まばらに生える松の間を歩いてしばらくすると、広い浜辺に出る。夏でも薄暗く見えるような濃い藍色の海を前に腰を下ろし、日がな一日ぼんやりと眺めながら過ごす。
腹が減れば、竹の皮で包んだ握り飯をひとつ取り出して食べ、ゆっくりと咀嚼した。
塩をまぶしてはいないただのそれは、潮風を浴びていると少し口のなかでしょっぱい味がする気がする。
ザパンザパンという波の音を聴きながら、私は待っていた。
会えるかもわからない相手を待っていた。
どうしても伝えたい言葉を抱えて、
もう何十年も………
「今日も……来なかったか」
変わりばえのしない風景に向かってため息とともにこぼし、バキバキと関節を鳴らして立ち上がる。子どもであった時分からすっかり白髪頭の老人となり、身体は思うように動かない。
それでも、この肉体が終わりを迎えるときまで続けようと、早朝からあばら屋のような我が家を出て、夕暮れまでこの海に座り続けた。
心配する家族もいない。友もみんな先に旅立った。だから、好きなようにしていて咎められることはない。
「まさか、こんな……! ああああ」
さて、今日も収穫はなしだと帰路に着こうと踵を返しかけたとき、遠くから打ちひしがれるような嘆きが聞こえて来た。
声色からして、まだ若い男のようだった。
目を細めながら近づく。逆光で姿がよくわからなかったのだ。
「もし。何か困りごとでも? 私で力になれることがあるならば、言って……」
そこまで声をかけて立ち止まった。あまりの驚きに、言葉に詰まる。
私は、彼に見覚えがあった。
「ああ、おじいさん! 信じてもらえないでしょうが、僕はつい先日、数日ばかり留守にしていたら、家族も知り合いもみんな死んでしまっていなくなったと言うのです。僕の家もどこにもなく……」
遠い記憶の彼方、数十年前と一寸違わぬ姿のこの若者に。
「あなたは……浦島太郎、さん、ですか」
「そうです! 僕をご存知なのですか!」
信じられない気持ちで名前を訊ねると、若者は目を見開いて私の手を握り、ぶんぶんと首を縦に振った。
何故、歳を取っていないのか。彼が本当に浦島太郎であるはずならば、当時、私よりも上であったはずだ。
「では、では……あなたを連れて消えた亀も?」
「僕が竜宮城に行ったことまで知っているなんて! ああ、よかった。僕を知っている人がいてくれて……ええ、いますよ。亀くんは、またここまで連れてきてくれましたから」
懸命に口を動かして確認をすると、若者は、嬉しそうに涙して、海に向かって口笛を吹いた。こうすればまた来てくれるという合図だと言って。
私は、何ということだと、今にも倒れてしまいそうになる。
すると、パシャリと音を立てて、大きな亀が海から上がってきた。
「浦島さん。やはり竜宮城に帰りますか? それとも、乙姫さまからの玉手箱を使いますか?」
亀は口をきいて、よくわからないことを話している。だが、それどころではなかった。
私は--
「あなたは……昔、浦島太郎さんに助けられた亀?」
「え? あ、ええ。確かに私は、ついこの間、ここで子どもたちにいじめられていたところを彼に助けられた亀です。あなたは?」
首をにょきっと甲羅から出して曲げ、ようやく私のほうを見て、そして頷いた。
「私は……私はその、あなたをいじめた子どもです」
えっ! と、浦島太郎と亀は同時に驚嘆した。
「あなたに謝りたくて、ずっとこの浜辺で待っていました。すっかり形も変わり果てて、昔の面影もありませんが、本当です。本当なのです。あなたを棒切れで突いたり、石を投げたり、ひっくり返したりした、あの……」
そこまで言い、私は両手を砂について頭を垂れた。済まないことをしました、と何度も繰り返して。いつの間にか日は暮れて、暗い夜の空に移り変わっている。
目元を咄嗟に手で覆い、嗚咽が漏れそうになるのを呑み込んだ。
「何故、あんなことをしたのか……悔やんでも悔やみきれなかった。何故、一言やめようと言う勇気を出せなかったのか。考えれば考えるほど、自分が許せなく、情けなかった。謝ってすむことじゃない……だが、ごめんなさい……」
まるで幼子に戻ったかのように、ごめんなさいと溢れ出る。
同じことをした他の友がやがてその出来事を忘れていき、大人になっても、やがて皆が所帯を構えても、私は心につかえたまま痛みが取れず、謝らなくては前に進めないと、頑なに海に通った。
親兄弟が他界し、一人ぼっちになっても、詫びるまで死ねないと思った。
朝起きてひとつ握り飯を作り、身体に鞭打つようにして歩いた。
今日こそは、今日こそはと。
「謝るためだけに、僕を?」
「はい。なんなら、同じように石をぶつけてもいい。棒で突いても構いません。そうしてもらわなければ、私は」
