教育訓練
青森の八戸という田舎から宮城県仙台の仙台駐屯地に所在する陸曹教育隊に入校し、その後すぐに名古屋に隣接する小牧市に所在する小牧基地・第5術科学校に入校。
相次ぐ教育訓練も都会という環境に恵まれていたので休日のことばかり考えながらそこそこ頑張ればいいだろうって感じで教育訓練に臨もうと安易に考えていました。
青森からすると仙台は東北のニューヨーク。
人口も八戸24万、仙台100万。
凄い!でも名古屋に比べれば全然人口も半分以下。名古屋は250万。
仙台に輪をかけた大都会!凄い!道路も広い!頭の中は航空管制というより名古屋探検に傾注していました。
しかし、日々教育訓練は難易度がアップ。
大変でした。最初の6ヶ月は航空無線通信士という当時郵政省が管轄している国家資格取得のため、無線工学や英語で書かれている法律の理解ができなければ合格できないものに必死で取り組んでいました。
因みにその資格の合格率は45%なんですね。
毎日毎日英語と無線工学との戦いでした。
無線工学がやばかったです。
なぜにこんなに難しいのか?死亡しかけてました。
しかし、なんとか合格したのです。
同期には不合格の者もいました。
やはり、合格率低いですよね。
ここで、結構英語勉強したんです。
法律の英語で書かれた条文を解読するためには相当勉強しないと乗り越えれませんでした。
ここでちょっと私の英語勉強歴について紹介しないといけませんね。
私、実は中学の頃は英語結構得意でした。
調子に乗っていました。
ところが、高校時代に全て貯金を使い果たし英語が全くわからなくなってきたのです。
本当に英語嫌いになってました。
中間試験も期末試験も英語は100点万点で6点とかでした。
クラスの席替えでは一番後ろに陣取って早弁したり、碌でもない生徒でしたね。
ついに我が校の英語の権威とも言えるA先生が立ち上がりました。
「お前はこのままではダメになるから、英語の時間だけでも一番前の席に座りなさい。やればできる!」と言ったのです。
その指導に従って英語の時間だけ一番前に座るようになると次の中間試験で6点から70点台に急上昇!
期末試験では96点を叩き出しました!「凄い!真剣にやればここまで点数が上がるのか!」と驚く自分がいました。勿論A先生の教え方がよかったからなんですけどね。
これで少し英語に対してコンプレックスが無くなっていました。
そして自衛隊入隊。
とりあえず、ある程度英語はできると感じていたので管制官選抜試験を安易に受験したんです。
結果、合格したんですけど、英語に関しては茨の道が待っていました。
航空無線通信士もしんどかったんですけど、次のステージは更に過酷でした。
日本の英語教育では読み・書きが主流でしたから、無線で英語で話してパイロットに指示を出すというのが大変だったのです。
英語は当然話さなければならないのですが、勿論為すべき任務は航空交通の流れを作ることなのです。
複数のパイロットに対し英語で指示を出すわけですが、ポイントは如何に航空交通の円滑な流れを作るかということでかなり管制のセンスが問われます。
離陸機と着陸機、それらの航空交通と空域を通過する航空機との管制間隔の設定が重要です。
英語云々より管制間隔が設定できなければ重大インシデントとして国土交通大臣に報告されます。
ですので、英語で指示が柔軟に発出することができるように話の能力向上に努めなければ、マイクを持って「あー、あー、」しか言えなくなっちゃうんです。
航空機は常に動いてるので、それじゃあ当然指示出しも間に合わないし、先行性をもって考えないと20機、30機の航空交通を同時に捌くことはできないんです。
航空無線通信士の勉強しているときは読み・書き中心の勉強でしたが、実際航空管制のトレーニングフェイズに入ると話の能力アップに努めなければなりませんでした。
これが、最初に英語を話すために頑張った時期なんです。でも決まったフレーズだけなんですけどね。
でも決まったフレーズなのにマイクをつけると言葉が出ないんだなぁ。大変だった思い出がいっぱいです。
次回は、衝撃の大事件にとうとう起こります!乞うご期待!