動画サイトに岩崎宏美さんの歌を鑑賞しつつ、その技術の素晴らしさについて解説するチャンネルがあります。その中に「摩天楼」(作詞:松本隆、作曲:浜田金吾、1980年)を取り上げている回がありました。

 

以前「わが永遠の聖母(マドンナ)岩崎宏美」ブログ中の「摩天楼」の記事に、当時の松本さんの事情について一方的にまくしたてるようなコメントを差し上げたことがあり、ご迷惑をおかけしたと、汗顔の至りです。失礼いたしました。

今回聴いてみて、改めてここで取り上げてみたいと思い立ちました。

 

 

 

(1)松本隆さんのシングル曲起用

 

松本さんが岩崎さんの楽曲を手掛けるのは「摩天楼」が初めてではありません。後述する通り、アルバムには既に2曲書いています。「摩天楼」は、初めてシングル曲として採用された作品です。

 

岩崎さんのスタッフは1978年秋の新曲から、阿久悠さん以外の作家に詞を頼む方針に切り替えました。阿木燿子さん、山上路夫さん、三浦徳子さん、なかにし礼さんと続けて、松本さんにお鉢を回しました。阿久さんも岩崎さんも「もっと書きたい」「もっと阿久先生に書いてもらいたい」と望んでいることは重々承知の上での作戦だったのでしょう。20歳を迎えるのだから、いろいろな人の世界観を表現できるようになってほしいという狙いが表向きだったでしょうが、「山口百恵さん対抗策」という意味合いも含まれていたように思えます。

 

1975年後半、「ロマンス」や「センチメンタル」の頃は、岩崎さんの売り上げが百恵さんを大きく上回りました。映画やテレビドラマの仕事に軸足を置いていた百恵さんは、阿木燿子さん・宇崎竜童さん夫妻コンビの曲で歌手としての巻き返しを図り、1976年夏には再逆転します。時代に愛されるかのように次々とヒット曲を出し、濡れ場も啖呵切りも老親への愛も旅情もお手の物の百恵さんに再び追いつくにはどうするか、は当時の岩崎さんスタッフたちが抱える最大のテーマだったのでしょう。阿久さんの文芸路線が一応の完結を見て、「シンデレラ・ハネムーン」で少し大人びた世界を垣間見せたタイミングで、他の人の詞を歌わせたいと企図するのは自然な流れだったように思えます。最初を阿木さんにしたのは、女性の作詞家でないと阿久さんを納得させられそうにないという読みもあったでしょうか。阿木さんの側も、自分の夫以外の人が作った曲に自分の詞がどこまで通じるかチャレンジしてみたいという思惑があったとみられます。

 

この時期の岩崎さんの曲で最もヒットした作品は、三浦さんが手がけた「万華鏡」(作曲:馬飼野康二、1979年)です。この曲で岩崎さんのイメージもひと皮むけて、アイドルから大人のシンガーへのステップアップが、ファン以外の人にも広く認識されました。なかにし礼さんの濃厚な世界の次は、松本さんで少し爽やかに…とでも思ったでしょうか。もしくは山口百恵さんに書いた「愛染橋」(作曲:堀内孝雄、1980年)、高田みづえさんに書いた「花しぐれ」「パープル・シャドウ」(いずれも作曲:都倉俊一、1977年)的な線を狙っていたかもしれません。

 

(2)”モノクローム堕ち”

 

しかし松本さんが書いた「摩天楼」の詞を一読すると、たちまちピンと来ました。

「これ、『九月の雨』(作曲:筒美京平、歌唱:太田裕美、1977年)みたいな場面じゃないの?」

恋人が他の人とよろしくやっているところに踏み込んで、動かぬ証拠をつかむ物語です。

「九月の雨」では電話の向こうの音声と気配から、他の女性の存在を突き止めます。

対してこちらはバスルーム…より危ないですね。

 

「九月の雨」は松本・筒美コンビ渾身の作品でした。筒美京平さんにとっては、かねてからたくさん書いていた「ポール・モーリア風歌謡」と、当時流行していたABBAに代表されるヨーロッパ系ディスコ歌謡を融合させた会心作でした。世間の評判も上々でしたが、息つく間もなく長い時間声を張り上げる難しい曲で、太田さんは喉を痛めてしまいました。次作「恋人たちの100の偽り」は最初カントリー&ウエスタン風のアップテンポの曲で、そのまま発売されていたら「私たち」みたいにコンサートを盛り上げる定番曲になったかもしれませんが、太田さんの喉に負担をかけないように詞も曲も書き直され、地味な作品となって発売されました。売り上げは急落してしまい、太田さんはその後しばらくセールスで苦戦します。松本さんにとっては、そのリベンジでもあったのでしょうか。

