今回は渡辺満里奈さんが歌う「ダンスが終わる前に」(作詞・作曲:佐野元春、編曲:大瀧詠一=多羅尾伴内名義、1996年)を取り上げます。作者サイドやレコード会社、レーベルのお話は後にして、まず楽曲を聴いてみましょう。

 

 

赤いドレスを着てダンスパーティーに出席している主役は、既に「少女」は過ぎているが、まだ完全に「大人」とは言い切れない年齢の人でしょう。いわゆる”大人の色気”を発散させるタイプではなく、可愛らしくてどこか生真面目さを感じさせる人。きっとビンテージ風、ふんわり系のひざ丈ドレスに赤いハイヒールでしょう。若い頃は少し遊んで、それなりの苦い思いをしてきたが、そう恋愛に積極的なほうではないと想定されます。いなければいないでも構わないが、もし次に恋愛できるチャンスが巡ってきたら、これからの生涯の大半をその人との関わりに費やすか、それともやめておくかを決めなければならない。そんな心境が想像できます。

 

「マンボ・ジャンボ」はペレス・プラード楽団演奏の曲であり、「わけのわからない話、儀式」という意味合いの俗語でもあります。

「ハンプティ・ダンプティ」は英国に古くから伝わる童謡であり、「鏡の国のアリス」でアリスに難しい理屈をつけて話しかけるキャラクター。

「へルター・スケルター」はビートルズの楽曲で、英国ではらせん状の滑り台としても知られています。

 

これらの語は、「私(主役)が踊っているダンスパーティーはあくまでもうわべを飾り立てるものに過ぎず、私が本当に欲しいもの、いたい場所・境遇ではない」ことの比喩として使われているのでしょう。英語圏でよく使われる押韻を持っていて、詞にリズム感をもたらします。

 

主役が本当に欲しいものは、飾り立てたおしゃれでも、くちづけなどの肉体的関わりでもなく、一緒に踊っている相手からの「変わらない約束」。彼女は「大切だと言えるものは、いつだってほんの少し」であることを知っています。このフレーズは至言です。この記事を書くにあたり久しぶりに読み返してみて、改めて胸に迫ってきました。

 

「少女が大人へのステップを歩み始める」歌は大昔から無数にありますが、特に古い年代の歌は”直ちに大人になる”ことを前提として作られていました。対してこの曲は”モラトリアム状態で少女と大人の中間にいる若者が、その段階を卒業して本格的な大人になる”段階を描いています。その意味でも優れた作品です。この種の表現は、少し前までは松本隆さんの独壇場だったでしょう。それを佐野さんが書いたことに価値があると思います。かつて「つまらない大人にはなりたくない」と詞に書いて、同世代から圧倒的な反響を得た佐野さんがたどりついた”答え”のひとつという見方も可能でしょう。短い詞ですが、人が生きるという行為の本質を突いています。佐野さんにとっても納得が行く作品なのでしょう、後年アレンジを変えてセルフカバーしています。

 

久しぶりにじっくり耳を傾けているうち、私は子供の頃「思い出のメロディー」などで耳にしたこの曲を思い出しました。(作詞:横井弘、作曲:小川寛興、1965年)

 

 

この曲の主役は既に”脈なし”を悟りながらダンスパーティーに臨んでいますが、「ダンスが終わる前に」の物語は相手の返答を待つ段階で終わらせて、結末を聴き手の価値観に委ねています。恋がかなうもよし、それほどの人じゃなかったと振るもよし、といったところでしょうか。

 

大瀧さんはフィル・スペクターばりのドリーミーなアレンジを施しています。ボーカルまで含めて全体的にエコーを深めにかけて、Wall of Soundテイストを強調しています。満里奈さんを和製ロニー・スペクターに見立てようとしたのでしょう。やや唐突に始まるイントロはThe Drifters「Save the Last Dance for Me」(1960年、邦題「ラストダンスは私に」)の一節からの引用で、間奏にも織り込まれています。音は厚くとも重たくはならず、1980年代のナイアガラ作品よりも軽やかで、小鳥が羽ばたこうとしているような雰囲気の曲ですね。

 

