たったいま、堂本兄弟で高橋ジョージが「さよなら」を歌っていた。

 凄いぞ! 高橋ジョージ。この「さよなら」を歌ってくれるとは。

 ぼくは三つの「さよなら」を知っている。NSP、長谷川きよし、オフコース。中でもNSPの「さよなら」は、掛け値なし、名曲です。

 この曲の思い出は、テレビドラマと一緒になっている。その昔、「追跡」というテレビドラマがあった。市川崑・中村敦夫(ここに主題歌、和田夏十、小室等、上条恒彦が加わる)による……といえばわかる人はわかる、そう「木枯らし紋次郎」のメンバーによる現代劇だった。原作は三好徹の『天使』シリーズ。だから、サブタイトルには全て「天使」という題名がついていた。たとえば「汚れた天使」とかね。

 そして、このドラマの中でNSPの「さよなら」が使われたのである。

 あれはどの回だったろう。「天使の裁き」だったか「天使の葬列」だったか……いや、ちがったか、とにかく「さよなら」が使われた場面は今でも鮮烈に覚えている。

 姉の棺を乗せたリヤカーを青年が引きながら長い坂道を降りてくる。その青年の姉は殺され、弟がたった一人で葬儀を出すのだ。彼は姉の棺をリヤカーに乗せて火葬場にたった一人で向う。その後を、少し離れて中村敦夫演じる新聞記者がべスパをおしてついて行く。そこに「さよなら」が流れるのである。胸を締め付けられるような場面だった。

 余談ながら、この物語の中で中村敦夫はべスパ(スクーターですよ)に乗っている。

 わかります?

「探偵物語」のなかで松田優作が乗っているのがべスパ。だから「探偵物語」を見たとき、思わずにやりとしました。もしかしたら「探偵物語」は放送打ち切りになった「追跡」へのオマージュか――なんて思ったりした。
 我らが中ちゃんが、阿部定のことをブログに書いていた。

 なお、中ちゃんを知らない人はこちらへ
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 http://www.nakamura-ataru.jp/

 だいたいぼくたちの世代だと阿部定と聞けば大島渚の「愛のコリーダ」を思い出すのではないだろうか。セックスの果てに男を殺害して、その男の性器を切り取ったのが阿部定だった。この事件を大島渚が映画化したのが「愛のコリーダ」だった。藤竜也と松田英子の主演で、何が話題になったかといえば、これはようするにハードコア、つまり藤竜也と松田英子が本当に性交をするという映画だったのだ。いまならアダルトビデオなどで、まあ当たり前といえば当たり前なのだが、当時としてはそれはもう大変な話題になったものです。しかも、この作品は映画としても優れていたという。幸か不幸か、ぼくはこの映画の完全版を見ていないから何ともいいようがないが、それでも雑誌などで読む限り、中々の傑作だったらしい。

 岸田敏志はその昔、

「心より体のほうが、確かめられるというのか」と、歌った。

 夏木マリさんは指を艶かしく動かしながら、

「ああ! 抱いて、獣のように」と、いやらしく歌っていた。この曲『絹の靴下』を作詞した阿久 悠は「逞しい下半身の思想を歌にしたかった」とかなんとかそんなことをどこかのインタビューで答えていたような記憶がある。あるいはエッセイだったろうか。

 心と肉体、この二つを分けて考えることが、そもそもナンセンスなのかもしれない。

 どんなことでもある限界を超えれば何がおきるかわからない。阿部定と件の愛人が、実際はなんで結びついていたのかわからないが、愛情(心)とかセックス(体)とか、そういったキーワードでは単純に割り切れない何かで結びついていたとしかぼくには思えない。

 誰のエッセイだったのか忘れたが、仲間と集まって猥談をしていると、ある作家(だったと思う)が、男女の睦事の最中の声というのは、聞いていると恐ろしいものだというようなことを話されたらしい。どこかの旅館で睦事の声を聞き、心中か殺しあっているのではないかと不安になったという。

 そう考えると、「黒の舟歌」は、ずいぶん深い歌だという気がする。この曲について、これは子供を流したときの歌だと言ったのは、TBSアナウンサーの林美雄さんだったと記憶している。

 恥ずかしながら、詩集を二冊も持っている。いや、詩集を持っていることが、普遍的に恥ずかしいといっているのではない。ぼくのような人間が持っていることが恥ずかしいというのだ。

 生活を見れば、およそ詩集などとは縁遠い暮らしをしている。戦国時代の足軽さんのように殺伐としている――てなことはないが、それでもどたばたと走り回り、およそ詩を読むなんて、そんな潤いのある暮らしは、ここ何年もしていない。

 それはさておき、ぼくが持っている詩集は「ラングストン・ヒューズ」と「谷川俊太郎」――ここに寺山修司さんを加えれば――あ、三冊も持ってる(笑)。

 ラングストン・ヒューズを買ったのは、本屋でぱらぱらと立ち読みをしていて、なんだかかっこいいじゃんと思い、衝動的に買った。その後、浅川マキさんのアルバム「流れを渡る」を聞いて、それがラングストン・ヒューズの詞に曲をつけたものだと知り驚いた。

 だってあなた、「渡河(詩集)」→「流れを渡る(アルバム)」ですよ(笑)。そりゃまあ確かに渡河、河を渡っているわけですから、流れを渡るわけね。でも、こりゃどう考えたって、「渡河」よりも「流れを渡る」のほうがさまになってる……と、ぼくは思う。他にも「罪人小唄」という曲もある。こちらは詩集では「罪人のバラッド」。これに関しては詩集のほうがかっこいいかな。このアルバムのギターは、あの内田勘太郎様です。凄いです、このギター。派手じゃないが、じわっと胸に来る。

 谷川俊太郎さんも本屋で立ち読みをしていて衝動買いした。「ビリー・ザ・キッド」という詩があったのだ。これがいいんです。ほんとうにいい。その後、知り合いのミュージシャン――もとい、フォークシンガーが「Knocking On Heaven's Door(ボブ・ディラン)」を歌う時、ギターを弾きつつ、谷川俊太郎さんの詞を読んだ。「Knocking On Heaven's Door」は映画「ビリー・ザ・キッド二十一歳の生涯」の主題歌だったのだ。この映画の監督サム・ペキンパーは、実はあまり好きな監督じゃない。でもこの映画「ビリー・ザ・キッド二十一歳の生涯」には好きな場面がある。銃撃戦の中で腹に致命傷をおった保安官がよろよろと川に向って歩いていく。銃撃戦はまだ続いている。腹を撃たれた保安官は川辺に座り、川面を眺める。そこに彼の妻がやってきて彼によりそい、じっと彼を見つめる。彼女の手には銃が握られている。バックにはこの曲「Knocking On Heaven's Door」が流れている……。この場面は泣かせました。

 寺山修司さんは、「言葉で人を殴り倒すために詩人になった」と、書いていた記憶がある。『ポケットに名言を』だったかな、それとも別の本だったかな……とにかく、この言葉は印象に残った。

 確かに選ばれた言葉は、人に衝撃を与える。

 中さんの『友達の詩』に心を震わせ、『汚れた下着』でセクシーな気分になり、『リンゴ売り』で胸に痛みを覚える。つまり、そういうことだと思う。