自分が情熱を注げること | ホッとひといきタイム

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さて

 

ひと息おすましスワン

 

 

 

自分が情熱を注げるもの。

 

何かなぁうーん

 

 

この夏、映画トップガン マーヴェリックを通して、そんなことを考えさせられていた。

 

 

それがあるっていうのは心のどこかでむずむず感じているんだけど、

 

まだそこにたどり着けてないんだよなぁ〜という感じ。

 

 

 

27歳あたりまで、人に認めてもらえそうな選択や、もし親が生きていたら、親が喜びそうな選択をしていたと思う。

 

でも、正直ずーっと心に違和感を覚えながら、苦痛を感じながら、当時選択した道を歩いていた。

 

留学していた時期も、翻訳者を目指していた時期も。

 

 

留学に関しては、22歳とか23歳当時、ずっと日本を出たいと思っていたわたしにとって、

 

外へ出られるという意味では最高なことだったし、実際に学び多き時間になったのだけど、

 

修士課程をやりに行くという選択は、今となってはクエスチョンマーク。

 

小便ちびりそうな思いをしながら、なんとか修士論文を書いて、なんとか卒業証書もいただいたけれど、

 

今となっては、大学院じゃなくて語学留学とかホームステイとかの方が良かったんじゃないか?という感じ。

 

27歳以降、修士卒の経歴を活かした人生選択をしなかったし、自分はそういう道に向いていないと分かったから。

 

 

どんな道へ行こうと苦しいことはつき物。

 

だから、苦痛を感じるからって逃げちゃダメだ、諦めちゃダメだ、苦しいのは当たり前、みんな通る道だと思いながらやっていた。

 

確かに、そういう考え方はここぞという時にエネルギーになって、踏ん張りを効かせてくれたりする。それも必要なもの。

 

 

だけど、苦しみにも色々あって、

 

いつか終わる苦しみとか、未来ある苦しみもあれば、自分でピリオドを打たなきゃいけない苦しみもあるのかなぁと今は思う。

 

特に、ものすごい苦痛とか虚しさを感じるばかりで、その先のステップが全く思い描けないし、

 

明るい未来の予感とか気配すら感じられず、自分がすり減っていくばかりという時間が長く続いている時。

 

それでも、何かしら自分の中で納得できていればいいんだけど、

 

場合によっては、そういう苦しみにはどこかのタイミングで自分でピリオドを打って、

 

今度は自分に正直になって、自分がしっくりくる道を探す覚悟を決めるというのも意義のあることだと思う。

 

じゃないと、気が付いたときには、自分でも自分がどこにいるのか分からないような、自分がどこかへ行ってしまったかのような、そんな状態になってしまったり、

 

最悪、人格がひどく歪んでしまったり、そんなことが起きてくるかもしれない。

 

 

自分が情熱を注げることは何か。

 

周りの人間が良しとするかどうかは抜きにして、自分が夢中になって取り組めること、自分がやりたいと思うことは何なのか。

 

 

自分の環境が許す限り、たとえ時間がかかったとしても、今はそこにこだわって生きてみたい。

 

 

 

 

おしまいダイヤモンド乙女のトキメキ