そこには、名家と呼び声高い、たいそう立派なお屋敷がありました。家主は鎌倉時代から続く、先祖代々呉服商を営んで来た店も構えていましたが、そんな栄華を極めていたのは今から2代前までのこと。
「あんなに繁盛していたのに、見る影もないわねえ……」
「一人娘はまだ小さいだろう、かわいそうに」
「あの店、金子のない人間相手には掌を返したような態度だ。いいざまだと思うがね」
「主人は婿入りしたから立場もあるんだかないんだか。甲斐性がなくて、いつも幽霊みたいな顔色さ」
今ではこんな、くちさがない言葉がヒソヒソと街中で交わされるようになっていました。
商売は傾き客足は途絶え、多くの奉公人を抱えていた当時がまるで嘘のように、今は借金の返済もままなりません。
「ここは子どもの遊び場じゃないの、あっちに行っていなさい!」
ピシャリとお母さんに叱られ、縁側で鞠つきをやめた少女。この子がその、この呉服商の一人娘である【結】でした。
家財道具を差押えられ、あとはもう家屋を売るしかない、そんな事態なのです。
「ごめんなさい、お母さん」
庭にいた結は鞠を手に抱えて、縁側を歩き屋敷の裏に向かいます。
そこは、日の当たらない寒い場所でした。聳え立つように大きな、灰色がかった蔵がある場所。4歳の少女にとってはまるでお化け屋敷のようです。
カタカタと入り口から物音がして、いつもならば近寄らない扉に手をかけました。
キイ……と、さびれた音をたてて、そっと中に入ると、真っ暗で、埃が積もった大量の書物や食器などが、木の棚に置かれています。
少し身体を震わせながら進むと、欠けた壺や花瓶がある床の間に、何かを見つけて足が止まりました。
「何だろう……箱? お家かな……?」
埃を払って持ち上げると、その小さな箱のような何かは古い木で出来ているのがわかりました。ところどころカビが生えて、腐った屋根のようなものもついています。
振ってみると、カラカラとまた音がしました。
「何か入っているのかしら……あれ?」
胸に抱えて外に出ると、庭の片隅にある柿の木の側に、黒い子犬が背を向けて丸まっているのに気がつきました。
「ワンちゃん、どこから入って来たの?」
結は怖がらせないようにそっと近づきますが、子犬はこちらを見ようともしません。それどころか、身体をブルブルを震わせています。
よく見ると子犬は傷だらけで、ドブのような臭いがします。周りをハエが飛び、体毛も汚れて固まっていました。
「どうしよう……これじゃあ、洗ってあげられないし、お薬も塗ってあげられないわ」
何度呼びかけてもとりつく島がなく、困り果ててしまいました。
「そうだ! 待っていてね」
名案を思いつき、結は木の箱を持ったまま屋敷の勝手口に走ります。
「はい、どうぞ」
そして、水と食べ物を入れた容器を子犬の前に差し出しました。餌をあげれば少しは心を許してくれるのではないかと思ったからです。
見ていると食べづらいだろうとその場を去り、あの子犬が口をつけてくれることを祈りました。
「でもね、全然食べてくれないの」
「そうかい……」
あれから二日経ちましたが、子犬は最初と同じ状態のまま、震えてクンクンと鳴くばかりで、餌にも水にも一切変化がありません。
お父さんにもお母さんにも、一緒に暮らしているおばあちゃんにも打ち明けられず、結は近所で仲良しのじっちゃんに相談に来ていました。
「それはどんな子犬なんだい?」
「ええとね、黒いわ。耳としっぽが大きくて、身体中が傷だらけで、血が出てるの……このままだと死んじゃうかもしれない」
「……顔は見られないんだね」
「うん。怖がって見せてくれないわ。それからね、これもどうしたらいいかわからなくて」
何かを考えこんだ様子のじっちゃんは、お茶をひとくち口に含んで黙ってしまいました。
結は、思い出したように、手元の風呂敷包みを開けました。
「お前さん……! 一体どこで?」
じっちゃんは目を見開いて驚いているようです。
「お家の奥にある蔵よ」
入ってはいけないときつく言われていたけれど、何故か気になって入ってしまい見つけた、と結は素直に話しました。
「私ね、これも綺麗にしたいんだ。だけどやり方がわからなくて……」
「そうか……そうか。お前さんはそう思ったのか」
手伝ってくれる? とお願いすると、じっちゃんはゆっくりと頷いて、出来るだけ元に戻そう、と言ってくれました。
