先日イエスキリストの話を読みました。

 

人間の潜在性を開花させる為に、この世に稀に出現する人物と、そう言った事を非現実な物として信じられず、半ば内心、怖がりながらも嘲笑う群集心理(ローマ帝国と国民)と言うのは、この話の時代から既にあり、それが二千年も変わらずに継続している感じですね。

 

この構図は人間の性なので変わらないでしょう。

 

並々ならぬ素直さや希望と言うのは日常の人間には理解できず、その為にギャグにしてしまったり疑惑の念を抱いてしまう。

 

これは良く無い事なのですが、決して悪いと言う事ではなく、前述した様に人間の性だからであり、それゆえ人間は後に苦しむ訳ですが、やがて救世主が訪れてそれを信じた者は救われる様に宇宙は出来ているのだろうと思います。

 

なぜ現代人が冷やかなのかは命が失われる確率が圧倒的に減ったからです。

 

そう言った意味で恐怖のコロナは現代人に何らかのメッセージを送っている様ですが、自らの心の力で乗り切り人は少ない様でもあります。

 

これだけ人口が多ければ物事の責任は他者にある確率が高い、と思ってしまうのでしょう。

 

それではこの世で人口が自分ただ一人で、その自分がコロナにかかった場合、つまり全て自分の責任でそうなった場合、その人はどの様な心境となり、そしてどの様な行動を起こすのでしょうか? ✝️

【一番ベストなファッションは肌・裸です。】



 

日本と比べて、良く見る外国人女性のプロフィール写真では、地味な感じはしませんが、その原因は肌の露出度でした。

腕や首が開けた薄着や水着を着ていると、性格が地味で陰気な感じではなく明るく陽気な感じがするのです。

私は水泳を始めてから、男女関わらず水着の人に遭遇する事が多くなったのですが、着替え室で先程水着だった人が普通の服姿になっていると

「あれ、この人こんなオジサンだったっけ?」と思う事が多いのです。

また若者の場合は「こんな地味で勉強ばっかしてそうな人だったっけ?」と思うのです。

つまり普段着ている洋服よりも、水着を着ていた方が人は陽気で若らしく見えます。そして例え地味な水着の場合でも、逆に色が落ち着いていて硬派なスポーツマンに見えるのです。

ただし以上は太めや痩せ型ではない標準的なスタイルの人に限ります。

つまり多くの人と言うのは、さんざん洋服にお金をかけていてもセンスが悪ければ地味や陰気に見えますが、お金をかけずにシンプルで肌の露出度の高い物を身についているだけで良く見えてしまうのです。これはお得な発見ではないでしょうか。

それはそのはずで、いくら良い物を着ていても中身ができてなければ違和感がありますし、申し訳ないのですが世の中、良い車に乗るのは比較的、経済的余裕のある年上の方が多いですが、車の中を覗いて「おじさんが乗ってる」と、どうしても思ってしまうのです。

したがって極力、裸になった時に良く見えるスタイル自体と髪の毛、顔の部分さえ気をつければ良いと思います。若い頃の吉田栄作はタンクトップとジーンズだけでイケてたと思いますが素材が良いからですね。シンプルな格好だけで格好良く見える程、優れたファッションは無いのではないでしょうか?
 

世の中には様々な考え方があると言いますが、

その考えが生まれてくるのは自分の体の調子からです。

 

「コロナ怖がりすぎ」とも言いますが、

高齢者の死亡率は上がってくるので自分の事と思うと、

それは不安とも思えるでしょう。

 

しかしネットの声と言うのは老若男女、

一体だれが投稿しているのか不明で、

自分の目線で同性同年代の物だと潜在的には考えてしまう。

 

この様なネットで議論する事に議論成立や有効性はあるのでしょうか。

 

有効性があるとすると、

そのサービスを運営する企業に広告費などの利益が行くと言う有効性のみだと思われます。

 

なので何者かが分からない投稿は基本すべてBotで投稿されたと認識すべし、

とも思われるのです。😶

 

