ごめんね ありがとう そんなもんだ | あなたに逢えてありがとう・゜゚。.*・'・*♫

母がこの世から旅立って 5回目の日曜日です


丁度3月31日の丁度今頃息を引き取ってのかなぁ


誰も周りに居ないベッドで独り

眠るように…

というか 眠ってて そのまま…   だったの?



当然一睡も出来ないまま迎えた翌日4月1日

朝1番の新幹線に乗り長岡に着いて

乗り換えた電車の窓からのいつもの景色

見慣れた景色だけれどなんだか無機質な感じ…

これからもずっと毎月母の面会に行く為この景色を見るものだと思い込んでいた それが判った

もう面会を口実に故郷の地を踏むことはないんだ、、、。



実家に着いて

いつになく静かな感じがした


座敷に布団が敷いてあるのが見えた


母は冷たかった

母ちゃん 家に帰って来れたね 本当は…。


いつもと同じように 

いや いつもよりも 血色良く 痛みがない?眉間の皺がない スースー寝息が聞こえる?


でも やっぱり 母は冷たかった 

凄く冷たい 

(後で解った 沢山のドライアイスを着せられていた 覆われていたが正しいのかな…)



葬儀屋さんが来て これからの段取りの話になった




母から最後の着信 3月21日 仕事で出られなかった。

今仕事中とメールを入れて 

仕事が終わって疲れてるし家に帰る時間も過ぎてるし 折り返しの電話を入れなかった いつもと同じような電話と思って また用事ならまた来ると思って、、、(リウマチでとっさの電話は出れないし そういえば最後の電話の時は喋るだけ喋って 人の気配がして もういいです とか聞こえて切れたから もう携帯が持てなくなったのかも…)

その後3日経っても電話がなかった

で、私は24日日曜日に特養に電話を入れ 本番が終わった2日に面会の予約をし どうせなら翌日も面会したい!とお願いしたら 同じ人が二回って2週間開けないとダメなんだって‼️

…決まりですからと強く言われ 一回引き下がったけど 何故かいつになくその時の私は強かった 交通費かけてわざわざ行くのに ましてたった10分のため 泊まって翌日の面会はダメなんですか⁉️所長さん出して下さい‼️…

で、翌日3日も面会の予約入れたんだよ 母ちゃん

で、私は 元気?電話もくれないけど 4月2日に会いに行きます とメールを入れた

いつもだったらメールを入れると一両日中には電話があったのに でも 母からは何もなかった。

で、私 母は私が会えると判り安心して何も言ってこないんだろうと思うことにし 31日の二つの本番の練習に集中したのでした。


こんな感じに 亡くなる前10日間 連絡を取らなかった後悔

せっかく面会を予約していたのに 叶わなかった無念

そして誰にも看取られないまま逝かせてしまった母の寂しい死の現実


亡くなったと連絡があってから

この三つの負の気持ちがずっと 私の頭の中に重くのしかかっていました、、、


それで 葬儀屋さんの段取りの話で 友引きが入り火葬場が既に混んでいるからと早い葬儀の日を提案されましたが、私は せっかく来て 本来は2日3日は会えるハズだったのだし だから私は1日遅らせて貰うようお願いしました。


だから ゆっくり 

毎日母の脇に寝て お別れの日まで ゆっくり 過ごすことが出来ました。



父が亡くなって以来 関係がギクシャクしていた弟夫婦でしたが 葬儀の段取りは逐一私の考えも尊重してくれて穏やかに話が進み 食事の時は昔話に花が咲き なんだか楽しい?お嫁さんもニコニコ顔だし 隣の部屋で寝ている母も笑顔で聞いている感じ  母ちゃん 一緒だね

(実は この葬儀の準備をしていての2日目 弟から重大な悩みを打ち明けられました いつか記事にすることになると思いますが)