「ありがとう!」
それから結は、こっそりとじっちゃんの家に通い、木の箱のような家を直していきました。
柿の木の前にいる子犬への餌やりも忘れずにしてから、毎日欠かさずに。
「今日は汚れを取ろう。米のとぎ汁を残しておいたから、そっと拭くんだよ」
「わかったわ」
黒ずんだ屋根を、手拭いで静かに拭くと、くすんだ金色の板のような部分が出て来ました。
何度も何度も、米のとぎ汁が濁り灰色に変わるまで拭きました。
「乾かして、明日また見てみよう」
「うん!」
最初に比べると、本来の木の色が見えてきたような気がします。
すると--
「じっちゃん! ワンちゃんがお水を飲んでくれたみたい!」
「そうかい、良かったな」
嬉しいことは重なるものなのか、器のなかの水が減っていました。
「じゃあ今日も、頑張って汚れを拭こう」
心なしか、昨日よりも綺麗に見えます。
俄然やる気が出て、結は元気に頷いて手拭いを浸しました。
「じっちゃん! 今度は餌を食べてくれたわ」
翌日は、なんとご飯が入った器の中身が減っていました。少しずつ子犬は警戒心を解いてくれているのかもしれません。
「じゃあ今日は、腐った部分を取り除いて直そうか」
じっちゃんも喜んでくれて、どこからか用意してくれた新しい木片を手に見せてくれました。
それからというもの、結には嬉しいことが続きました。
木の箱のお掃除と修復も順調に進み、子犬も少しずつですが結のほうを向いてくれるようになったのです。
あとは、お風呂に入れ、身体の傷を手当てさせてくれたら良いのですが……
「まだだめかぁ……痛いから嫌なのかな」
柿の木から距離をとって呼びかけるのは、もはや習慣になっていました。
餌や水は口にしてくれますが、やはり身体に触れさせてはくれません。
ため息をついていると、
「何が嫌なんだい?」
お父さんでした。お店の法被を羽織り、結の後ろで不思議そうに首を傾げています。
「お父さん……! あのね、えっと、えっとね」
とうとうバレてしまいました。せめて、元気になってから、飼い主を見つけてからにして欲しかったのに。
「ワンちゃんが……怪我をしていて」
「ワンちゃん? 犬を拾って来たのかい?」
いつもはあまり喋らないお父さんは、怒る様子もなく訊ねて来ました。ひとまずホッとして、首を横に振り、いつのまにか庭にいたことを話しました。
「黙っていてごめんなさい。かわいそうで、追い出せなかったの」
その時、玄関のほうからお父さんを呼ぶ声がさしました。
「お母さんには内緒にしておくよ」
お父さんは結の頭を撫で、足早に去って行きました。
そして……
「じっちゃん! ワンちゃんは、黒い毛じゃなかったの!」
息せききってじっちゃんの家にいくと、じっちゃんは驚きもせず、そうかそうかと笑っています。
そして、これも綺麗になったよ、と、木の箱を差し出しました。
「自分で身体を舐めたのかしら、それとも川に入ったのかな……朝見たらね、身体が」
「白かったのだろう?」
「そう! すごいじっちゃん、どうしてわかったの?」
じっちゃんは木の箱を結に渡して、子犬に会わせてもらえないか、と言いました。
結は、お母さんに叱られてしまうかもしれないし、子犬が逃げてしまうかもしれない、と少しだけ心配になりましたが、じっちゃんならば大丈夫だと、了承しました。
「結、その前にひとつ教えておきたいことがあるんだよ」
手を繋いで屋敷に戻ろうとする結に、じっちゃんは立ち止まって静かに口を開きました。
「じっちゃん、こっちよ、こっち! あれ……?」
結がじっちゃんと縁側に帰ってくると、庭では慌ただしく人が行き来していました。
蔵のある方角から、荷物が運び出されています。
「だめ!! やめてっ」
「結! 危ない!」
なんと、柿の木に今にも斧を入れようと構えている見知らぬ人がいます。結は飛び出して止めに入り、じっちゃんは青い顔をして後を追いかけました。
「だめよ、この木を切ったらあの子がいなくなっちゃう!」
「何をしているの、結! やめなさい!」
騒ぎを聞きつけてお母さんが走って来ました。だめ、切らないでと必死になっている結を、斧を持つ男の人からお母さんは引き剥がします。
「お母さん、お願い! あの子が」
「あの子って何のこと? 何か飼っていたの? あれほど生き物は駄目だと言っていたのに!」