 

以下はこの曲に関わった人たちのお話です。必要とおぼしき資料に目を通していますが、あくまで個人の見解です。あらかじめご承知おきください。

 

渡辺満里奈さんは1986年、おニャン子クラブ加入によりデビューしました。若い頃から周囲の大人たちにとても可愛がられていて、おニャン子クラブ解散後もバラエティ番組にレギュラー出演して、タレントとしての実績を積み重ねていきました。アイドル時代はもちろん秋元康さんが楽曲を手がけていましたが、所属レコード会社が先鋭的な音楽に強いEPICソニーで、ご本人も音楽好き、新しいもの好き。解散間もない頃から大江千里さんや川村真澄さんに楽曲を依頼していますし、後にいわゆる「渋谷系」の人脈にも曲を作ってもらっています。1990年代に入ると新曲を出す頻度は減りましたが、トリビュート盤の嚆矢ともいえる企画「はっぴいえんどに捧ぐ」(1993年)で「空色のくれよん」(作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一、1971年)をカバーしています。音源にはなっていませんが、当時のライブでは「それはぼくぢゃないよ」(作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一、1972年)も披露していたそうです。そう、満里奈さんもまた”隠れ?ナイアガラー”です。ご本人のインタビューによれば小学生の時に「Niagara Triangle Vol.2」を聴いて衝撃を受けて、そこから音楽好きになったそう。そんな満里奈さんのもとに、さくらももこさんがテレビアニメ「ちびまる子ちゃん」の新しい主題歌として作詞して、さくらさんの”たってのお願い”で大瀧さんが7年ぶりに作曲した「うれしい予感」(1995年)を歌ってくれないかというオファーが舞い込みます。満里奈さんは夢のようなお話に大興奮。次はアルバムをプロデュースしよう、というお話に発展しました。飛びぬけて歌が上手とか、表現力に長けているとか、独特の存在感を放っているとかの特徴はありませんが、そう下手でもありません。(かつておニャン子クラブのあるメンバーがアニメ主題歌を歌ったところ、「あまりにも下手すぎる」と苦情が来て差し替えられたという伝説もあります。)適度に乾いたマイルドで聴きやすい声質の持ち主で、大滝さんが得意とするアメリカンポップス系の音楽と相性がよかったのでしょう。

 

とはいえ当時の満里奈さんはいわゆる「メロディータイプ」のナイアガラ作品しか視野に入っていなかったようで、「(大瀧詠一)ファーストの次が『A LONG VACATION』ですよね。」と言ったらしく、大瀧さんは「乱暴な人だねえ。」しかし続けて「ある意味じゃ正しいんだよね。だって歌を歌ったのはあそこなんだもん。あの2枚だけ。間のアルバムで自分の声にキーを合わせて作ったのは1枚もない。」「根源的なものをそのまんまつかまえる力があるんじゃないの?」とフォローしています。知ったかぶりのようで、物事の本質をとらえる力があることも年長の人たちに可愛がられた要因でしょう。

 

 

一方当時の大瀧さんはソニーミュージックレコーズ傘下の「ダブル・オーレコード」(Oo Records)の取締役でした。2022年に出版された川原伸司(平井夏美)さんの著書「ジョージ・マーティンになりたくて」には、そこに至るまでの少々複雑な経緯が記されています。それによれば、大瀧さんは1990年代初頭の一時期ソニーレコードから離れていたと読み取れます。以下川原さんの本に基づき整理してみましょう。

 

1986年9月 川原さんがビクター音楽産業を退職して、CBSソニーに転職。

 

当時川原さんは松田聖子さんのアルバム「SUPREME」に「瑠璃色の地球」を書きましたが、聖子さんが出産によりプロモーションに参加できない代わりに「瑠璃色の地球」をメディアでアピールする仕事のためと、大瀧さんのサポートをするためとみられます。川原さん自身激務がたたり目の手術を受けていて、一旦リセットしたいという思いもありました。聖子さんが出産を終えて歌手活動に復帰した後、1987年3月からナイアガラ専属になります。ところが大瀧さんは一向に作曲しようとしません。「EACH TIME」と小林旭さん「熱き心に」の制作で、作曲家としては燃え尽き状態になっていたようですが、大瀧さんのことです、周囲には一切口に出さなかったのでしょう。

