説明しておくべきだと思った。 | lamer1971のブログ

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君にとって哲学とは何かね?博識なのはわかるが、何のためかわからない?

それはね、100年前のベルグソン、ハイデガー、ヴィトゲンシュタインの時代には切実な問題であり、切実な思考の経緯だとは認めるのだけど、現在においては、哲学は考古学だな。歴史学というより、考古学かな。昔の人は、昔の人なりに切実にものを考えていた、その思考方法を追体験するという意味はあるけれど、現在に意味はない。歴史学は、現在にも影響を及ぼすという視点があるけれど、考古学は失われた世界の再現に重きを置くから、考古学だと思う。

だから、古文書の暗号解読みたいな古代ギリシャ語、ラテン語の勉強が哲学科で必要になるんだよね。まさか、アリストテレスが現在でも妥当で説得力ある内容を語れるわけないので、それは大過去で追体験するという意味がある。

だから、日本語は時制と接続法が発達していないから、「昔の話」というジャンルは、本気で受け止めてしまう人がでかねないから、注意書きが必要になる。それもその都度、説明を惜しまない注意が必要だ。これは昔の話だよ、という注釈つけないと、ネット初期から哲学ブログとかやっている人みたく病的な日記を世間にさらすことになる。あれは時制が貧困な日本語だから起きる現象だと思う。それと接続法がないから、「お話の上では、こうなる」と示せないから、地の文だと勘違いする人が出てくる。文学でも論争がすれ違いになるけれど、自称哲学者が文芸評論とかに出没するけれど、それは過去の話だという断り書きを無視した理論を滔々と展開して文士になりおおせる。迷惑な話だと思うよ。

それじゃ、100年前は大切だったという文脈で読んでいたということですね?それじゃ、ただの趣味では?

だから、趣味だと言っている。人生の本質はそこにない。100年前の人たちにはあったのかもしれないと思うけれど、煩悶する青春はそこにない。だから、古文書解読という趣味があるというだけ。

それは全共闘世代の人には理解不能だわ。それを理解してくれというほうが無理筋だと思う。だって、彼らにとって哲学は「現実」だったわけだから。

サルトルかよ。サルトルは学者じゃなくて著述家だよ。自分でアカデミズムを去って、講談哲学者になったのだから、一文人だよ。まいったな、読書として読んだんじゃないのか?

だって、サルトルの翻訳チームは、早稲田の仏文科でしょ?本気だったんですよ。本気で翻訳した。

だから、故大島監督がサルトルにかぶれていたのか。いいよ、その時代のことは、その時代にしかわからないから。僕も否定はしない。本気だった時代がある、ってことは理解している。ただし、僕に押し付けないでほしいというだけだ。気持ちはそこにないから。