隊長からの呼び出し
日米共同指揮所演習から戻り、管制官として業務に従事する日々が続いていました。
タワー勤務だけではありません。
移動式レーダーの展開・撤収訓練、その他特別勤務、野外訓練(冬の時期はスキー機動訓練を実施します)等、日々精力的に任務や訓練に取り組んでいました。
しかし、米軍との訓練は、心の中に大きな存在として残っていたのです。
空しくはないのですが、何かこうぽっかりと心に穴が開いたような、空虚感にも似たような思いがあったのです。
「YS(日米共同指揮所演習)面白かったなぁ。また、参加したいなぁ。」と漠然と思っていました。
「でも、次参加するときは必ず英語を話せるようになって臨みたい。」と思っていました。
そのためには、英語課程教育に参加しなければなりません。
また、YSは各方面隊持ち回りですので5年に1度しか回ってきません。
次のYSまで4年もあるのか、という想いとこの4年の間に必ず英語が話せるようにならないと、との想いが交錯していました。
前出のA1曹とタワー勤務が一緒の時(特に週末勤務が一緒の時が多かった)には、必ずと言っていいほどA1曹のゴラン高原での勤務の特性や思い出話を聞いたり、自分も将来的にはPKO(国連平和維持活動)に参加したいという気持ちをアピールしまくっていました。
また、ゴラン高原での勤務で自分が就けるような職務があるのか、というのも考えてもらっていました。
このA1曹は管制隊の先任陸曹だったため、隊長(東北方面管制気象隊長←私が所属していた部隊長)と話す機会も多く、隊長に対し人事に関する助言も行うことができるポジションにおりました。
A1曹は機を見て私のPKO参加や英語課程教育参加の対する熱意を隊長に伝えてくれていたようでした。
このような日々が2年は続きました。
自分の心の中では「ここの管制隊か、他の管制隊に転属になって自衛隊生活も終わりかぁ。」と半ば諦めかけていました。
一般の部隊は、特別な何かがない限り、毎年毎年同じことの繰り返しなのです。
4月から月1回か2回のペースで演習場にて訓練を行います。
通常の訓練は、3夜4日の訓練です。
3夜ですので3日間はほぼ寝ないで訓練に勤しみます
。寝ないで訓練をしているため最終日も演習場に宿泊、この時はしっかり寝ます。
このような訓練が10月位まで続きます。
これは、皆さん驚くかもしれませんが、実戦を想定した訓練となります。
ですから夜間も寝ずに状況を続行させて訓練します。
このような演習の他に、恒常業務として航空管制業務を毎日実施しなければなりません。
これは国土交通大臣から職権を委任されて航空法上運用が定められている飛行場ですので、演習があるため航空管制業務は休みとは出来ないのです。
従って、管制隊は、基地留守番隊と演習行ってきます隊に分かれます。
演習行ってきます隊は、寝ないで訓練をしなければならないことが予測できているため演習出発前は、モチベーションダダ下がり状態なわけです。
更に、何かしらの行事、例えば、駐屯地記念日や方面隊記念日等の行事があればその準備も滞りなく実施しなければなりませんし、実際私が参加した日韓共催ワールドカップにおける対テロ作戦のように実戦的な任務に参加しなければならない時もあります。
そして10月過ぎから格闘訓練に明け暮れる日々が始まります。
現在の自衛隊では、徒手格闘がクローズアップされていますが、私が若かった時代は銃剣道が全盛期でした。
ですから、その練成訓練を毎日行うわけです。
これが、きつかった。
今でもお腹いっぱいです。
そして冬に入る前に持続走訓練があり、大会も行われます。
そして本格的な冬が来るころにはスキー機動訓練が始まります。
その他、年中何かしらの作業が入ってきますので、それもこなしていかなければなりません。
このように書いてみると充実した一年という感じではあります。
しかし、私の心は満たされなかったのです。
私が34歳になる年でした。
スキー機動訓練も終わり来年度に向け様々な準備が進行している2月のある日、隊長に呼び出されました。
4月から仙台駐屯地で行われる陸曹基礎英語課程入校を上申したと言われたのです。
飛び上るほど嬉しかったことを今でも覚えています。
この陸曹基礎英語課程は3カ月の課程で4月から7月上旬までの教育スケジュールが組まれています。
つまり、隊長の上申が認められ、上級部隊から許可が下りますと3ヶ月の入校が決定します。
私は、人事選考の結果を心待ちにしていました。
この話をA1曹にしたところ、彼も非常に喜んでくれ、更に必ず行けるから心配しないようにと励まされたのも昨日のように思い出すことができます。
全ては、この隊長の上申から、いや、A1曹の隊長に対する人事に関する助言から大きな変化が始まったのかもしれません。
続く