宮本浩次 日本全国縦横無尽 @群馬 | ラフラフ日記

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宮本浩次 TOUR 2021-2022 日本全国縦横無尽
2022年1月30日(日) 高崎芸術劇場 大劇場




2020年に全公演中止になったはじめてのツアー(になるはずだった)「宮本、独歩。」から約 2年、やっと、やっと観ることができた宮本浩次のソロコンサート。

一言で言えば、「衝撃」だった。

まず、はじまる前に気付いたのだが、エレカシのライブほど緊張していない自分がいた。いつもエレカシのライブだと緊張して、ライブを観に来て緊張するなんてエレカシとあゆくらいだよと友達に話したことがあるが、この日はあまり緊張していなかった気がする。まぁそれは会場の雰囲気とか体調とかそういうことも関係してたと思うけど。

そして、はじまって、エレカシとあまりに違うことに衝撃を受けたというか。え、これでいいの? エレカシじゃないけど、これでいいの?というような、疑問なのか違和感なのか、ソワソワした感じがしばらくずっと続いた。それはもう最初っから。もしかしたら、それは終わりまで続いて、今も続いているかも知れない。

昨年 6月12日に行われた、1回限りのファーストソロコンサート「宮本浩次縦横無尽」を観たとき、はじめて私は宮本ソロに対して「エレカシと全然違う」と感じたけれど、それはまだまだわかってなかったんだというか、当たり前かも知れないけど、配信と生でこうも違うとは(私は「宮本浩次縦横無尽」は配信で観た)。やはり、画面越しと生ではわけが違う。
 

 

こんなにも “違う” とは。
いや、違うというか、まるで自分の身体からエレファントカシマシが切り離されていくような、目の前の宮本浩次ソロとエレファントカシマシとで引き裂かれていくような、そんな痛みを伴う体験だった。

「ソロをやる」ということがどういうことか。私はわかってなかったんだ。いや、今もわかったかどうかわからないけど、私はやっと、洗礼を受けたような気分。

手拍子が起こる。こんなことはエレカシのライブではありえなかった。
曲間もなく、次から次へと次の曲へ進んでいく。エレカシのライブでは曲と曲の間にいつも間(ま)があった。
照明に、時に歌詞まで飛び出す映像。
私は何から何まで衝撃を受けていた。

客層もエレカシのときと違うような気がした。
や、もしかしたら変わらないのかも知れないけど、観客のノリというか雰囲気が違った気がする。

そういえば、宮本が近付いてくると手を振る人が何人もいた。こんなのはエレカシのライブではまず見られない光景だった。

ただし、そういった “外側の要素” だけではなくて、“内側の要素” から違ったような気がする。

手拍子が起こる。
曲間に間(ま)がなく進んでいく。
照明に映像。

考えてみれば、そういうライブは私は何度も観ている。例えば、浜崎あゆみとか。

手拍子だって照明だって映像だって、衝撃を受けるようなことじゃない。いつも観ている、よくある “普通のライブ” じゃないか。

先の「宮本浩次縦横無尽」を生で観たエレカシファンが「宮本浩次が普通の歌手になってしまった」と泣いた…というのをネットで見かけた。相当なショックだったらしく、ライブ後しばらく外で泣いたという。別のバンドのファンで、そのバンドもソロ活動とかいろいろあったから気持ちがわかるという友達になだめられて、やっと帰路につけたのだとか。

ネットで見かけただけだから、それがどれほどのものだったかわからないけど、私は、何を大げさにと思っていた。
仮にそうだったとしても、そんなことをネットに書くなよと思っていた。
大体、普通の歌手って何だ? 普通の歌手に失礼じゃないか? と思っていた。

けれど、今は少し、その気持ちがわかるような気がした。

宮本浩次が普通の歌手になってしまった。

それは一体どういうことだろう。

 

エレファントカシマシじゃない宮本浩次、目の前にいるのは確かに宮本浩次なのにエレファントカシマシじゃないことが、こんなにも私を揺さぶってくるなんて。何かをえぐりとられるようだ。

それは確かに普通のライブだろう。
エレカシを知らない人が観たら、普通のライブに映るのだろうか。
エレカシが自分の身体に染みついてしまったような自分には到底わかりそうもないことだけど、私には壮絶な体験だった。
それはきっと、エレカシを知らない人にも伝わるのではないか。

人は一人だ。
どんなに愛しい人ともいつかは別れなければならない。
そんなこと頭ではわかっていても、やっぱりわかることなんてできない。
別れることなんてできない。
けれども、、、。

そんなことが胸に迫ってくる。

これでいいのか? これでいいのか?と思いながら、ライブは進んでいった。
いいのか?って、良くないとか悪いと思ってるわけではないんだ。良いも悪いもない。
エレカシじゃない、エレカシじゃないって、それだけなのだ。
それを拒絶しているわけではないし、ただただ眺めているだけというか。

しばらくそんな状態が続いていたが、私はある曲でびっくりしてしまった。

「この道の先で」

正直、アルバム『縦横無尽』を聴いたとき、なんとも思ってなかった曲だ。それはちょっと言い過ぎかも知れないけど、やっぱり、なんとも思ってなかったと思う。「なんで宮本浩次がこんなどこかにありそうなメロディを歌わなくちゃならないんだー! 思わず口ずさみたくなっちゃうじゃないか」なんて、このときは書いていたけど…。
 

 

「この道の先で」、なんかびっくりしてしまったんだよね。
そこからは私、ずっとびっくりしていたような気がする。

なんだろう、この力は。

愛?