 

1989年3月 川原さんがCBSソニー退職、翌4月からビクター音楽産業復帰。

 

大瀧さんはソニーの上層部から新作をせがまれることが煩わしくなっていたようで、会社への不満を漏らしはじめます。そんな折ビクターで長年川原さんと仕事をして気心も知れている飯田久彦さんから「戻ってこい」と連絡があり、川原さんはビクターに復帰します。同時に大瀧さんもソニーとの契約を一旦打ち切った模様です。このお話は大瀧さんの逝去後にたくさん出されたバイオグラフィー本・雑誌企画にはほとんど掲載されていません。川原さんの本でもはっきりとは記されていませんが、大瀧さんはフリーの状態になったのではないかと見られます。もし正式契約していたら私のような希薄ナイアガラーでもわかるようにメディアで発表されて、バイオグラフィーに載るはずです。

 

大瀧さんが後年「CD選書盤の『A LONG VACATION』や『EACH TIME』などの再発売(1991年)の時、自分は諸事情で関わることができなかった」とお話されていたのは、その時点で少なくともソニー所属のアーティストではなくなっていたからなのでしょう。

 

1994年7月 ダブル・オーレコード発足。大瀧さん・川原さんが取締役就任。

 

Wikipediaでは「1994年11月」と記されていますが、ここでは「All About Niagara」および川原さんの本の記述に従います。ダブル・オーレコードは前述のようにソニーミュージックレコーズ傘下で、実質的に二人のソニー復帰です。渡辺プロダクション出身で、CBSソニーに長く勤めていた稲垣博司さんが代表取締役でした。

 

ソニー側でどのような話が進められていたのかは知る由もありませんが、大瀧さんを在野で放置するのはもったいない、CBSソニー時代の一大貢献者なのだし、旧譜がコンスタントに売れ続けているし、また新作を出せるように環境を整えてあげようという方針が立てられたと推測されます。1990年代初めごろはいわゆる「バンドブーム」で、いかにも素人っぽい人たちが人気を集めていましたが、次はベテランがしっかりした音楽を出す流れが来てほしいという読みもあったでしょうか。

 

一方大瀧さんはナイアガラレーベル発足時に掲げた理想にもう一度チャレンジするチャンスと判断したと思われます。すなわち米国の有名ポップスレーベルと同じように、音楽志向を明確にできるレーベルを作る。レーベル主宰者はシンガーソングライターとして活動するのみならず、他アーティストのプロデュース活動も行い、音楽業界に一定の流れをもたらす。

 

大瀧さんが若かった頃は実績も知名度もほぼゼロからのスタートで、レコード会社の要望を受け入れなければならなかったが、その後実績ができたし、川原さんのような理解者もできたし、お金の面でも少しは余裕があるだろうからやってもよいのではないかと考えたのでしょう。レーベル名は「Yoo-Loo」にしました。「ユールー」と読むらしいですが、”養老の滝”が由来でしょう。ナイアガラの滝ほど大規模にはなれなくとも、「若返り伝説」にあやかりたいといった心でしょうか。

 

大瀧さんは「大瀧詠一の個人レーベル化」を最も懸念していたので、とにかく最初は自分以外のシンガーをプロデュースする形にしたい。そこに現れたのが渡辺満里奈さんでした。ソニーと契約しているし、自分の音楽で育ったと言ってくれるし、様々な音楽に関心を持っていて好奇心も強いし、アメリカンポップス向けの声の持ち主だし、まさにうってつけだったのでしょう。

 

さらに大瀧さんが少年時代大いに憧れていた植木等さんが「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマソングを歌うことになりました。アメリカで作られたノベルティソング「The Purple People Eater」(1958年)にさくらももこさんが日本語の詞をつけて「針切じいさんのロケン・ロール」としてレコーディングされました。編曲した大瀧さんは「Rinky O'hen」というクレジットを使いました。「臨機応変」と「O・ヘンリー」から取っているのでしょう。数ある大瀧さんのペンネームの中で「Hill Andon」「トランク短井」と肩を並べる?傑作だと、私は思っています。 