 

太田さんの楽曲はデビュー以来ほぼ全て松本さんが作詞してきましたが、1978年暮れに発売されたアルバム「海が泣いている」をもって、一旦コンビ終了になりました。太田さん曰く「松本さんはそれからあまり書いてくれなくなって、やっと私が作った曲に書いてくれたと思ったら『サヨナラの岸辺』。さよならされちゃいました。」松本さんにとっても”メイン・シンガー”を失ったことは結構効いたようで、その後しばらくは吉田拓郎さん、桑名正博さん、水谷豊さんなど男性シンガーの仕事に軸足を移していました。百恵さんや岩崎さんの曲は「頼まれたので仕方なく」といったスタンスだったでしょうか。「愛染橋」は堀内孝雄さんが大阪出身ということを利用して、「首都圏民が歌う関西の歌」という新機軸?を打ち立てましたが、「摩天楼」が「九月の雨」のアダルト編的な作品になったのは、既に鮮烈なイメージが定着している岩崎さんにどんな曲を歌わせたらよいか考えあぐね、それならば「九月の雨」のリベンジをしようか、と思い立ったようにも思えます。

 

1980年6月、松本さんの妹Yさんが倒れ、虎ノ門病院に入院します。心臓に持病があり、幼い頃から身体が弱いYさんを、松本さんは常に気にかけていました。Yさんは「苦しいことを言い訳にしないで、他の人と同じように暮らしたい」と、強い意志を持って生きていたといいます。程なくYさんは亡くなり、松本さんは「渋谷の街が色を失ってみえた」と述懐しています。詞が全く書けなくなり、大滝詠一さんから頼まれていた新しいアルバムの作詞も一度は辞退しようと考えました。

 

「摩天楼」の発売は1980年10月5日です。Yさんが亡くなった時期に詞を書き、レコード会社に送っていないと間に合いません。私は以前「松本さんが妹を亡くす前に書いたストック曲ではないか」と考えていました。「わが永遠の聖母岩崎宏美」のブログにも、その趣旨のコメントを書きました。

 

が、改めて「摩天楼」の詞に目を通すと、Yさんが亡くなった直後に書いたようにも思えてきます。

 

「In the city, I'm crying crying crying

気づいた時は透かしの絵の街」

 

「私が死んでもこのビル街は

そしらぬ顔して動き続ける」

 

親しい人が亡くなってから悲しみが襲い掛かるまで、どこか自分ごとではないような心持ちになる瞬間があります。指などを切った際、血が出て痛みが強まるまで少し間が空くことと似ています。これらのフレーズはその一瞬を切り取り、詞として昇華したようにも思えてきます。「透かしの絵の街」は「モノクロームの渋谷」にも通じます。

 

松本さんの仕事が多忙になると、Yさんに連絡を取る時間を確保することもままならなくなっていたのでしょう。もっとたくさん話しておきたかった、一緒にいたかったという後悔と、仕事が忙しかったから、子供がまだ小さいからという言い訳がましさが混然一体となっていたように想像しうるでしょうか。岩崎さんは自分のメインシンガーではないことも、阿久悠さんと親子のような関係を築いていたということも考える暇なく、頼まれたからには書かなければいけないとただひたすらに書いて、ビクターの担当さんに提出したというストーリーも成り立ちそうです。タイトルの「摩天楼」は、詞に直接書かれていません。かつてプロデュースした南佳孝さんのアルバム「摩天楼のヒロイン」(1973年)からタイトルを拝借して間に合わせたのでしょうか。タイトルが先にあって、それに合わせて作詞するスタイルの楽曲ではなさそうです。

 

松本さんは7月はじめ、大滝さんとCBSソニーのディレクター、白川隆三さんと軽井沢に出かけました。二人が松本さんを気遣ったのでしょうか。その場で半分くらいできていたアルバム収録候補曲のカセットテープを聞かされます。しかしすぐには詞が思い浮かばなかったといいます。大滝さんのレコーディング記録によれば9月2日に「カナリア諸島にて」の詞をもらい、その後一気に制作ペースが上がっていきました。大滝さんは「さらばシベリア鉄道」について「レコーディングしていたら女性言葉が気になって歌えなくなり、太田裕美が思い浮かんだ」とコメントしていますが、落ち込んでいる松本さんに再び詞を書いてもらうには、太田さんに来てもらうのが一番と見抜いていたようにも思えます。岩崎さんの歌を最後に詞を書けなくなったモノクロームの心に、旧知の太田さんと大滝さんが再び色をつけた、ならばドラマチックなお話ですね。

 

(3)「オレンジの口紅」+「三枚の写真」?

