最初にお詫び&訂正。
3月17日の朝日の朝刊を確認。
3月19日の前に一度書いてました。
内容は、3月16日にデジタル記事化していたものと、ほぼ同じ。
http://www.asahi.com/articles/ASH3J6R68H3JUTFK00N.html
デジタル記事と違うのが
こういった考え方をお持ちの方が、三原先生の世代におられるのに正直驚いた」と述べた。
という、麻生大臣の言葉が紙面スペースの都合上、一部省かれていること。
3月17日の38面の下のほうです。
関連記事を注意して探してたのだけど、ガッツリ見落としてしまいました。
隣の39面、映画アンブロークンの記事のほうは目立ったんですけど…。
とはいえ、見落としは見落としなので訂正&お詫びです。
まぁ KAZUYAの場合は、明らかにネット記事を見た中で朝日だけを叩いてるミスリードなので、
私の軽蔑の眼差しは不変です。
この件では、わりと皆同じ論調で、朝日以上の姿勢も散見されますので。
(【18:30追記】 3月17日の東京新聞朝刊も記載とのこと確認。WEBでも出てますね。)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015031702000140.html
(関連の記事)
http://blogos.com/article/108190/
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3月21日は、全国紙は朝日のみ。 読者の投稿ですね。
(ネットで画像を拾ったので、そちらを添付)
クリックで拡大。
21日は東京新聞も少し。
こちらも読者の投稿。
時事川柳
国会に八紘一宇の亡霊が
新聞はこれだけです。
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やっとこ本題。
民主党の馬淵澄夫衆議院議員が、現代ビジネスに寄稿。
三原議員「八紘一宇」発言に違和感なし。言葉だけをあげつらっていては、事の本質が見えなくなる
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42576
一部抜粋。
「八紘一宇」に侵略行為を肯定するような考え方はない
すでに述べたように、この「八紘一宇」という言葉のそもそもは、初代神武天皇が橿原の地で即位した折りの「橿原建都の詔」にさかのぼる。そこには、一つの家、家族のような国を創り為(な)そうという日本の建国の精神が示されている。
この「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや」という「八紘為宇」の考えは、時代が下った大正時代、「八紘一宇」という語句へと翻訳されることになる。後にこの思想が軍部に影響を与え、膨張主義的な対外政策を正当化するイデオロギーとして使われるようになったと言われる。
このように「八紘一宇」という言葉は、戦時中の日本で誤った使われ方をされたのは確かである。しかし「橿原建都の詔」、あるいは神武天皇「建国の詔」を、虚心坦懐に読んでみれば、そこには民を慈しむ御心が溢れており、侵略行為を肯定するような考え方はないことがわかる。
詔の「八紘為宇」にルーツをもつ「八紘一宇」という言葉が、戦前・戦中の軍国主義のスローガンに利用されたのは悲しむべきことだが、だからといってこの詔にある精神が誤っていた訳ではない。
そこを分けて考えずに、「八紘一宇」という言葉そのものをあげつらうのは、事の本質が見えなくなるのではないかと思っている。問題は、その内容にあるのではなく、当時の政府が、覇権主義的な対外政策を正当化するスローガンとしてその「言葉」を利用したこと、それによって戦前の日本が道を誤ってしまった点にある。
八紘為宇にしても、こころの「姿勢」やあり方が示されているだけである。それを、国家統制を至上命題とする国家主義的な政治が悪用することで、不幸な歴史が生じたのだ。
つまり、橿原建都の詔も、上から押し付けられてしぶしぶ従うようなものではない。思うに日本という国は、この橿原建都の詔の精神のもと、「民」つまり国民一人ひとりが自分の頭で考え、それぞれに努力することにより創り上げてきたのではないか。
今回の「八紘一宇」という言葉が、過去に誤った使い方をされたことをもって「穢れた言葉だ」というのであれば、禊祓(みそぎはらい)をして洗い浄めればよい話ではないのか。あの不幸な歴史を繰り返さないためにも、むしろ我が国建国の理念と言う意味で「原典」というべき「橿原建都の詔」に立ち戻るべきなのではないだろうか。
引用終了。
個人的に賛成です。
禊に際しては、相当の軋轢も生じるように予想しますが、
やったほうが良いと思うし、今年は適切な時期だと感じます。
もちろんBUZZAPで引用されたような批判はあると思います。
引用。
ネット上ではオウム真理教やナチス・ドイツの使った言葉と比較した批判が相次いでいます。
「八紘一宇」発言で「本来の意味は素晴らしいのだから批判するのはおかしい」とかいう変な理屈を言うやつがいるが、じゃあオウム真理教が使った「ポア」も、赤軍が使った「総括」という言葉も、もともとは良い意味だけど、それを「すばらしい言葉があります」と言って使用するのか?という話だぞ。
— TESHIMAmasahiko (@masa_hiko_t) 2015, 3月 17
三原じゅん子先生の八紘一宇を「いやいや言葉の意味はこうで」とか擁護できると思ってる人は、ドイツの政治家が「EUを21世紀の第三帝国にしましょう」とか「ドイツ民主主義が千年王国たりえんことを」とか言って「いやいやこれは元々キリスト教の言葉でして」みたいな弁解が通じると思うのれすか
— CDB (@C4Dbeginner) 2015, 3月 16
こうした言葉が当たり前に使われるようになってしまえば、さらに「過激」な言葉が公の場に登場してくる可能性も考えられます。
引用終わり。
次世代の党が名古屋で新スローガンにしようとの動きへの反発ですから、これは当然一理ある。
一般の空気と乖離してるというか、いきなり感が強すぎるんすよ。次世代は…。(*´Д`)
けどまぁ もとの意味は、やはりもとの意味なので、そこにきちんとした形で戻れるなら、それは良いことだと思います。
大正あたりから人為的に広められた言葉とされますから、日本の民衆に広く膾炙(かいしゃ)した概念だったかは議論があって当然でしょう。
しかし、もとが日本書紀の記述であれば、知識層に限られたかもしれないけど、古事記よりは親しまれてきたと言えるかもしれません。
(古事記は本居宣長が掘り起こすまで、埋もれていたというのが通説)
そのあたりの学術的な議論はともかく、八紘一宇のもとの意味を見直すことは、とても価値があると思います。
ただしやはり、戦時中のスローガンと同じように、国家観、憲法観の押しつけのような流れになるとすれば、それは勘弁です。
改憲や自主憲法を目指す人たちが、神社本庁と連携しています。
天皇陛下を元首とすることを目指しているわけだけど、それが宗教右派主導であることに、一般の人があまり気づいていない。
これは、かなり問題だと感じます。
私個人はたぶん、根っこのところでは天皇主義の部分もあると思うのだけど、おそらく天皇中心主義とは違います。
宮台真司さんの双剣論に同調する形の男系天皇維持派です。
天皇陛下は祭祀の長、心の拠り所であり、宗教的文化的な権威。
政治的権威は別にしたほうが良く、その意味でも首相公選制は必要だと考えます。
このあたりの、
絶妙なバランスで話が進めばいいなと思いつつ、もうしばらく様子見です。
馬淵議員が発言したことを受けて、読売や産経もオピニオンを出すかもしれません。