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◎第五十一回皇學館大学倉陵祭祭典祝詞

laphroaig-10さんのブログ(小揖)


是の高殿を厳の斎場と祓へ清めて、天津神籬刺立て招奉り坐奉る掛けまくも畏き天照坐皇大御神の大前に斎主皇學館大学教授本澤雅史恐み恐みも白さく、

常世の浪の重浪帰する伊勢の国倉田の山に聳建つ皇學館大学はしも、明治十五年四月三十日に学びの扉は開かれ、昭和十五年四月には神宮皇學館大學とも成りしが、過ぎし戦争の傷手を負ひて暫しが間学舎の門を鎖す事とは成れども、諸人等事議り往く随に、昭和三十七年四月、皇學館大学の名の下に美しき元つ姿に立還りしより以来、皇国学の道は弥進みに進み、学舎は年々に満ち足らひて、今年の四月に創立百三十周年再興五十周年を迎へて種々の行事も恙む事無く障る事無く成し終へつるは、専ら皇大御神の高き尊き恩頼に依る事となも嬉しみ忝み奉りて、年毎の例の随に、今日の生日の足日に第五十一回倉陵祭を執行ふ事とは成りぬ。

故、学長清水潔・実行委員平田峡介を始めて教職員・学生等大前に参集侍り、斎まはり清まはりて御食御酒海川山野の種々の味物を献奉りて拝み奉る状を平らけく安らけく聞食して、又奏で奉る歌舞の技をも米具し宇牟賀しと見曽奈波して、別ても今日より三日の間、皇學館を子孫の弥継々に伝ふべく「進~すすむ~」との旗印を掲げ、伊豆の男建踏建びて行巡る樽神輿を始めて、学生等が身を練り心を鍛へ、智を積みて研究めたる種々の行事をもあな面白あな楽しと諾ひ給ひて、此の祭に関係ふ諸人等に手の躓足の躓諸々の禍事無く、身は健全に事竟へしめ給ひ、教授を始めて学生等は古を稽へ今に照らして、互に睦び和みつつ相助け相あななひ、明き浄き正しき直き心を以て学の道に勤しみ務め追ひ進みて、大八洲国を修理り固め成さしめ給ひ、此学館を五十鈴の川の清き流れの弥遠永に、高天原に輝ける千木の弥高に立栄しめ給ひふべく、夜の守日の守に守り恵み幸へ給へと恐み恐みも白す。(平成二十四年十一月二日奏)


                       

◎延喜式祝詞の研究―春満・在満から真淵へ―

              

享保十三年に上京して荷田春満に入門した賀茂真淵(三十二歳)は、元文元年に春満の死後、翌年春満の末弟信名のもとに身を寄せて在満の教えを聴き、やがて延享三年、五十歳の時、在満の推挙によって田安宗武に和学御用として出仕してまもなく、主君の命を受けて『延喜式祝詞解』五巻を著した。


その後、大幅な改訂を重ねて、死去する前年の明和五年、七十二歳の時に名著『祝詞考』三巻を書き著わした。このようにして「神道第一に学ぶべき物」(明和四年十二月廿八日付斎藤信幸宛真淵書簡)として延喜式祝詞の本格的な研究が始まったとされていた。


ところが、谷省吾氏によって、その真淵の祝詞研究の出発点においてかなり強い影響を与えたのが在満著・春満合点『祝詞解 坤』(神宮文庫蔵、村井古巌奉納本・大祓詞の注解)であったことが明らかにされ(「荷田春満・荷田在満の祝詞研究と賀茂真淵」『皇学館大学紀要』第一輯、昭和三十八年三月)、また、吉野忠氏によって、土佐藩の国学者谷垣守が延享四・五年に在満から借りて書写した『延喜式和解』(高知県立図書館山内文庫蔵・式祝詞巻頭から東文忌寸部献横刀時咒までの在満の注解)が紹介されたのである(『高知大学学術研究報告』十四巻、人文科学十二号、昭和四十一年一月)。


『新編 荷田春満全集』(第二巻)には春満の日本書紀関係の著作とともに春満・在満の祝詞に関する著作が収められている。


明和五年五月十九日、真淵は弟子栗田土満宛に「祝詞を多く書給へ、神家にて祝詞をかゝては叶はぬ事也、それ即神学と成候也、又総ての文の本とも成候、」との教えを授けているが、当然のことながら、祝詞を書くためにはまず古典祝詞の正しい読解に立脚しなければならない。


その読解を初めて試みた山内文庫蔵『祝詞式和解』は、二十二歳の在満がいかに豊かな学識を持っていたのかを示すものであり、さらに東丸神社所蔵の新資料『祝詞式聞記』は祝詞研究の端緒を示すものであろう。本巻の出版によって、真淵が、


「解中先師ノ教ト云コトヲ別ニ不レ挙、不レ挙モ又既大本ノ教ヨリ出タレバ、私ニ似テ不レ私也」(『延喜式祝詞解』冒頭の「附記」)


と述べていた「大本ノ教」も明らかにされ、延喜式祝詞の研究において春満・在満から真淵へと受け継がれた太い血脈をより詳細に浮き彫りにすることができるに違いない。

◎橘曙覽の外宮参拝



越前国(福井県)生まれの歌人の橘曙覽〔たちばな の あけみ:文化9年(1812年) ~ 慶応4年(1868)〕の『榊の薫』は、伊勢の豊受大神宮(外宮)に参拝したときの文章です。そのかたじけなさに感動します。



(文久元年〔1861〕九月)

十四日。

雨ふる。朝とく外宮(とつみや)にまうづ。 

一の鳥居入りもて行。しげりたつ榊葉あさ風にうちかをる。


今滋【橘曙覽の長男】、


 みにしみてかしこかりけりむらだてる

  木間にちぎのかつ見ゆるより


ささげ奉る物、御門のかたへなり処に行てをさむ。

事とり行はせ給ふみやつこたちにしたがひて、

御門のみまへにはひ出、うなね突ぬく。

かねては、ねぎごとの限り祝詞(のりと)にものして、

心のうちに読まつらむ、と思ひわたりけれど、

此大宮にまうでまつりては、たふとさの身にやせまりけむ、

さること一言だにいひ出られず、

ひたぶるに頭地(かしらつち)につけて、

ひれふすより外にたえてわざなし、



一日だにくはであられぬ御食たまふ

 御めぐみ思へば身の毛いよだつ


『新修 橘曙覽全集』(昭和58年5月、桜楓社)203~204頁



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