何をどんな風に表現してもいいという

まっさらな時間空間では、

どんなに思考を駆使して話し続けようとしても、

いずれどこかでその流れは緩やかになっていき、

やがて表現の先端に、自分自身が表現者としてついていくような

不思議な逆転現象のようなものがやってきたりします。

 

 

(屋島の古樹に咲く桜の花)

 

 

最初は、あらかじめ考えていたことを自分主体で話していたとしても、

そのうち、自分の口からどんな言葉が出てくるのか分からなくなる...

そして、

話しながら同時に、その話していることを初めて知るように我が耳で聴いていたり、

そんな風に感じているのかと、どこか俯瞰的な視点が自分の中に生まれていたりというようなことが起こってくるのです。

 

カウンセリングワークの時間は、

その方独自の表現の流れが如実に顕れてきますが、

この気づきの最先端に立つような視点が顕れ始めてくると、

浄化や変容、昇華が起こりながら、

どこか新しい境地にストンと着地している不思議があったりすることを感じます。

 

 

 

(屋島城跡付近)

 

 

エネルギーの新陳代謝は目に見えない分、

表現を通して自浄作用が促されることは、何よりの手応えであり、また滋養であり、

同時に得られる気づきは、

人生を生きるオリジナルの叡智を

他でもない自分自身の奥から見つけていく喜びがありますね。

 

 

 

(屋島寺境内の可正桜)

 

 

また、どんなことをどんな風に表現していても、

そこにはそれが言葉になって出てくる意図が明確にあり、

その意図に気づくことと

今の自分を知るということは、

とても近しいような気がしています。

 

 

 

 

 

 

そして、意図と自身が気づきによってピタリと一致するとき、

やはり

浄化や変容、昇華が起こりながら、

どこか新しい境地にストンと着地している不思議があるのです。

 

 

 

 

 

 

↓日常の徒然を書いています。