フラワー・トラヴェリン・バンド「クラッシュ / ドゥープ」。。貴重なファースト・シングルから聞こ | マジカル・ミステリー・ミュージック・ツアー

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1960年代から1980年代の洋楽・邦楽の雑記帳です。

フラワー・トラヴェリン・バンド(1970年~1973年、2007年~)

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1967年、内田裕也は3か月(6か月説もあり)に亘るヨーロッパ旅行に出かけましたが、当時の海外における音楽シーンは、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなど、サイケデリック・ロックの真っただ中にありました。

帰国後、内田裕也はGS中心の日本の音楽界から新しい音楽への移行を行うべく、ジミ・ヘンドリックス+ジャニス・ジョプリンを目指しフラワーズ」を結成。
女性ボーカル麻生レミとファズとワウワウで演出したスティール・ギターの小林勝彦をメインとして、バンド活動を始めました。

しかし、GSや歌謡曲がメインの当時の日本の音楽界において、1969年にリリースされた2枚のシングルは、職業作家による歌謡曲チックな作品となり、1969年7月にリリースされたファースト・アルバム「チャレンジ!」においてようやく内田裕也の考えるサウンドの形が出来上がりました。

【チャレンジ! / 内田裕也とフラワーズ(1969)】
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ところが、メインのふたりであった麻生レミと小林勝彦がアメリカでの活動を表明し脱退。
このフラワーズの再構築を目的に内田裕也声をかけたのが、元4.9.1(フォー・ナイン・エース)のジョー山中(ボーカル)、元ビーバーズの石間秀樹(ギター)、元タックスマンの上月ジュン(現小林ジュン、ベース)、元フラワーズの和田ジョージ(ドラムス)でした。

1970年5月号のニュー・ミュージック・マガジン誌上において内田裕也は、「ぼくだけの考えじゃなくて、バンドのメンバーたちと相談して決めたんですよ。レミと小林がアメリカに行っちゃったし、ほかのメンバーも変わったんで、いつまでも”麻生レミのいたフラワーズ”というイメージにしばられたくなかったんです。だけど平和の象徴である”フラワー”という言葉は変えたくない。それで、”フラワー・トラヴェリン・バンド”としたわけけど、これからもレミと小林も含めてと考えています。」と語っています。

【1970年5月号 ニュー・ミュージック・マガジンより】
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こうして1970年2月に結成されたフラワー・トラヴェリン・バンドは、1970年4月に「第3世界のヘッド・ロック」というロック・イベントでデビュー。
5月には、「第41回日劇ウエスタンカーニバル」に出演。ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ロック・パイロット、ザ・テンプターズ他と競演。
その後、フラワー・トラヴェリン・バンドのファースト・アルバムに収録されることとなるキング・クリムゾンの「21世紀のスキッゾイド・マン」を大音響で演奏するなど、GSファンを驚かせたというエピソードも残っています。

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当初は内田裕也もメンバーとしてコーラスやパーカッションで参加していたものの、その後はプロデューサーとして陰でバンドを支えてゆくこととなります。

そして満を持して1970年5月に初シングルとして日野皓正との共演盤 「クラッシュ / ドゥープ」 を日本コロムビアよりリリースしました。

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当時、日本におけるジャズ・ロックの先駆者であった日野皓正との共演となったこのシングル。

キャッチ・コピーには、「モダン・ジャズとニュー・ロックが激突!」とあります。

クレジットを見ると。。
歌)ジョー
日野皓正クインテット
フラワー・トラヴュリン・バンド
ミュージカル・ディレクター 日野皓正・内田裕也

となっています。
”トラヴェリン”ではなく”トラヴュリン”というあたりが凄いです(笑)。

どういう経緯でこのレコーディングが行なわれたのかは定かではありませんが、内田裕也は前述のニュー・ミュージック・マガジンのインタビューで、「変にスカしてジャズのまねなんかしたくないですね。」と語っています。

【クラッシュ / フラワー・トラヴェリン・バンド & 日野皓正クインテット】
作詞:内田裕也 作曲:日野皓正

まさに両者のバトルが聴きものです♪

そしてB面に収録された「ドゥープ」は、石間秀樹の弾くシタールが全面にフューチャーされ、アシッド感漂う素晴らしい仕上がりとなっています。
後のフラワー・トラヴェリン・バンドを彷彿させるようです。

【ドゥープ / フラワー・トラヴェリン・バンド & 日野皓正クインテット
作詞:ロビー和田 作曲:日野皓正

まさにこの曲はフラワー・トラヴェリン・バンドの独壇場といったサウンドです。

残念ながら、このシングルの2曲は、アルバムに収録されておらず、1998年にオムニバスCD「ニュー・ロックの夜明け コロムビア編」に収録されましたが、現在は廃盤となっています。

その後、バンドは1970年10月に1stアルバム「ANYWHERE」をリリース。

【ANYWHERE / フラワー・トラヴェリン・バンド】
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そして、1970年7月12日~19日には大阪万博のお祭り広場で開催された「ミニマル・サウンド・オブ・ライダー」に出演。同イベントに出演していたカナダのロックグループ「ライトハウス」に認められカナダ遠征へと旅立ちました。。

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1971年4月にリリースされた日本のロック最高峰に位置する名盤セカンド・アルバム「SATORI」はアメリカのアトランティック・レコードよりをアメリカとカナダで発売。(現在はイギリスでも発売されています。)
同アルバムから「SATORI Part2」がシングル・カットされカナダのチャートで8位に入るなど、日本初のワールド・ワイドなロックバンドとして活躍しました。。。

【SATORI / フラワー・トラヴェリン・バンド】
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海外では大きな反響を呼び、サード・アルバム「Made In Japan」も海外発売され、デビッド・ボウイにも評価されたほどでしたが、日本では、その評価も一般的にはならず、バンドは1973年2月に4枚目のアルバムとなるライヴ+スタジオ録音で構成された2枚組「Make Up」をリリース後1973年4月に活動を停止しました。

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2007年11月には、突如としてオリジナルメンバー+当時のサポートメンバーであった篠原信彦を正式メンバーとして再結成。
2008年の「フジ・ロック・フェスティバル」に参加後、9月にはニュー・アルバム「We are here」をリリース。
アルバムリリースツアーを行うと同時に、再結成のニュースは全世界に伝わり、2008年11月にニューヨーク公演、12月にカナダ公演も行われました。

【再結成後のメンバー】
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【再結成アルバム「We Are Here」】
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しかしながら、本格的な再活動後、ジョー山中が2011年8月に逝去。
バンドは、残ったメンバーで活動を続けています。

2006年に初CD化されたフラワー・トラヴェリン・バンドのベスト・アルバム「The Times」は、そんなフラワーの歴史が凝縮された1枚となっています。

【The Times / フラワー・トラヴェリン・バンド】
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”花のふーてん・ばんど”と呼ばれていたフラワー・トラヴェリン・バンド。。
1970年代初頭、世界に誇れる日本のロック・グループがいたことは、もっともっと広く再評価されていいと思います。。。