度重なる衝撃
T-2の墜落は、本当に悲しい事故でした。
第4空団は教育部隊です。
それが松島基地の主力の飛行隊です。
勿論雰囲気は圧倒的に暗くなります。
事故調査委員会の調査及び航空自衛隊警務隊の捜査活動が同時並行的に行われるため重い空気に包まれます。
聞き取り捜査や調査の対象者ではなくとも自分に責任があったのではないか?と誰もが当該航空機の航行に携わった人間は思っていたと思います。
また、こんな時は様々な噂が伝播していきます。
機付長(自衛隊では、機付長といわれる2ないし3曹クラスが部隊から示された航空機を一元的に整備・管理している。
つまり飛行訓練の際はパイロットは機付長から愛機を借りて操縦・訓練するわけです)の整備がきちんとなってなかったんじゃないかとか、憶測だけで噂が噂を呼んでいました。
機付長本人の心痛たるや相当なものだったと思います。
機付長、本人は相当ショックを受けているのは間違いないし、自分を責めている可能性が高いのです。「パイロットの生命を失ったのは自分の過失なのか、愛機を失ったのは自分の整備不良に起因しているのだろうか?」
事故調査委員会の調査結果と警務隊の捜査結果が出なければどこに責任の所在があるのかはわかりませんが、なにか鬱々とした空気が流れていたのです。
その後、4月に入り、空自は約2週間の飛行訓練自粛を解き、それぞれの飛行隊は訓練を再開していました。
自治体やマスコミに対しては調査を継続中との報告をしておりました。
私は、無事松島飛行場管制限定変更試験をパスし、実務訓練の重点はGCAの方へ移行していきました。
ここで、空自におけるシフト勤務の形態について紹介したいと思います。
6日でワンセットとなっており、ファーストデイ、セカンドデイ、アフター、モーニング・スイング・ナイト、明け、オフの流れで勤務していきます。
このシフトで複数のクルーグループが勤務します。
ファーストデイとセカンドデイが土日と重なった場合はアフターとモーニング・スイング・ナイトのクルーが上番していますので勤務しなくてもOKです。
そのため、月に1回は3連休と4連休の日ができるので休みの行動計画は作りやすかったと思います。
このローテーション・シフトシステムにようやく体が慣れた頃、GCAの実務訓練を主に勤務するようになりました。
上番時は基本的にレーダーで勤務し、夜勤のときだけタワーで勤務するという流れになっておりました。
夜勤時は滅多に航空機の管制はありません。
特に松島飛行場に離着陸する航空交通がない限りは自分の持ち場で待機して朝を迎えるという流れです。
私は、ナイトシフトの時は、基本的にタワー勤務なのですが、レーダー要員と交代をしてもらいレーダー管制室(IFR室)でシミュレーション訓練を実施しておりました。
GCA訓練に努力を傾注し、ようやくそこそこ管制になってきたと感じてきた頃、梅雨の季節を迎えました。
梅雨時期は、視程不良の日も多く、当然雲高も低いため有視界飛行方式で飛行するのが困難になります。
気象条件が有視界飛行方式要件未満の場合は、計器飛行方式で飛行しなければならず、その場合は、埼玉県所沢に所在する東京管制部(東京コントロール)から管制許可をもらい航空機を離陸させる必要があります。
訓練空域は高高度空域が設定されているので、そこでは有視界飛行方式により警戒管制のコントロールのもと訓練を実施します。
勿論、基地帰投時はレーダー管制及びGCAにより計器飛行方式で着陸させます。
夏も近づくこの時期、太平洋側は天候不順によく陥ります。特に厄介なのは、海霧です。
これは、温かく湿った空気が冷たい海面に接することにより霧が発生し、微風により陸上に運ばれ、視程が数分から数時間の間に極端に低下し、ひどい時は視程0mとなる場合もあります。
当然、各飛行場に配置されている気象予報官は神経をすり減らしながら日々の予報業務と格闘しなければなりません。
精神的に参る人も多いと思います。
パイロットも管制官も訓練開始若しくは上番前には必ずブリーフィングを実施し、本日の気象特性、訓練特性を踏まえて注意喚起事項を明確化し実務に就きます。
