管制官としての第1歩 | 熱血講師 ショーン 近藤 Leadership & Language Boot Camp

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管制官としての第1歩

航空自衛隊第5術科学校をそこそこの成績(ちょうど真ん中)で卒業した後は、一旦原隊のある八戸駐屯地に帰りました。

そこで次の転属の命令を待つわけです。

転属に関しては小牧に入校している時点で調整をし、転属先は決定された状態で卒業を迎えるわけです。

私の転属先は、陸曹教育隊の所在する仙台駐屯地の近く、同じ仙台市内にある霞目飛行場でした。

この霞目駐屯地には東北方面航空隊が駐屯しています。調整通りこの部隊に配置されることが決定しておりました。

この飛行場が管制官としての第1歩を踏み出す場所となったわけです。

ここで約1年のOJTを実施、飛行場管制官の資格を手にしたのです。

皆さん、ご存知ないと思いますので紹介したいと思いますが、この飛行場管制の資格は飛行場毎に存在しています。

この技能資格は基本は同じですが、成田は成田、羽田は羽田の飛行場管制技能資格が存在します。

それぞれの飛行場の特性がありますから十羽一絡げとはいきません。

勿論交通量も全く違います。

交通量の少ない飛行場は管制官ではなく情報官が配置されます。

情報官は航行の安全に関する情報をパイロットに伝達する業務を実施しますが、命令・指示は発出しません。

管制業務が行われる飛行場は管制業務を行う必要のある航空交通量が存在するということです。

しかし、陸上自衛隊の飛行場では回転翼機の管制が主たるものであるため、決して簡単ではありませんが、非常に難しいわけでもありません。

例えば航空交通が変化に富む三沢基地などは管制業務も圧倒的に難しいのです。

そのため私の飛行場管制技能資格は霞目飛行場限定となっており、他の飛行場で管制業務をする場合は限定変更のため一定期間訓練をし当該飛行場の飛行場管制技能試験を合格しなければなりません。

通常、この訓練期間は約3ヶ月となります。

私が霞目飛行場で管制官として勤務してしばらくたったある日、管制隊長から一つの打診がありました。

「来年度は着陸誘導管制(GCA= Ground Controlled Approach)の資格取りに航空自衛隊に行ってみるか。」というものでした。

その時、自分の心拍数が上がったのを今でも覚えています。

陸上自衛隊と航空自衛隊では航空機の数、速度、何もかも違うため複雑な離着陸方式は私を怯えさせるのに十分でしたが、一つ上のステージに行けるという興奮とこれを乗り切った時の誇りに満ち溢れた自分を想像し、酔っていた自分もいたのは確かでした。

このような陸上自衛隊と航空自衛隊の人的交流は20年来続いました。

この時私は29歳。早く次のステージに上がりたいと心勇んでました。

なぜなら、私は23歳で自衛隊に入隊したため、周りの人よりかなり昇任が遅かったのです。

「早く、周りと同じくらいの階級に昇任したい。早くより上級の技術を身につけて周りの人間に認めてもらいたい。」という焦りもありました。

当時はかなり人間関係にも悩んでいた時代でした。

自衛隊は階級社会ですから様々な矛盾を感じていたのです。

1999年の暮れ、航空自衛隊松島基地でのGCA訓練が決まったとの一報を受け取りました。

当初は、美保基地という話もありましたが、空自内での調整の結果松島基地に決定したのです。

2000年1月期待と不安を胸に松島基地に移動しました。

今でもはっきりと覚えています。

移動の最中、運転しながらずっと考えていました。

「まだ、着くな。まだ、着くな。もう少し走りたい。不安。不安。もう少し走らせて下さい。」やはり、怖かったんだと思います。

着隊後はスムーズに訓練に移行できるように環境が整えてありました。

周囲の方々も優しく接してくれ非常にありがたかったと思っています。

当初の3ヶ月は、霞目限定から松島の免許を取るための飛行場管制訓練でした。

管制塔での訓練とGCAの訓練は同時並行的に行われます。


GCAはレーダー施設内で行われる管制方式ですので一日に午前管制塔(タワー勤務)で夕方からレーダー施設での勤務といった具合で上番・下番の日々を過ごしました。

因みに松島飛行場は24時間オープンしているため24時間管制官が勤務しています。

陸自の航空機に比べ空自の航空機は速度も速く航空交通の数も多いため毎日が緊張の連続だったのを覚えています。

円滑な管制用語での指示の発出・情報の伝達、瞬時の状況判断が必要で陸自の飛行場とは緊張感の度合いがかなり違っていたと思います。

そして3月に入り、タワーの限定変更試験が近づいていた頃、航空事故が起きたのです。

ここ松島の飛行部隊は、戦闘機パイロットになるための教育飛行部隊である第4空団と救難隊です。

第4空団は、曲技飛行の専門のブルーインパルスの第11飛行隊と戦闘機パイロットを育成する第21及び第22飛行隊から編成されておりました。



当該事故機である訓練機はT-2、学生パイロットは訓練の最終段階のソロ飛行訓練を訓練空域で終了し、帰投中、女川町の山岳地帯に墜落、炎上し、学生パイロット1名が殉職したのでした。

天候は冬だったため小雪がちらついていたと記憶しています。

視程も雲高もあまり良くなかったと思います。

当日は、自分は非番でしたので当該機に関わる管制業務には従事しておりませんでしたが非常にショッキングな事故だったのは確かです。

陸自で主に取り扱う回転翼機(ヘリ)は様々な利点が有るため墜落する確率は固定翼機に比し、格段に低いため自分たちが常に任務で共にあるべき航空機が墜落したという事実は管制業務の怖さを再認識させるのには十分でした。

この事件により、航空自衛隊は事故調査委員会を設置、当面の飛行訓練は中止ということになったのです。

私にとって、この事故は非常にインパクトがあったのは事実でしたが、私の職務に対する認識・姿勢を変化させたのは違う出来事だったのです。

続く