 

「うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール」のシングル盤(8cm CD)は1995年2月22日に発売されました。調べてみたらヒットチャートで最高31位だそうで、奇しくも「フィヨルドの少女」と同じです。発売に先駆けて作られたプロモーションCDには「ナイアガラ宣言」と称する短文と、さくらももこさんのコメント、曲目解説が掲載されています。それによれば「80年代のナイアガラサウンドにビートルズフレーバーを加味した」とのこと。イントロを聴けばわかりますが、ビートルズ風に仕上げるというのは大瀧さんにとって”奥の手”だったはずです。それだけ力を入れていたのでしょう。

 

続いて「大瀧詠一」ファーストアルバムリマスター盤が1995年3月24日にダブル・オーレコードから発売されました。CD盤には小さく「Yoo-Loo」レーベル表記があります。これは大瀧さんがやりたいことのひとつだったのではないでしょうか。オリジナルLP盤は1972年11月にキングレコード系列のベルウッド・レコードから発売されていますが、発売後にレコード会社がマルチテープ素材を廃棄したことに大瀧さんが疑問を持ち、「原盤権を自分で管理しなければならない」と思い至ったことがナイアガラレーベル創設の動機になったといいます。ベルウッド・キングでは幾度かLP・CDを再発売していますが、今回は大瀧さん自身がキングレコードから原盤を借りて、それに個人で保管していた録音テープを加えてマスタリングしています。満里奈さんが気に入ってくれていることも大瀧さんのやる気につながったように見受けられます。CDには各曲解説と、はっぴいえんどからソロデビューに至る経緯、メンバーへの謝辞が詳しく記されています。さらにソニーからCD選書として「ナイアガラ・ムーン」「ナイアガラCMスペシャルVol.1」などコロムビア時代に制作したアルバムの中から数タイトル、ビクターから「大瀧詠一SongbookⅡ」が発売されました。後者は1970年代・1980年代に大瀧さんがソニー以外のシンガーに提供した楽曲を集めたアンソロジーで、「熱き心に」「冬のリヴィエラ」「探偵物語/すこしだけやさしく」などの有名作品から、角川博さん「うさぎ温泉音頭」金沢明子さん「イエロー・サブマリン音頭」などのノベルティ作品まで幅広く収録されています。いずれも大瀧さんが詳細な解説を書いて、今に至るまで多くの人が参考資料として使っています。このこまめな姿勢も後年の再評価につながっているのでしょう。

 

大瀧さんにしてみればこれでひと山越えた、後は満里奈さんのアルバムを作り、コロムビア時代の残りのアルバムを復刻し、できたらもう1組、かつての伊藤銀次さんのようなポジションの人がダブル・オーレコードに来てほしいといったところだったでしょう。しかし周囲はそれだけでは満足してくれません。「新アルバムを作ってほしい」という催促が幾度もなされたと考えられます。稲垣さんと大瀧さんの間にずれが生じて、時間の経過とともに大きくなる一方だったのではないでしょうか。

 

渡辺満里奈さんのアルバムはタイトルが「Ring-a-Bell」と決まって制作が進みましたが、結果として6曲入りミニアルバムとして1996年3月21日に発売されました。「うれしい予感」「ダンスが終わる前に」の他、かねてから大瀧さんと親しいポップス評論家の萩原健太さん・能地祐子さん夫妻が書いたラップ調の「金曜日のウソつき」(満里奈さんは、自身のデビュー曲「深呼吸して」の10年後だと語ったそうです)、シリア・ポールさんのアルバム「夢で逢えたら」(1977年)に収録された「Tonight You Belong To Me」に能地さんが日本語詞をつけた「ばっちりキスしましょ」、川原さんが平井夏美名義で作曲して製菓会社CMタイアップがついた「約束の場所まで」、金延幸子さんが1972年に作った、ちょっとはっぴいえんど風の詞の「あなたから遠くへ」が収録されています。

 

 

