◎延喜式祝詞の研究―春満・在満から真淵へ―
享保十三年に上京して荷田春満に入門した賀茂真淵(三十二歳)は、元文元年に春満の死後、翌年春満の末弟信名のもとに身を寄せて在満の教えを聴き、やがて延享三年、五十歳の時、在満の推挙によって田安宗武に和学御用として出仕してまもなく、主君の命を受けて『延喜式祝詞解』五巻を著した。
その後、大幅な改訂を重ねて、死去する前年の明和五年、七十二歳の時に名著『祝詞考』三巻を書き著わした。このようにして「神道第一に学ぶべき物」(明和四年十二月廿八日付斎藤信幸宛真淵書簡)として延喜式祝詞の本格的な研究が始まったとされていた。
ところが、谷省吾氏によって、その真淵の祝詞研究の出発点においてかなり強い影響を与えたのが在満著・春満合点『祝詞解 坤』(神宮文庫蔵、村井古巌奉納本・大祓詞の注解)であったことが明らかにされ(「荷田春満・荷田在満の祝詞研究と賀茂真淵」『皇学館大学紀要』第一輯、昭和三十八年三月)、また、吉野忠氏によって、土佐藩の国学者谷垣守が延享四・五年に在満から借りて書写した『延喜式和解』(高知県立図書館山内文庫蔵・式祝詞巻頭から東文忌寸部献横刀時咒までの在満の注解)が紹介されたのである(『高知大学学術研究報告』十四巻、人文科学十二号、昭和四十一年一月)。
『新編 荷田春満全集』(第二巻)には春満の日本書紀関係の著作とともに春満・在満の祝詞に関する著作が収められている。
明和五年五月十九日、真淵は弟子栗田土満宛に「祝詞を多く書給へ、神家にて祝詞をかゝては叶はぬ事也、それ即神学と成候也、又総ての文の本とも成候、」との教えを授けているが、当然のことながら、祝詞を書くためにはまず古典祝詞の正しい読解に立脚しなければならない。
その読解を初めて試みた山内文庫蔵『祝詞式和解』は、二十二歳の在満がいかに豊かな学識を持っていたのかを示すものであり、さらに東丸神社所蔵の新資料『祝詞式聞記』は祝詞研究の端緒を示すものであろう。本巻の出版によって、真淵が、
「解中先師ノ教ト云コトヲ別ニ不レ挙、不レ挙モ又既大本ノ教ヨリ出タレバ、私ニ似テ不レ私也」(『延喜式祝詞解』冒頭の「附記」)
と述べていた「大本ノ教」も明らかにされ、延喜式祝詞の研究において春満・在満から真淵へと受け継がれた太い血脈をより詳細に浮き彫りにすることができるに違いない。