いつかラブソングを作って(歌って)みたいと宮本は言っていた。

ラブソングなら、エレカシでだってたくさん歌って来たじゃないかって、私は思ってしまうんだけど、そうか、これは、一人にならなければ歌えなかったのかな。

例えば、私が本当に独りぼっちのとき、エレカシを聴いたら、「そんなこと言ったって、あなた(宮本)には仲間がいるじゃないか」と思ってしまうのだろうか。その壁は、エレカシである限り、どんなに切実に歌おうとも取り払われなかったのだろうか。もちろん、エレカシだから救われることもある。けれど、一人にならなければ歌えない「愛」があるのかも知れない。

宮本浩次を観ながら、すべてを受け止めてると思った。
そんなこと、今までだってそうだと思っていた。
 

他の多くのバンドと比べて、エレファントカシマシ=宮本浩次の比重はとても大きく、宮本一人がすべての責任を負っているようなもんだろうと。インタビューだってほとんど宮本一人が答えてるし、ラジオだって宮本一人で出てるし、こんなバンド他にいるんだろうか。だから、今さら宮本がソロ活動をしたって、宮本浩次が矢面に立つのは何も変わらないと。
しかし、そうではなかった。
エレカシは、宮本が引っ張っているのと同時に、宮本はエレカシに守られていたのだ。
そのことを肌で理解したような気がする。

会場の空気を、その波動を、宮本一人がすべて受け止めているのを感じた。
それは、私が受け止めているということかも知れないし、私が受け止められているということかも知れない。

今まで(エレカシ)が「俺たちここで歌ってるから、良かったら見に来て」だったのが、「私に歌いに来てる」に変わったというか。

それはつまり、「俺たちのロック」から「俺のロック」になったということか。「私のロック」でもいいかも知れない。

20年前、私はエレカシに「わたしたちのロック」を感じて夢中になった。

 

 

「わたしたちのロック」が「わたしのロック」になったということか。

普通の歌手になった?

「普通」とは、「一人」ということなのかも知れない。

化けの皮を剥がすか。

それがたとえ普通でも、ここに来てこんな挑戦をする宮本浩次に胸が掻きむしられてしまう。

私ははじめて「宮本浩次ソロ」を観ることができたんだ。

「エレファントカシマシ」という最愛にして最大のものを脱いでまで、わたしに会いに来てくれたんだ。


と同時に、「バンドを好きになる」ということはどういうことかを強く教えられた気がする。

エレカシ新春ライブのとき、ソロより先にエレカシを観ることになったのは私にとって意味のあることだったのだろうと書いた。

 

 

宮本浩次ソロを観て、その思いがより一層強くなったような気がする。

私は今、思い出を取り戻す必要があるのかも知れない。

エレカシは私にとって「青春」なんだろう。

思い出を、青春を取り戻すために。

そして、思い出に、青春にさよならするために。

エレカシに守られていたのは、宮本だけじゃなく、私もそうだったのかも知れない。

 

(宮本浩次ツアー日本全国縦横無尽はもう一回行く。そのときはどんなことを感じるだろう)

 

******

 

そしてこれは直接は関係ないのだけど、たまたま読んだこのインタビューで。

 

 
最後に、守りたいのは魂で、その魂を具現化すると「ランドセルを背負った小さい女の子」とあった。

それは要するに自分であり、最終的に誰を笑わしてやるかというと、自分だと。

 

宮本浩次もそうなんじゃないかと。

宮本浩次の中の「ランドセルを背負った小さい男の子」のために今、歌う必要があったんじゃないかと。

そしてそれは私もそうなんじゃないかと。

私の中の「ランドセルを背負った小さい女の子」のために私は生きているのか?と。

 

そして、もう一つ。

 

「誰かの所為にしたくない わたしの未来を」と宮本浩次は歌い、「愛しい人よ 誰のせいにもしないで」と浜崎あゆみは歌う。ちなみに、椎名林檎は「誰かの所為にしたい」と歌っていたな。

 

昔、浜崎あゆみのことを「自分の痛みを他人事のように歌った」と表した人がいた(自分の痛みを自分のものとして歌ったのが Cocco、他人の痛みを自分の事のように歌ったのが中島みゆきとも)。そういうことで言えば、「愛しい人よ 誰のせいにもしないで」も、浜崎あゆみは自分に歌っているんだなと思った。