ここで疑問が起こります。「もう3~4曲足して、フルアルバムにはできなかったの?」

その答えは前の記事で紹介した杉真理さんのCD-BOX「Mr.Melody」ライナーノーツにあります。杉さんはこのアルバム用に3曲書き下ろしていました。すなわち「Ring-a-Bell」は「ナイアガラトライアングルVol.2」再集結の場としても構想されていました。アメリカンポップス調の「ライムのひとりごと」(ライムというのは、杉さんの”妹分”竹内まりやさんのヒット曲「ドリーム・オブ・ユー レモンライムの青い風」(作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、1979年)にあやかったのでしょうか)、ラテン調の「クラブ・ロビーナ」、そして川原さんと共作したが詞ができなくて中断したままだった曲、だそうです。「クラブ・ロビーナ」は満里奈さんが杉さんと会って打ち合わせした際、「サヴァンナ・バンドみたいな曲をお願いします」とリクエストしたと記されています。

 

「Mr.Melody」には後年他の方がレコーディングしたバージョンが収録されていますが、聴いてみて完成度の高さに感心しました。この3曲が加わればアメリカンポップステイストのみならずサウンドに幅ができて、上質なポップスアルバムになれたでしょう。杉さんの曲が削られた理由はわかりませんが、その事実を教えてもらうとつくづく惜しいです。音楽的にどうこうではなく、音楽を離れたところにおける”大人の事情”が働いたように思えます。

 

この経過が大瀧さんを失望させたことは想像に難くありません。杉君、満里奈さんに申し訳ないとも思ったでしょう。杉さんもまた、満里奈さんの希望に応えて作った曲がアルバムから漏れてしまったことはショックだったでしょう。満里奈さんは「ナイアガラトライアングルで憧れだった大瀧さん、佐野さん、杉さんと一緒にお仕事できた」と満足したのか、この後1997年にシングル1作を出したのみで、実質歌手活動を終えます。その後はタレント活動と並行してピラティスなど様々な分野に関心を寄せ、子供ができると絵本もいくつか出しています。この記事を書くにあたって調べたら立派な公式サイトができていて感心しました。自分ではもう歌わないものの音楽好きマインドは健在で、以前の記事でも紹介した通り「オールナイトニッポン MUSIC10」のパーソナリティとして活躍中です。

 

「Ring-a-Bell」発売の1996年3月21日、コロムビア時代のナイアガラレーベルアルバムの中から「Go! Go! Niagara」「ナイアガラカレンダー」「Let's Ondo Again」の3作がCD選書盤として復刻されました。さらに大瀧さんは「SNOW TIME」を”新譜”として出しました。このアルバムは1985年にプロモーション・オンリーとして制作されて一般には流通せず、長い間コレクターズアイテムとして”知る人ぞ知る”存在でした。「A LONG VACATION」の大ヒットで、大瀧詠一は「夏サウンドの代表格」イメージで語られているが決してそうではない、むしろ冬こそナイアガラと言いたかったそうです。私は「A LONG VACATION」を12月に買っていたので最初から気がついていて、世間の常識になっていない現実のほうが不思議でした。11年ごしに公式発売された「SNOW TIME」は前半・ボーカルサイドと後半・インストルメンタルサイドに分かれています。ボーカルサイドは「フィヨルドの少女」をメインに据えて、「A LONG VACATION」と「EACH TIME」の晩秋~早春を舞台にした楽曲を収録。最後に「冬のリヴィエラ」に英語詞をつけた「Summer Night in Riviella」(夏のリヴィエラ)。インストルメンタルサイドは「Fiord」「Siberia」に加えて、「A LONG VACATION」「EACH TIME」制作セッションにおいて採用に至らなかった3曲をはさみ、最後は鈴木茂さんのギター演奏による「うれしい予感」(Yokan)でしめくくられています。「SNOW TIME」のライナーノーツで大瀧さんは、「A LONG VACATION」がヒット作品になるまでの過程から始めて、ソニー上層部とのスタンスの違いや、本作をなぜ最初プロモーション・オンリーとしたかなどについて詳細に語り、最後に「『あなただけ I Love You』(歌・須藤薫、1980年)から『うれしい予感』までの”第二期ナイアガラ・ソニー時代"の終焉」を宣言しています。今この文章を読み返すと、大瀧さんに新作アルバムをうるさく催促するダブル・オーレコードの人にこそこれを読んでほしい、引導を渡したいという強い意志が感じられます。この時発売されたアルバム5作品の帯には、当該アルバム以外の4作品の案内広告が掲載されています。満里奈さんは当時紛れもなくナイアガラファミリーの一員でした。