陸上自衛隊では、主力航空機がヘリであり、航行援助施設も航空自衛隊の基地に比べ充実していないため、主に有視界飛行方式で航行する航空機の管制となります。
そのため、気象現況が悪くIMC(計器気象状態)とのブリーフィングを受けると途端に緊張し心拍数を上げながら業務に従事することが結構ありました。
そしてまだ梅雨明けしない7月4日のことです。ここで、衝撃の事故が起こったのです。
7月4日と言えばアメリカの独立記念日です。
この日は朝から上番でした。上番前のモーニング・ブリーフィングの最中に、クルーの中の先輩であるY2曹(私が松島でお世話になっている間に1曹に昇任した)が、「今日は何か気を付けなあかんぞ~。」って言い始めました。
なんのことかと思っていたら、「9年前の7月4日にブルー2機墜落しとるから気を付けないかんぞ~。」って衝撃の事実を話し始めました。
この原因は海霧で空間色失調(バーディゴ)に陥ったため起きた事故ということでした。
折しもこの2000年7月4日の気象予報では海霧による安全航行への影響が懸念されていました。
私は、さほどそれを気にすることなくGCA席に着き、21飛行隊のリカバリー(学生パイロットは確実にGCAリカバリーを要求する)に対しスタンバイしていました。
「全機GCAリカバリー要求してくると思うけど何機担任するだろう?」とドキドキしながらレーダー画面を見いってました。
学生機が訓練空域で訓練の最中にブルーインパルスは金華山沖若しくは松島飛行場上空で訓練します。
レーダースコープを見ながら「そろそろブルーの帰投時間だ。ブルーは多分GCAアプローチは要求してこないから学生機に対して準備をしておこう。」と思い、学生機のレーダー機影を探し始めていました。
管制官はどの席についても自分達が実施している管制無線を聞きます。
私もタワーの無線を聞きながらブルーの着陸進入に関する指示等に聞き入っていました。
ブルーインパルスは計6機で訓練をします。
ブルーリーダー率いる4機編隊と2機のソロです。
無線に聞き入っていると編隊リーダーから「有視界でのアプローチが難しいので一旦南下し仙台沖に出てから北上して着陸を試みたい。」との要求がありました。
管制官は「レーダー進入しますか。」と問いかけましたが、頑なに有視界での進入を試みる旨を通報してきたため、管制塔とコンタクト取るように指示しました。
残るソロの2機も有視界でのアプローチを試みるという旨を通報してきました。
ところが気象状態は海霧によって視程・雲高は悪化していたのです。
この海霧の中、有視界気象状態を維持して飛行しようとし、機の高度を下げすぎた結果最悪の事態が発生したのです。
編隊の4機がなんとかVFR(有視界飛行方式で着陸)したものの、5番機及び6番機が着陸を試みようとしていたころ天候は悪化の一途をたどっており管制官達も心配しておりました。
私は、個人的に「IFRで帰投すればいいのに。」と思っていましたが、当該2機はVFR帰投を通報、レーダー管制官は「Maintain VMC, contact Tower.」と指示し管制塔とコンタクトするように指示をしました。
その瞬間です。
レーダー管制官が、「ブルーの機影が消えたっ!」と叫んだのです。
管制所では、機影が事故等により消えた場合、若しくは遭難信号等を受信した場合は、警報が鳴ります。
私は、「まさか。」と思いましたが、クルー全員の焦りと緊迫したやり取りにこれはとんでもないことが起きた、と思い始めたのです。
管制隊本部からは「現在上番クルーは次のクルーに学生機のリカバリーの申し送りを緊急に実施、下番せよ。」との指示が来ました。
明らかに動揺している管制官が多数おりました。
このような緊急事態が生起すると航空自衛隊基地では当該状況について一斉放送が流れます。
当然リカバリーの学生機も状況を把握し始めているので否が応でも飛行場は緊張に包まれます。
そんな状況の中でも学生機は全機無事着陸しました。
しかし、ここからの出来事が自分の心に大きくのしかかってきたのです。
続く