのは皮肉ですね。
いやいや、我が身をふり返るのは、他者が存在するからこそですね。
そうしたきっかけを、強い強い危機感を与えてくれることに感謝、感謝。
少しでも日本の教育の「あかるい」未来を創るお手伝いができるように、まずは自分自身がいろいろなことに気づき、学ばねばなりません。
そんな当然といえば当然の思いを新たにした週末でした。