 

松本さんが岩崎さんに書いた最初の楽曲は、アルバム「飛行船」(1976年7月発売)収録の「美しい夏」と「ワンウェイ・ラブ」(いずれも作曲:萩田光雄)です。結構早い段階で参加していたとは知りませんでした。もちろん阿久悠さんとのコンビが盤石だった頃です。その時点でアルバム曲を作詞していた人は阿久さん、千家和也さん、ちあき哲也さんの3人でした。松本さんは4人目の起用にあたります。これはびっくり、意外でした。

 

「美しい夏」を聴いてみたら、たちまち「オレンジの口紅」(作曲:筒美京平、歌唱:太田裕美、1976年、アルバム「手作りの画集」収録)を思い出しました。太田さんに歌ってもらいたいと思って書いた詞が、間違って岩崎さんのアルバムに紛れ込んでしまったかのように思えました。

 

 

「私は氷 手にのせて

冷たいねって 泣いたっけ」

 

のフレーズを耳にした途端、クスクス笑い出してしまいました。まるで「三枚の写真」(作曲:大野克夫、歌唱:三木聖子、1977年)ではありませんか。「三枚の写真」の発想はここから来ていたの!と、新たな発見に心躍りました。

 

この詞を読んでいくと、当時の”松本語”総動員といった感がしてきます。

 

「夏の服をたたむ指先に、ポケットの砂がキラキラ零れて」→「夏色のおもいで」「ポケットいっぱいの秘密」

「今は秋です」→”ですます調”は「夏なんです」からの応用

 

また、後年の有名作品で花開いたテクニックが既に使われていることにも気づかされます。

 

「夕陽色の波」→松本さんの得意技、実在しない詩的色彩の織り込み

「机の隅の貝殻」→「白い貝のブローチ」(作曲:財津和夫、歌唱:松田聖子、1981年)

「君に聞いた電話番号も、破いてしまえば風が運んだわ」→「制服」(作曲:呉田軽穂、歌唱:松田聖子、1982年)の「雨に濡れたメモには、東京での住所が…」のフレーズ

「今は秋です」は、もちろん「風立ちぬ」の原型です。

 

”風街”の住民にとっては、隠された秘宝のような作品です。

一方この曲のイントロの「ドンドンドン」の繰り返しには、ちょっと驚かされます。萩田光雄さんらしいといえばらしいのですが、後年のヒット作を思い浮かべると、どこか中途半端な印象を持ちました。「オレンジの口紅」風の曲調にも、ややミスマッチです。筒美京平さんの曲はあまりいじれないけれど、自分の曲ならばいろいろ試してみようか、といったところでしょうか。

 

「木綿のハンカチーフ」がヒットしていた1976年初め、松本さんは海外を旅していたといいます。アルバム「飛行船」のレコーディングは松本さんが帰国して「赤いハイヒール」やアルバム「手作りの画集」収録曲を書いた直後ぐらいにあたるでしょう。松本さんが岩崎さんのアルバムに参加したのも、筒美京平さんの推薦があったのでしょうか。

 

<以下妄想>

「岩崎宏美?ああいう芸能界芸能界したのにはもう書きたくないって、京平さんにも言ったでしょ。(岡田)奈々のだってあるんだし。」

「まあ、そう言わないで。太田裕美がヒットしたからって、慢心してはいけないよ。この世界にいる以上、仕事をえり好みしてちゃだめ。とにかく書いてみなさい。萩田くんにも声かけたから。」

<妄想終わり>

 

といったやり取りが思い浮かびます。後年松本さんが松田聖子さんを手掛ける際、大滝さんや細野晴臣さん、南佳孝さんなど旧知の仲間を次々引っ張り込んできた、そのプロトタイプかも?と思えてきます。

 

☆☆☆

 

松本さんは「摩天楼」から2年おいて、岩崎さんに「檸檬」(作曲:鈴木キサブロー、1982年)を書きます。その次の曲が怪物級のヒット作になったので路線変更がなされましたが、岩崎さんの制作スタッフはショートリリーフとして、たまには松本さんに書いてほしいと考えたのでしょうか。松本さんといえば大村雅朗さんですね。「檸檬」の次が普通サイズのヒットだったら、大村さんアレンジの岩崎さんナンバーが、もっと早く登場していたかもしれません。