 

 

大瀧さんがここまでやったことで、稲垣さんとの間に決定的な溝ができたと見られます。川原さんは「作曲家としての大瀧さんはもう”ネタ切れ”なのだろう」と気がついていたようですが、このままではしこりを残してしまうと懸念したのか、フジテレビのドラマプロデューサー・亀山千広さんからのドラマ主題歌依頼は最低限引き受けて、1曲だけでも仕上げておくようにアドバイスしたのでしょうか。1997年に入り、大瀧さんはようやく楽曲を完成させます。これが「幸せな結末」で、ドラマ「ラブ・ジェネレーション」主題歌として同年11月12日にシングル盤が発売され、大瀧さんのシングルとしては最大の売り上げを記録しました。「幸せな結末」は本来ダブル・オーレコードから出すのが筋ですが、大瀧さんは「ソニー本体から出したい」と強く希望したそうです。ダブル・オーレコードは存在意義を失い、残務整理の後1998年に解散しました。

 

大瀧さんは「幸せな結末」を出すにあたり、久しぶりにスタジオで歌うからということで「ナイアガラ・リハビリセッション」と称するレコーディングを行っています。自分が好きな洋楽を中心としつつ、「ダンスが終わる前に」も取り上げていました。大瀧さんが自分で作った曲以外の邦楽作品を歌うのは極めて珍しい試みです。このバージョンは2020年に発売されたアルバム「Happy Ending」に収録されました。

 

 

このバージョンではバックを必要最小限の演奏にとどめて、大瀧さんのボーカルが強調されていますが、他に満里奈さんが使ったオケに近い編成でキーを自分用に調整した「Rinky Version」もあります。ご興味のある方は探してみてください。

 

「幸せな結末」とカップリングの「Happy Endではじめよう」というタイトルを見た瞬間、私は「大瀧さんは、もしかしてこれで歌をやめるつもりなんじゃないの?」と、ピンと来ました。萩原健太さんは新聞のレコード評で「大瀧詠一、堂々のシーン復帰」と書いていましたが、とてもそのようには思えませんでした。「幸せな結末」は「はっぴいえんど」の日本語ですし、「Happy Endではじめよう」には「風街ろまん」やファーストアルバム収録曲のタイトルがいくつか織り込まれています。シンガー大滝詠一・コンポーザー大瀧詠一の物語はこれでおしまい。「月9」ドラマの主題歌だし、放っておいてもそこそこは売れるだろうから、まさに「はっぴいえんど、幸せな結末」にふさわしい。これからはまだ誰も手をつけていない米英ポップスの系統的歴史研究に専念して、きちんとした形に残していこう、それが俺の残りの人生の使命といった心境だったと思われます。実際にはこの後市川実和子さんのプロデュースと「恋するふたり」の発表(2003年)がありますが、この時点では歌手・作曲家をすっぱりやめるつもりだったのでしょう。

 

 