私の懺悔を黙って聞いていた亀は、のっそりのっそりと、腹這いをするように近づいて来た。
「もうそんなに自分を責めて泣かないで」
そして、私の膝にパタ、と手を当てる。
ほんの少しの水気と砂がついた。
「いけないことをしたとわかってくれたなら、良いです。謝ってくれたんだから、もう良いんです。あなたの大切な人生を費やしてまで、待っていてくれたのでしょう」
そっと笑って、亀は浦島さんに顔を向けると、彼もまた笑って首を縦に揺らした。
「だが、私はあなたにしてはならないことを……!」
「してはならないことだと気づいたのだから、もう怒る必要も、悲しむこともないと、僕も思いますよ」
「浦島さん……」
浦島さんはかつて、数人の子どもと共にこの亀を寄ってたかっていじめているところを叱り、亀の背中にまたがって海のなかへ消えたのだ。岩場から覗き見て、私は幻でも見たのかと信じられなかった。
いつか、帰ってきてくれることがあるかもしれない、その時は亀に謝り、彼に礼を言わなくてはと心に決めて、その日からずっとここで待ったのだ。
「ありがとう……これでようやく、私の時が進みます。前を向ける。こんな爺になってしまったが、あの時からずっと、何かが止まっていたのです」
あと、残り僅かかもしれない。どれほど猶予が与えられているかわからないが、自分の人生をこれでやっと悔いなく生きられると思うと、目の前の視界が晴れていくようだった。
「それなら……僕も、自分の時を受け入れよう。あなたを見ていたら、悪くないような気がしてきました」
すると浦島さんは、懐の藁の袋から、つややかな黒い箱を取り出した。
「亀くん。乙姫さまに、玉手箱を使わせて頂きます、と伝えてくれ」
「……はい。確かに」
何を言っているのかチンプンカンプンだった。
そして黒い箱の真ん中で結ばれていた赤と金の紐を解き、静かに蓋を開けた。
すると---
「そんな……!」
もくもくと白い煙が箱の中から飛び出して、浦島さんを包み込んだかと思えば、一瞬にして青年から年寄りの姿に変わってしまっている。
「……僕が、亀くんに連れられて、海の底にある夢のような世界で過ごしていたのはたった数日。それは地上における数十年だと言われました。まさかと思えばその通り、知り合いはもう誰一人いなかった。この玉手箱を使って時を進めるも、また若い人生を続けるも自由だと」
シワだらけになった手をしげしげと眺め、浦島さんは、張りのなくなった声でゆったりと語る。
「そんな……浦島さんは、何も悪いことはしていないのに。若いままいられるのに何故わざわざ」
「あなたが、亀くんに謝る姿を見て……これから前を向いて生きると言う強い心に、今の自分を受け入れてみたくなった。僕は独りじゃないと。人生を謳歌するのに、やり直すのに、遅すぎることはないですね」
これは罰ではない、間違いなく海からの贈り物です、と浦島さんは断言した。
亀は、あなたがいてくれて良かった、と、私に言ってくれた。
「これから、語り継いでください。弱い者いじめをしたらいけないよ。それから、困っている亀がいたら助けてあげると、絵にも描けない美しい海の城へ連れて行ってもらえるかもしれないよ、って」
謝ってくれてありがとう……そう言い残して、また海の底へ帰って行った。
言葉を話す亀と会えたのは、これが最後。竜宮城とやらが本当にあるかどうかは、私にはわからない。
だが、友人となった浦島太郎が楽しげに教えてくれる、鯛やヒラメの舞い踊り、見たこともないごちそうの数々、天女のようだったと称する乙姫さまとの想い出は、不思議と私の胸に刻まれている。
これは、かわいそうな亀を助けた心優しい勇気ある青年と、その亀をいじめたことを悔いて生涯のほとんどを浜辺で過ごした少年の、むかしむかしのお話だ。
【名もなき私の玉手箱】
いじめた亀に謝りたい…
そう後悔しながら歳を取ったおじいさんが見えました。
実際の浦島太郎の話では、
タイムラグは数百年単位でしたが
自分から玉手箱を開けたいと
彼がさわやかに決断するのを見て
数十年に変更しています。
いじめられたほうはいつまでも苦しみ、
いじめた人は忘れてしまう
それが世の常のように言われていて
あの時はごめんと謝ってもらえることは
滅多にないと思ってきました。
でも、もしかしたらこんなふうに
自分の過ちを忘れられずに
謝る勇気が出ずにいる人も
中にはいるかもしれません。
おじいさんの「ごめんなさい」を通して
辛い経験をした方の痛みが
少しでも消えてくれたらと願います。
そんな魔法がかかっていますように。
最後までお読みくださりありがとうございました!