内緒の話だが、ぼくはどろろをリアルタイムで読み、しかもテレビの第一回放送を見た世代である。正直に話すと、子供のぼくはこのマンガが嫌いだった。特にアニメのほうが駄目だった。見るのが怖かった。ぼくは見たくなかったが父親が手塚治虫のファンだったのだ。我が家の場合、父親が手塚治虫を筆頭とするトキワ荘グループのマンガが好きで、たとえばぼくは小沢さとるの『サブマリン707』とか『青の六号』、望月三起也の『秘密探偵JA』そのあたりを読みたくても、それは後回しにされた。
あれはまったく救いのない陰惨の極みのような話だ。父親が自分の立身出世のために我が子を魔物に売り渡すのである。これは子殺しだ。そして親殺しの話でもある。時と場合、状況如何によっては親は子供を殺し、子供も親に復讐することがある――そんな物語を子供が見せられて安心できるはずがない(笑)。
父に売られた子供は、それでもなお異形のものとなって生き延びる。
「いもむしの化け物のようだったおれを……」と、言うせりふが百鬼丸の口から吐かれるとき、その姿を想像して、あまりのグロテスクさにぞっとしたものである。その前に江戸川乱歩の『芋虫』を読んだのもいけなかった。
百鬼丸がうるさくつきまとうどろろに対して、「本当の姿を見せてやる」と、つくりものの体の部分を取り外そうとする場面があった。確か連載の二回目だったろうか。もう少し後だったかもしれない。百鬼丸はうつむき、大きく目を見開く。すると目玉がぽとりと落ちる。次に鼻を取る。いやはや、凄まじい。
百鬼丸が異形の若者なら、タイトルにもなっているどろろは戦災孤児で、しかも少年の格好をした少女である。もうそれだけで淫靡な感じがする。
するとこの話は、グロテスク(百鬼丸)とエロチシズム(どろろ)の二本立てだということになる。さらに、そこに妖怪・魔物が加わり、座頭市のような居合いの名手の琵琶法師まで登場するのである。
壮大なスケールゆえに映画化不可能だったとどこかで読んだが、そうではないだろう。この話が本質的に持っているグロテスクなものが、人畜無害な文化がもてはやされる昨今、とても映像化できるようなものではなかったのではないだろうか。
『どろろ』という物語は、一種の復讐の物語であるともいえる。欲望のために親に異形のものにされた子供が、男装の美少女を連れて自分の体を取り戻しつつ旅を続け、遂に親に復讐する物語である。百鬼丸が倒すべき最大の魔物は、自分の父親である醍醐景光なのだ。主人公の二人、父親の欲望のために肉体を奪われた百鬼丸も、戦によって孤児となったどろろも、大人の都合で不幸にされた子供だちだ。
どろろには二つのラストがある。
マンガ版では百鬼丸は父親の醍醐景光を追放する。そして、どろろを残して一人旅立つ。魔物の像はその五十年後に燃え尽きたというところでマンガ版は終わっている。
アニメ版の終わりはそうではなかった。百鬼丸は醍醐景光を殺すのである。最後の場面、醍醐景光は遂に四十八体の魔物に自分自身を差し出す。グロテスクに体が溶け始めた父親を、百鬼丸は殺す。どういう状況設定があるにせよ、子供が父親を殺す場面をアニメが描き、そしてテレビで放送したのである。今にして思うが、よく放送できたものである。
醍醐景光を殺す瞬間、百鬼丸は言う。
「おれには寿海という立派な医者の父がいる」
寿海という医者は、百鬼丸に作り物の体を与えた育ての親である。見るのがいやなアニメながら、この場面は胸が熱くなった。愛情は信じるに足る感情だと叫んでいるような場面じゃありませんか。場面が陰惨であればあるほど、このセリフは輝いていたように思う。ちなみに百鬼丸の声はアラン・ドロンでおなじみの野沢那智さんだった。どろろは松島みのりさんだったろうか。
どちらのラストがいいかといえば、それはもうアニメ版のほうがよかったと思う。そう思えるようになったのは、かなり後になり、冷静な気持ちでこの物語を読み、そして見ることができるようになってからだった。
しかし、手塚治虫という人はつくづく偉大だったと思う。真に偉大だと思える人だ。マンガ的表現の頼もしさをこの人ほど知っていた人はいないように思う。と、いうかマンガ的表現はこの人によって生み出されたといってもいいかもしれない。
仮に『どろろ』がリアリティを追求する絵柄で描かれていれば、おそらく見れたものではなかっただろう。少なくともぼくは見たくない。『きりひと賛歌』だってそうだ。
手塚治虫はほとんどあらゆるテーマを描いた。そして、見事に描ききったと思う。あのまるっこい線を基調にした手塚マンガの力は、まさに妖刀とも鎖鎌(ごめんなさい、これは小松左京さんが筒井康孝さんの文体について使った言葉です。拝借します)ともいうべき表現方法だ。陰惨な話が陰惨に見えないのだ。全てのものを抽象化してしまうマンガの力は、どんなテーマも無理なく読ませる。しかも、後でじわっとくる。
これは真剣に考えていることだが、手塚治虫は日本史上最大の天才だと思っている。日本はこの天才を持てたことを、もっともっと世界に誇るべきだ。誰だったか忘れたが(立川 談志さんだったろうか)、レオナルド・ダビンチに匹敵する天才と言ったが、本当そうだと思う。