「元気になるまででいいから、お願い! 怪我をしたワンちゃんが」
「犬ですって! 一体どこに」
結は泣きじゃくり、お母さんに頼みました。お母さんは目を吊り上げて怒っています。
「だからこの木の下に」
「いないじゃない、またこの子は嘘までついて」
お母さんには見えないの? 柿の木の下で震えている子犬が……
結は信じられない気持ちで、確かにいる木の根本を、そしてお母さんの顔を交互に見つめました。
「嘘などついておらんよ。だが、犬じゃない、お狐さまだ」
水を打ったように辺りが静まり返りました。
「じっちゃん……」
「わしにも見えないが、この子には見えとる。確かにおられるんだ。信じられないだろうがね。このお社をお返しに伺った」
そしてじっちゃんは、小さな家のような木の箱を、藍色の布のなかから出しました。
「あなたは……」
「わしも最初は耳を疑ったよ。だが、傷だらけで臭う身体と、長くて大きな耳と尾を持つ犬が、このお社を元に戻すたびに変わっていくと言う。この子の話は真のことだ」
疑いの眼差しで睨むお母さんに、じっちゃんは続けます。
「狐ですって……なんて恐ろしい! あなたが結をそそのかしたのね? 狐が取り憑いているだなんてとんでもないわ。ああ、だからうちはこんな目に遭ったの?!」
「違うよ、お母さん、違う……」
顔を両手で覆い、青い顔をして叫ぶお母さんに、結は懸命に言い募ります。ですが、ちっとも声が届きません。
「呪われているのよ! お祓いをしてもらわなきゃ、妖怪がいるなら今すぐに……!」
「お母さん聞いて!!」
そして、お腹の底から声を出して止め、結は通せんぼをするように両手両足を広げました。
「結……?」
「じっちゃんが言ってた。お狐さまも、蛇さまも、神さまはみんな怖くないんだって」
『結。ひとつだけ教えておきたいことがある。きっと、お前さんの家にいる子犬は、お狐さまだ。このお社の主のな』
『お狐さま……?』
『そうだ。お前さんの家を守り続けてくださっている、狐の神さまだろう。だが、怪我をして、身体も汚れていた。それは、お狐さまのことを忘れてしまったからだ』
『忘れてしまうと怪我をしちゃうの?』
『みんなそうだよ。トンボだろうが蛙だろうが、連れて来たまま忘れてしまえば食べるものがなくなる。身体を綺麗にすることも出来なくなる。それと同じだ。神さまは、願えば助けようと動いてくださる。だが、いつのまにか助けられたことを忘れ、頂いたものまで蔑ろにしたらどうなると思う?』
「忘れられてしまった神さまは、行き場所がなくなって、帰ることもできなくて、弱っていくしかないって……悪い、何かに、入り込まれたら、優しい、気持ちも、なくしてしまうんだ、って」
結は、柿の木の下にいる小さな小さな子犬……いえ、お狐さまを見てしゃくりあげました。
「人間は、神さまに軽々しく頼り、忘れてしまう。そして、むやみやたらにお狐さまを怖がる。蛇さまもそうじゃ。もちろん全ての人間がそうだとは思わん。だがな、お狐さまも蛇さまも、ただ約束を守ってほしいだけなんだよ」
泣きじゃくる結の頭を静かに撫で、じっちゃんは柿の木のほうを見つめました。
「じっちゃん、針千本を飲むのは、約束を破られた神さまなんだね……」
「そうじゃ。神さまは人間を好いて、愛してくださっている。最後まで共に在りたいと、この先も、孫子の代まで幸多かれと」
その時でした。
「わ、私にも……見えます。薄らとですが……」
「あなた?」
「お父さん……」
黙って口を挟まずにいたお父さんが、声をかすかに震わせて一本歩み出ました。
「この家に来てから、鳴き声が聞こえていました。とても悲しく、寂しくなるような声でした。だけど、空耳かと……結が、柿の木に犬がいると言い出してからは、ぼんやりと白い煙のようなものが見えて……」
「何を言っているのです。あなたは黙っていてくださいな! 祟り神だなんて一大事なのよ!」
カラカラカラ、と、じっちゃんが抱えるお社からひとりでに音がしました。
そして正面の扉からポトリと何かが落ちていきます。
「当家の守り神……稲荷大神さまに、子々孫々まで感謝を忘るるべからず……今日の繁栄は全ておかげさまである」
お母さんが拾い読み上げたのは、古ぼけた巻物でした。
「狐さんが……こっちを見て立った……じっちゃん、じっちゃん!」
「そうか、振り向いてくだされたか」