もし私がアルバイトで採用の権限をもっていたり上司だったら

アルバイトがツイッターをやっていたらクビ、

もしくはその方向性で事を進めるでしょう。

 

バイトテロの恐れや、何が起こるか、わかりませんので。

【何なのだ?あれらの顔は?】



 

先日早い朝、自転車でスカイツリー行くまで、いつもの広い道と公園・河川敷コースではなく、普通に駅前の町を通ったら出勤の労働感が凄い訳です。とくにトラックなどの作業車の行き交いが工業的な物を感じさせ、道も狭くて進みにくい。

公園・河川敷コースは景色も同じだし人も少ないし、飽きて来たから・・・と思っていたのですが、賑やかな町ではなく、人が居るからこその労働感(無表情とマスク姿)だけが、胸にダメージ来てしまいました。目的地まで町の方が短いのに長く感じてしまいました。

スカツツリー付近に到着した途端、いつでも観光気分で、のんびり気分になりました。近辺では労働溢れるエリアの中、ほっとするスポットです。実はこの付近でしか「のんびり感」は許されないのかもしれません。

そしてこの出勤の光景・・・。本当に、その精神すり減らしの上での「生産性」はあるのだろうかと。これだけの人数が本当に8時間以上もエネルギーを注いで何かを生み出したのだろうかと。中国アメリカと比較し、どうなのだろうかと。いずれ病気になっても、それもまた医療業界の顧客として彼らを潤すだけなのではないかと。

もしかたら「ゆりかごから墓場まで」自分自分の存在から社会貢献以上の対価を搾取され続けるだけなのではないかと。

実力者が一切の手を抜かずに稼ぎすぎるが故に多くの凡人は、富少なく働かざるを得ないのではないのだろうかと。たしかに実力者が居なければ文明は発展しませんが、今、文明が発展した上での幸せを感じ取れているのだろうかと。本当は、一番の実力者は手を抜いて二番目の者に仕事を与えた方が良いのかもしれません。

「誰もが活躍する時代」を目指している割には、実力者の力が圧倒すぎる時代なのです。

そして実力者も本当に自分の力だけで功績をあげたのだろうかと。その功績に協力した沢山の無名の労働者(そう。今朝、私が見た方々の様な)に名誉と富は差し出されたのだろうかと。しかし労働者は自己の名誉を謳って富を得る事を上手い具合に禁じられているのではないかと。

実力者の作った上手いシステムに乗せられ、多くの労働者は作られた道を歩かないと生きていけません、

例えば今、実力者達のこれまでの成果が無かった事にして、文明退化し30年前と同じに戻っても何も変わらないのであり、文明発展させた上での「精神すり減らし」で幸福度は相殺されるだけではないかと。

そして医療テクノロジーが発展しても、その分、不健康な時代となれば同じです。本来健康であれば医療テクノロジーに興味さえも沸きません。むしろ医療テクノロジーが富を得る為のシステムとなり、その肥大化の為に多くの病人が必要とされ、病人が作り出される。

それにタッグを組んで協力しているのが企業なのではないかと。もしかしたら皆誰もが「サラリーマンを卒業すると病院に入学」のコースなのではないかと。

親は自分の人生しか知らず、その様な生き方しか子供に教えられない為に、次世代もまた同じ様な無表情に駅に歩くだけの人生になります。

しかし、むしろこの「労働」。
「半沢直樹」の様にドラマも存在する領域なので飽きる事なく、何気に「人生を懸命に生きている」風になります。「花の金曜日」なんてのも労働者ならではの言葉です。

だからヨーロッパ等は働かない分だけセンスが良くブランド物が良く売れます。日本の朝の様な風景で暮らす民族がブランド等、生み出せるのだろうかと。

いち早く、この「無表情」が人間の物ではなく人工知能搭載のロボットになるべきだと強く思ったのでございます。

以上、否定も肯定もしませんが、これは既に知られている世の中の姿なのです。