黒澤明より宮崎駿より三島由紀夫より、そしてあの中上健次より、ぼく的には、その天才性において勝っていると思っている。
今日は熱くなりました。手塚治虫さんのことだと、どうしても熱くなります。
……それにしても『どろろ』はどんな映画になっただろう。
あれはまったく救いのない陰惨の極みのような話だ。父親が自分の立身出世のために我が子を魔物に売り渡すのである。これは子殺しだ。そして親殺しの話でもある。時と場合、状況如何によっては親は子供を殺し、子供も親に復讐することがある――そんな物語を子供が見せられて安心できるはずがない(笑)。
父に売られた子供は、それでもなお異形のものとなって生き延びる。
「いもむしの化け物のようだったおれを……」と、言うせりふが百鬼丸の口から吐かれるとき、その姿を想像して、あまりのグロテスクさにぞっとしたものである。その前に江戸川乱歩の『芋虫』を読んだのもいけなかった。
百鬼丸がうるさくつきまとうどろろに対して、「本当の姿を見せてやる」と、つくりものの体の部分を取り外そうとする場面があった。確か連載の二回目だったろうか。もう少し後だったかもしれない。百鬼丸はうつむき、大きく目を見開く。すると目玉がぽとりと落ちる。次に鼻を取る。いやはや、凄まじい。
百鬼丸が異形の若者なら、タイトルにもなっているどろろは戦災孤児で、しかも少年の格好をした少女である。もうそれだけで淫靡な感じがする。
するとこの話は、グロテスク(百鬼丸)とエロチシズム(どろろ)の二本立てだということになる。さらに、そこに妖怪・魔物が加わり、座頭市のような居合いの名手の琵琶法師まで登場するのである。
壮大なスケールゆえに映画化不可能だったとどこかで読んだが、そうではないだろう。この話が本質的に持っているグロテスクなものが、人畜無害な文化がもてはやされる昨今、とても映像化できるようなものではなかったのではないだろうか。
『どろろ』という物語は、一種の復讐の物語であるともいえる。欲望のために親に異形のものにされた子供が、男装の美少女を連れて自分の体を取り戻しつつ旅を続け、遂に親に復讐する物語である。百鬼丸が倒すべき最大の魔物は、自分の父親である醍醐景光なのだ。主人公の二人、父親の欲望のために肉体を奪われた百鬼丸も、戦によって孤児となったどろろも、大人の都合で不幸にされた子供だちだ。
どろろには二つのラストがある。
マンガ版では百鬼丸は父親の醍醐景光を追放する。そして、どろろを残して一人旅立つ。魔物の像はその五十年後に燃え尽きたというところでマンガ版は終わっている。
アニメ版の終わりはそうではなかった。百鬼丸は醍醐景光を殺すのである。最後の場面、醍醐景光は遂に四十八体の魔物に自分自身を差し出す。グロテスクに体が溶け始めた父親を、百鬼丸は殺す。どういう状況設定があるにせよ、子供が父親を殺す場面をアニメが描き、そしてテレビで放送したのである。今にして思うが、よく放送できたものである。
醍醐景光を殺す瞬間、百鬼丸は言う。
「おれには寿海という立派な医者の父がいる」
寿海という医者は、百鬼丸に作り物の体を与えた育ての親である。見るのがいやなアニメながら、この場面は胸が熱くなった。愛情は信じるに足る感情だと叫んでいるような場面じゃありませんか。場面が陰惨であればあるほど、このセリフは輝いていたように思う。ちなみに百鬼丸の声はアラン・ドロンでおなじみの野沢那智さんだった。どろろは松島みのりさんだったろうか。
どちらのラストがいいかといえば、それはもうアニメ版のほうがよかったと思う。そう思えるようになったのは、かなり後になり、冷静な気持ちでこの物語を読み、そして見ることができるようになってからだった。
しかし、手塚治虫という人はつくづく偉大だったと思う。真に偉大だと思える人だ。マンガ的表現の頼もしさをこの人ほど知っていた人はいないように思う。と、いうかマンガ的表現はこの人によって生み出されたといってもいいかもしれない。
仮に『どろろ』がリアリティを追求する絵柄で描かれていれば、おそらく見れたものではなかっただろう。少なくともぼくは見たくない。『きりひと賛歌』だってそうだ。
手塚治虫はほとんどあらゆるテーマを描いた。そして、見事に描ききったと思う。あのまるっこい線を基調にした手塚マンガの力は、まさに妖刀とも鎖鎌(ごめんなさい、これは小松左京さんが筒井康孝さんの文体について使った言葉です。拝借します)ともいうべき表現方法だ。陰惨な話が陰惨に見えないのだ。全てのものを抽象化してしまうマンガの力は、どんなテーマも無理なく読ませる。しかも、後でじわっとくる。
これは真剣に考えていることだが、手塚治虫は日本史上最大の天才だと思っている。日本はこの天才を持てたことを、もっともっと世界に誇るべきだ。誰だったか忘れたが(立川 談志さんだったろうか)、レオナルド・ダビンチに匹敵する天才と言ったが、本当そうだと思う。
黒澤明より宮崎駿より三島由紀夫より、そしてあの中上健次より、ぼく的には、その天才性において勝っていると思っている。
今日は熱くなりました。手塚治虫さんのことだと、どうしても熱くなります。
……それにしても『どろろ』はどんな映画になっただろう。