1971年4月、フラワー・トラヴェリン・バンドのセカンド・アルバム「SATORI」がリリースされ、カナダ・アメリカでも発売になる等、日本のロック・アーティストによる海外進出が実現しました。
そんな中、1966年に日本を旅立ち、タイ~フランス~ベルギー~オランダ~イギリス~イタリアと自身のバンドを引き連れ、一足早く海外で成功を収めていたのが、ウェスタン・カーニバルで人気を博していたミッキー・カーティスでした。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191024/13/layhishead/e6/0b/j/o0468038014622612847.jpg?caw=800)
ミッキー・カーティスは、両親共にイギリス人のハーフで東京生まれ。
平尾昌晃、山下敬二郎と共に「ロカビリー3人男」として人気を博し、その後、「好きな音楽をやりたくて」、自身のバンド「シティ・クロウズ」を結成。その後、バンドはバンド名を「ヴァンガーズ」に変更。
ヒルトン・ホテルのラウンジを中心に活動していたことが縁で、香港ヒルトン~タイのバンコク・ヒルトンと海外に活躍の場が広がってゆきました。
そして、1967年、タイで活動中にフランスから来たプロモーターとのつながりで、フランスで活動することになり、「ヨーロッパに初めて来た日本のバンド」として、バンド名を「サムライ」に変更、着物を着て、刀を持ってステージに上がるという、きわめて当時の日本イメージを醸し出すべく活動、ローマのフェスティバルでは、ピンク・フロイド、テン・イヤーズ・アフターなどとも共演、イタリアではレコードも出すなど、かなりの人気を博すこととなりました。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191024/13/layhishead/01/22/j/o0500021814622612848.jpg?caw=800)
その後、”ロック・ミュージックをやるため”に1969年にアメリカ人でマネージャーだったMike Walkerをボーカル、 Joe Dunnetをギター、そして日本からは”全くベースの弾かなかった”山内哲夫(テツ)とドラムに原田裕臣を迎え、「サムライ」を再編成、1970年2月にロンドンでファースト・アルバムとなる「SAMURAI」をレコーディング、イギリスとドイツで2枚組アルバムとしてリリースされました。
【SAMURAI / SAMURAI(1970)】
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191024/13/layhishead/58/a2/j/o0500050014622612852.jpg?caw=800)
【MIKI CURTIS & SAMURAI】
1 グリーン・ティー [Green Tea] Written-By – M.Walker*, M.Curtis 5:38
2 イーグルズ・アイ [Eagle's Eye] Written-By – J.Redfern*, T.Yamauchi 5:51
3 ボイ・ウイス・ア・ガン [Boy With A Gun] Written-By – M.Walker*, M.Curtis 5:07
4 エイティーンス・センチュリー [18th Century] Written-By – M.Curtis 1:03
5 フォー・シーズンズ [Four Seasons] Written-By – John, M.Walker, Mickey, Tetsu 9:52
6 マンダレイ [Mandalay] Written-By – Mike Walker 6:23
7 ダフィー・ドレイク [Daffy Drake] Written-By – J.Redfern*, M.Walker 2:51
日本でこのアルバムがリリースされたのは、翌1971年8月。
内容も2曲をカットし、2枚組を1枚に編集されたものとなりました。(現行のCDもこのバージョンです。)
ミッキー・カーティスは、ボーカルとフルートを担当。
フルートは、既にステージでは60年代から披露していたようで、「ジェスロ・タルより早かった」とミッキー・カーティス後に語っています。
山内テツは、”ベースが弾ける”ということで、メンバーとして採用したそうですが、実際はギターでベースは弾けず、ベースを一から教えたそうです。。
今回は、アルバム1曲目に収録された「グリーン・ティ」をご紹介します。
【MIKI CURTIS & SAMURAI / Green Tea】
「メンバーみんながそれまでやりたがっていた音楽が全部出ちゃった感じ」というこのアルバム。
ミッキー・カーティスのフルートなどは、キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドを彷彿させ、プログレッシヴ・ロックの影響を感じさせる作品となっており、ブリティッシュ・ロックの名盤と評価されていた事もありました。
この後、ミッキー・カーティスは帰国、サムライとしてのセカンド・アルバム「河童」を1971年3月にリリース。(日本では結果的にセカンドが先のリリースとなりました。)
【セカンド・アルバム「河童」】
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191024/13/layhishead/fd/c3/j/o0357034614622612853.jpg?caw=800)
「サムライ」はこの年、解散し、ミッキー・カーティスは徐々にプロデュース業に力を入れ、小坂忠、ガロ、キャロル、外道いったミュージシャン達を送り出すこととなります。
アルバム「SAMURAI」のオリジナル・ライナーノーツは、ニュー・ミュージック・マガジンの編集長 中村とうよう氏が担当しており、その中で「ミッキー・カーティスと内田裕也は、1970年以後の日本のロックにとっては、2本の柱のような存在である。(中略)内田裕也とフラワーズがハード・ロック一筋に歩み続けたのに対し、ミッキー・カーティスとサムライは、ハード・ロックを基盤に置きながらも、より幅広い音楽性を発揮して、後輩たちにすばらしい手本を示してきた。」と綴っています。
1970年 サムライ「SAMURI」ドイツ・イギリス、リリース
1971年3月 サムライ「河童」リリース
1971年4月 フラワー・トラヴェリン・バンド「SATORI」リリース、カナダ・アメリカでもリリース
1971年8月「SAMURI」編集盤 日本リリース
この1970年~1971年こそ、日本のロックが初めて海外に近づいた時期として評価されていた時期がありました。
日本のロック黎明期ながら、最も日本のロックが充実していた時期かもしれません。。
現在も俳優、歌手として活躍中のミッキー・カーティス。。。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191024/13/layhishead/4d/f9/j/o0284034214622612854.jpg?caw=800)
過去の作品を完全盤としてリリースしてほしいアーティストのひとりです。