1990年代の「ナイアガラ再活動」が中途半端な結果に終わった原因はいくつか考えられます。「このプロジェクトに適した作詞家を見つけられなかった」ことはそのひとつでしょう。大瀧さんは作曲活動に勤しんでいた頃も「詞があれば何か思いつけるかもしれない」と考えたことが幾度かあったと言いますし、結構重要なファクターと思われます。周囲の人は「大瀧さんがプロデュースするのだから、詞は当然松本さんのはず。行き詰まったら来てくれるだろう。」と見ていたようですが、実際は「EACH TIME」の仕事を終える際に「今後は一切共作活動を行わない」と決めて、二人ともそれを口外しない約束をしていたと考えられます。松本さんは1980年代から最近に至るまで「大瀧さんとはEACH TIMEの時にいろいろあって」とお話されていますが、1997年に吉田拓郎さんのテレビ番組に出演した際の様子を見ると、制作中長年の友人関係を台無しにしかねない局面まであった節が伺えます。その場は一旦クールダウンして、二人でよく話し合った上での約束なのでしょう。松本さんにとってはっぴいえんどは人生で一番の宝物で、大瀧さんと喧嘩別れで終わりたくない、生涯の友人であるためにも仕事上のパートナーにはもうならないほうがよいと考えたと思われます。1995年ごろの松本さんは基本的に仕事を休んでいて、純粋芸術も意識した作品の依頼ならば引き受けるといったスタンスを取っていました。一方大瀧さんはダブル・オーレコードを始める際「松本ほど完璧に書けなくとも構わない。ナイアガラの音作りにふさわしい世界観を綴ってくれる人は誰かいないかな」といったスタンスだったのでしょう。ところが誰も現れず、杉さんと川原さんが共作した曲は完成に至らず、作詞が本業でない能地さんにまで頼まざるを得なくなってしまいました。いくらその時点で「売れ線から外れたちょっと懐かしめのサウンド」だったとしても不思議です。誰も真面目に探そうとしなかったのでしょうか。

 

もうひとつ、「朝妻一郎さんに相当する、プロジェクトの”楽屋”的な側面を適切に管理する人がいなかった」こともあげられるでしょう。「A LONG VACATION」は朝妻さんが大瀧さんの才能にほれ込み、大瀧さんがずっと照れ隠ししていた「胸キュン・ポップス」を今こそ作ろうよ、大瀧君ならば作れるよと道筋を示し、レコード制作にかかる費用や諸々の雑務指揮を一手に引き受けて、アーティストやミュージシャンが音楽制作に専念できる環境を提供することで生み出されました。対してダブル・オーレコードでは重役の権限でスタッフの頭数こそ揃えられたものの、胆力を持ってサポートするところまでいかなかったのでしょう。大瀧さんはとりわけビジネス面のお話を敬遠するタイプだったと伝えられています。山下達郎さんなど近くで見ていた人は”反面教師”としているようです。だからこそただお金と人を出すだけでなく、心理面まで含めてサポートして、適当な作詞家がなかなか見つからないなど壁に当たったら採算を考えるよりも先に動いてあげる姿勢が欲しかったところです。ナイアガラレーベルには立派なロゴマークがありますが、Yoo-Looレーベルは普通のゴシック体で記されていました。このあたりにも「お金はあまり出さないが口は出したい」姿勢が見え隠れすると言えば失礼にあたるでしょうか。

 

 

 

川原さんはそのままソニーに残って定年を迎えました。渡辺満里奈さんは長らく、おニャン子クラブ出身ということをあまり取り沙汰してほしくないという姿勢を取っていて、幾度か行われた再結成企画にも一切参加しなかったと伝えられていますが、2017年にデビュー30周年記念アルバムを出しました。それも含めて自分の人生と思う余裕ができたのでしょう。「ダンスが終わる前に」はその記念アルバムでも選曲されていて、思い出深い作品のひとつなのでしょう。今でも歌うための声が出せるようならば、杉真理さんが書いた3曲を加えた「Complete Ring-a-Bell」を発表するのも一案でしょう。今は配信もサブスクもありますし。

 

 

<参考資料>

雑誌「ミュージック・マガジン」1995年6月号(ミュージック・マガジン社)

書籍「ジョージ・マーティンになりたくて」(川原伸司・著、シンコーミュージックエンタテインメント、2022年)

書籍「All About Niagara」(大瀧詠一・著、白夜書房、2001年)

書籍「アイドル・ポップス80-90」(松坂・ジャズ批評社、1991年)

CDライナーノーツ「大瀧詠一」(ダブル・オーレコード、1996年)

同「SNOW TIME」(ソニーレコード、1996年)

同「Mr.Melody」(ソニーレコード、2022年)

Webサイト「文化放送 番組レポ 2022年1月26日

同「Yahooニュース 2017年9月29日

ブログ「Nearest Faraway Place 2020年12月 Oo(ダブル・オー)時代の到来」