4月4日 通夜 儀式は滞りなく済み

夜は私と息子 弟の息子2人 そして母の妹2人6人で夜通し過ごしました

5日の葬儀も 穏やかな空気の中母を見送ることが出来ました。


母は 箪笥職人だった祖父が戦後時代の波に乗るべく建具職人になった父と父の兄弟2人も加わり木工所として生まれ変わり営業 そこに祖母の従姉妹のしっかり者の娘の母が縁あり嫁ぎ 病弱な祖母に代わり姉様として幼い叔父叔母の面倒をみながら家事全般を担い私達を育て上げ そしてリウマチが出るまでは自分も労働力として 病気が出てからもずっと父事務所で父を支えて来た母でした。



父の晩年の頃は 事務所に行くと必ずお客さんか近所の人が入れ替わり立ち替わり 歓談をしており 私は喫茶フミだね なんてよく言っていたものです。

そんな母ですから 歳も歳だし今の時代です簡素な感じが多いみたいですが、家族を主体としても母と心を通わせた人には一緒にお別れを という気持ちが強く 私家族と弟家族はもちろん 母方の親戚 そして長年仕事も親戚としても一緒に過ごした父方の親戚 そして一緒に歳を重ねた母の友達やご近所さんも と 沢山お別れに来て下さいました。



葬儀が終わり火葬場に向かう車には 思い出の工場の脇を通って貰い

そして お骨になった帰り道は 母の実家の方を車で回って貰いました。



そうそう 私 

お骨拾いの時ね 母は綺麗な姿で戻って来たのですが、両足膝と左股関節に入れてあった人工関節がね あぁあこんなのが入ってたんだ とみんな感慨深く見入ったくらい綺麗にあって

そしたら 職員さんが 人工関節はお骨と一緒に骨壷に入れてもいいし お持ち帰りされてもいいしと…

なら ってことで 私 綺麗なセラミックで出来た股関節の方を形見として持ち帰らせて頂きました。

って ことで 今我が家には母の写真の前に こんな形↓の長さ15センチ 球3.4センチくらいの物が紙に包まれて置いてあります。

ま、私以外の人には無用な物でしょうが、私として最高の形見 いつか私が歳をとって これが最後の母の墓参りという時にでもお墓に納めましょう。


驚いたのは膝の人工関節もこの股関節の方もかなり重いということ リハビリ大変だったと思うし 身体を支え動かす関節 やっぱりこんなにしっかりしてないといけないんだな と改めて思いました。



ってことで 今日のブログ かなり長くなりました 二回に分けて書こうとも思いましたが、心の整理にもなるので一気に書き上げちゃいますね。

おそらく ここまで読んで下さった方 私の文章が書き始めより 変化し大分楽になってるのにお気づきではないでしょうか


葬儀が終わった1週間後再度長岡にお経に預り後始末に戻った前日 眠れず1人で友人がやってるBARに行った時 憂鬱な顔をしていた私 たまたま次に入って来たお客のお医者様に 母が亡くなり私がさっき記事で述べた 三つの後悔 に苛まれてることを話したら そのお医者様が静かに話してくれました


看取れなかったなんて後悔なんてしなくていい 80歳を超えたら 例え自宅だろうと病院だろうと施設だろうと だいたい 朝起きたら死んでた そんなもんだ 顔 穏やかだっただろ それが全てだ そんなもんだ それでいいんだ



ですって。

1人で私BARとか不謹慎?とも自分でも思いましたが 

私 このお医者様の言葉を聞く為に ここに来たんだな と強く思いました

それで 私は大分心が救われたのでした


そして 今日 こうやって母の死を記事にして

最初は今日も無理かなともよぎりましたが

 振り返って 書き進めていくうちに 母の死を受け止められるようになれたのかもしれません。

寂しいですが、母はやっぱり亡くなったのだと

涙の数もだいぶ減ったこの頃ですし



母が亡くなり5回目の日曜日 三十五日経ちました。