結は興奮をして柿の木を指差しています。周りの大人たちは首を傾げていますが、お父さんと、そして、お母さんだけは、口を開けたまま目を逸らしていません。
「じっちゃん、狐さんの身体が大きくなって……なんだか人間みたい。金色のお花が刺繍してある紫の着物を着てるよ」
薄汚れ、怪我をして、ドブ川の臭いがした子犬のような狐。お社を磨くたびに元の姿を取り戻していくようでしたが、今、白銀に輝く煙に包まれて、そこには仕立ての良い着物を着た男性が立っています。
「紫?」
お母さんが反応をしました。
『私の名は、ムスビ』
「むすび……? 私と同じ名前! それからお母さんと、おばあちゃんとも同じ」
結の言葉を聞いて、お母さんは頑なな顔つきを緩めて、そしてお父さんと目を合わせています。
「我が家は代々、女の子が生まれたら、むすびと名づけるように伝えられて来たわ。だから、私たちは【結】。床に伏せっている母も、私も、この子も」
「ちゃんと、ご先祖さまは恩を忘れないようにしてくださっていたんだ」
今にも倒れてしまいそうなお母さんの肩を支えて、お父さんは泣いています。
「どうしますか。このお社を、稲荷神さまと共に返しますか? そうであるならば、わしが引き受けよう。もしも残すならば、二度とこのようなことが起こらないよう責任を持たなくてはいかん」
じっちゃんは厳しい表情と声色で言いました。結が見たこともないような、別人のようなじっちゃんです。
「あなたは、神主さまですね?」
「いかにも。あなた方がお迎えになられた神さまの記録も残っています。わしがもっと早くに気づくべきでした。人間はちいとばかり挫折をしてもどうにかなるが、神さまはそうはいかない。誓いを破ることも出来ず、穢れていく。そうなれば取り返しがつきません」
お父さんの問いかけに答え、申し訳ございませんでした、とじっちゃんは柿の木に向かって頭を下げました。
結が遊びに行っていたじっちゃんのお家は、大きな鐘がぶら下がり、丸い鏡がある不思議な場所でした。歌やシャンシャンという鈴の音を聴くのが大好きだったのです。
『結、感謝している。ありがとう。私を闇から救ってくれたのはそなただ。私はそなたのために生き、尽くそう。如何様にも好きに決めなさい』
「ムスビさん……」
結が近づくと、稲荷神は男性の姿から、白く光る大きな狐の姿に戻り、結にそっと頰をすり寄せました。
「お父さん、お母さん、私、一生懸命神さまを大切にする。神さまのお家も守っていくわ。だから……だから」
「そうだね。そうさせていただこう。お父さんも一生懸命大切にするから」
お父さんは、結の手を握り、稲荷神に向かって頭を下げます。
「私も【結】だったことをどうして忘れてしまっていたのかしら……母さんが、私たちは縁を結ぶ子として生まれてきたと教えてくれていたのに」
お母さんは、迷いなく歩き、稲荷神の前に膝をついて、ごめんなさい、と謝りました。
お母さんにも姿が見えているのかもしれません。
「それでは、こちらをお返しいたしますよ」
そしてじっちゃんは嬉しそうに微笑み、お父さんにお社を渡して柿の木に一礼をすると、結にまた遊びにおいで、と言い、帰って行きました。
それからどうなったかと言いますと、まず、長い間病気で寝ていたおばあちゃんが起き上がれるようになり、屋敷を手放しました。
呉服屋も閉めましたが、小さな家を借りて、再出発をはかり、お父さんが切り盛りをし、お母さんが笑顔で働くようになりました。
あのお社は、ささやかな神棚を作って置かれ、お揚げさんや卵やお酒を供えて、みんなで手を合わせています。
やがて結の代になり、また娘が生まれ、その子は【結】と名づけられました。
これは江戸時代中期のお話。今なお続くこの家の繁栄を見れば、神さまとの約束は守られていたということなのでしょう。
『ありがとうございます、お稲荷さま。あなたに助けていただいたご恩をお返し出来るように、私にややが…娘が生まれたら、むすびと名をつけましょう。この着物はその証です。お稲荷さまのおかげで、誇りを共に縫い上げて献上出来ました』
十六枚の菊の花びらが金色に輝く美しい刺繍。深い紫の着物は、今も、どこかに……
おしまい。
【針千本を飲んだのは】
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました!