(最終更新日:2024年3月10日)

 

海外営業とは言うけれど

卒業旅行を終えた私は4月から社会人になるということですっかり現実に引き戻されました。これから長いサラリーマン人生が始まるのだと。。中南米の思い出②で述べた通り、大学を卒業して就職した会社では希望が叶い海外取引だけを行う営業部門に配属されたのですが、実態は思い描いていた海外営業とは少々異なりました。というのは私が配属された部門は確かに事前説明の通り海外取引のみを行っていたのですが、その売上構成は85%が韓国向けで15%がその他という状況で、実質的には韓国担当部門だったからです。

 

出張先の韓国・釜山にて撮影(2006年8月)。

 

当時は韓国メーカーのS社が破竹の勢いで業績を拡大しており、私が配属された部門はその勢いに乗って同社への半導体や電子デバイスの販売を伸ばしているところだったので、毎年新人は韓国担当部署に配属されました。私は当時も今も韓国に対して特に悪い感情は持っていませんが、海外営業として世界を相手に仕事をしたい!と意気込んで入ってきた若者としては韓国担当は物足りなく、実際に飛行機で1時間半程度で行けて街の景観も日本と似ており、現地スタッフや顧客の多くが日本語を話すという環境では海外で仕事をしているという高揚感はありませんでした。

 

韓国・ソウル出張にて撮影(2006年5月)。

 

歳が近い先輩からは『君も100%海外取引という言葉に騙されたか』と言われましたが、実は内定者向けの部門紹介の資料は毎年入社1年目の社員が作っており、代々100%海外取引という謳い文句で新人を釣ることをしていたのでした(私も同じことをして伝統を守りました)。

 

私の担当業務はS社とそのグループ会社向けの半導体製品の営業で、韓国のソウル・釜山には毎月出張しました。韓国への出張は恒常的な納期問題への対応や激しい飲み会というキツい面はあったものの、現地法人の韓国人スタッフの方々には本当によく面倒を見て頂き、また食事が美味しい等楽しいこともありました。しかしやはり上記のような理由で年々物足りなさが溜まっていきました。

 

ソウル・仁川空港(2008年1月)。韓国への出張は羽田-金浦が多かったが、たまに成田-仁川もあった。

 

同じ営業本部内には売上は小さいながら韓国以外の地域を担当する部門もあって、その中にはブラジル担当部署もあったので、一縷の希望を持って英語とポルトガル語を継続的に勉強し、異動希望を出し続けました。しかし韓国向けの売上比率は高まる一方で異動できる可能性は低く、また異動を諦めた先輩方がどんどん辞めていくこともあり、入社3年目の後半には私も転職を考えるようになりました。